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――3階 ロビーにて


 一方、イーオンたちはナースステーション内部を窓から覗き込み、様子をうかがっていた。廊下が明るいのに反して、ナースステーション内部は暗い。廊下の明かりが届かない部屋の中央で、日常業務を行っている5人の看護師らしき人影があった。
「妙だな」ぽつり、イーオンがつぶやく。「下の階で爆発が起きたのだ、看護師や医師といった者たちは下に向かっていてしかるべきじゃないか」
「ええ。それに……気付きましたか? 彼女たち、暗いなかであかりもつけずに平然と書き物をしたりカルテを読んだりしています」
 セルマの指摘にイーオンも同意するように彼を見た。
「やはり彼女たちもただ者ではないな。今は、あの謎の敵と同様と考えるべきだろう」
 セルマも同意し、2人は作戦にとりかかった。
 男子トイレの前まで距離をとったセルマが大きな声を出す。看護師たちが誘い出された隙にイーオンとパートナーのセルウィー・フォルトゥム(せるうぃー・ふぉるとぅむ)がなかへ入り、懐中電灯を取ってくるという寸法だ。本当はとなりの面会室から何か持ち出したかったのだが、施錠されていてドアが開かなかった。夜間はそうなるきまりなのかもしれない。
「看護師さん、大変な事が起きました! こちらに来てください!!」
 イーオンがドアから死角の位置についたのを見て、声を張る。うす暗いナースステーションのなかにいた看護師たちが一斉に同じ反応をした。手元の書類から目を離し、セルマの方を向いて立ち上がる。一糸乱れないその動きも不自然だったが、さらにその後続く動きがセルマの目を奪った。
 ぎこちない動きだった。まるで手足や背中に針金を縛りつけられ駆動する部位が限られているかのような、いつ倒れてもおかしくない不自然な歩き方で机を回り、戸口へと集まる。しかしなぜか、だれもドアを開けようとしない。
「イーオン」
 ぴたりと止まった足音に、中の雰囲気を察してセルウィーがつぶやく。
「もしかすると彼らは、光の下へ出られないのではないでしょうか」
「ふむ」
 今廊下は電灯のあかりに照らされていた。十分考えられることだ。
 彼らを出さなくてはならない。どうしたものか――思案していたとき、運が彼らに味方した。廊下の電灯がフっと消えたのだ。またもや点在する常夜灯のぼんやりとしたあかりだけが灯る、うす暗い空間へと変わる。がちゃりとドアノブの回る音がして、看護師たちがなだれ打つように廊下へ出てきた。
 ストップアニメーションのようなかくかくしい動きながらも歩くスピードは速く、5人の看護師は廊下いっぱいに広がってセルマに詰め寄ると、手にしたカッターナイフやペンで襲いかかろうとする。5人の注意が彼のみに向いているのを確認して、イーオンとセルウィーはナースステーションへ忍び入り、懐中電灯を探した。
 もともとそういった物は隠されておらず、非常時に手にとりやすい場所に設置されている。蛍光塗料が塗られていることもあり、彼らはすぐ見つけることができた。
「ありました」
「よし」
 各座席を回り、椅子をどけて足元に設置されていた小型の懐中電灯を人数分回収した2人が立ち上がる。そのとき、イーオンは自分を振り返ったセルウィーのほおが強張るのを見た。
 彼が振り返るよりも早く、懐中電灯を握ったセルウィーの手が彼のすぐ真後ろ目掛けて突き上げられ、そこにいる何者かに打撃を仕掛ける。しかし攻撃は空振りに終わったようだった。すばやく横に逃げたイーオンの視界に、白い何かで四角く塗り固められた頭部の女の姿が入る。顔は分からないが、肉体は女性のものだ。パレオのような腰布のほか、胸に白布を巻いている。身長はイーオンよりはるかに高く、天井に頭頂部がつきそうだった。
 今、白い四角頭の女は自分の顔の横すれすれに突き出されたセルウィーの手首を掴み、ギリギリと締めつけていた。セルウィーは1音も漏らしていなかったが、震える腕と細く締まった目が苦痛を物語っている。
「セルウィー! くそっ」
 がら空きの腹部目掛け、イーオンも懐中電灯を鈍器として殴りかかったが、長い腕のひと振りで払い飛ばされた。
「イーオン!」
 机に激突した彼に、セルウィーは駆け寄ろうとしたが敵が腕を離してくれない。このままでは握りつぶされてしまう。そう直感した彼女は、感覚の失せた指でどうにか懐中電灯のスイッチを入れることに成功した。
 光が生まれた瞬間、白い四角頭の女はその場から消える。
「イーオン、無事ですか」
「ああ…。今のやつが、例の襲撃者か」
「おそらくは。ですが今はそれについて考察するより、セルマ・アリスの支援に向かわなくてはならないかと」
「そうだな。セルウィー、あかりを絶やすな」
「分かりました」
 2人は懐中電灯のあかりをつけたまま、廊下へ飛び出した。ロビーをはさんだ向こう側、東の廊下の入り口付近でセルマは5人の看護師を相手に戦っていた。半円状に囲まれ、5対1という人数差に加えて丸腰というハンデがありながらも防御に徹することでどうにかしのいでいる。
「セルマ・アリス! これを使え!」
 イーオンが懐中電灯を放った。看護師の頭上を越えて届いたそれをセルマは両手でキャッチし、すぐさまスイッチを入れる。イーオン、セルウィーの持つ懐中電灯のあかりとで前後を挟まれ、看護師たちはピタリと瞬時に動きを止めた。1人など、ペンを逆手に持ち、アイスピックのようにセルマに突き立てようとした状態で止まっている。まるではじめからそのポーズをとっていた石像のようだ。
「助かりました、イーオンさん」
 ほっとひと息ついて、笑顔を見せたときだった。
 その緩急の隙間をねらったかのように、背後の影から伸びた蝋のように白くて細長い両手がセルマの首へと貼りついた。
「!!」
 口とのどをふさいだ両手は、そのままセルマの首を折ろうと力をこめる。
「させるか!!」
 奥の通路から駆け戻ってきた陣が叫んだ。
 ユピリアが『汚物処理室』から持ち帰ってきていたエタノールを浸した新聞紙のボールを、ユピリアが張った点滴チューブのゴムで飛ばす。即席のパチンコだ。それをセルマの頭上、腕の主の本体があるあたりをねらって飛ばし、当たる寸前朱の飛沫で着火した。
 火の玉と化した新聞紙ボールは、しかし抵抗なく闇を突き抜け、向こう側の床を転がる。セルマを引きずり込もうとした何者かが撤退する一瞬に、陣は白い四角頭の女を目撃した。
「なんだありゃ…」
 我が目こそ疑う思いで手でこする。
「大丈夫ですか、セルマ・アリス」
 石像のような看護師たちを押しやり、近付いたセルウィーが喉をつぶされかけて咳き込むセルマの背中をさすった。淡々とした声、表情からも感情が欠落していたが、その手には思いやりがこもっている。
「うん……ありが、とう。もう大丈夫」
 セルマの息が整うのを待って、彼らは通路奥の非常口を目指した。セルマを先頭に陣とユピリアが左右、イーオンとセルウィーが背後と頭上を懐中電灯で照らして、できるだけ闇を作らないようにする。
「そろそろ光が届かなくなる。やつらが動き出すぞ」
 看護師たちを見据えつつ、イーオンが言った。彼は手を伸ばし、できる限り広範囲に光を当てていたが、光は拡散されて弱々しい。彼らが遠ざかり、闇が深まるにつれて看護師は再び活動を始めようとしていた。
 やがて看護師の姿は闇に飲まれ、ついに彼らが動き出したかすかな音が聞こえてくる。彼らはマネキンのように動きはぎこちなかったが、スピードはあった。神出鬼没の敵に注意しながらの逃亡では、すぐ追いつかれてしまうだろう。
 だれもがそう悟った次の瞬間、ユピリアが足を止めた。振り返り、闇を睨み据えて仁王立ちする。
「ユピリア?」
「ここは私が食い止める。その間に皆は行って」
 その声に、陣は釘づけとなった。
 もう何年も気が置けない間柄で長く過ごしてきて、初めて聞いた覚悟の声だった。
「……ばか言うな」
「私、強いから。陣も知ってるでしょ? だから大丈夫!」
「そりゃ武器もスキルも使えた場合だろうが! 向こうは5人もいるんだぞ! おまえ1人でどうにかなる相手か!!」
 蒼白した陣に怒鳴られ、真っ向から否定されて。心配いらないとの強気の笑みが、にじむ涙で崩れた。
「……だって、陣。あなたには生きてほしいのよ」
 普段の彼女からは想像もつかない心からの真摯な声に、陣はチッと舌打ちを漏らすと床一面新聞をばら巻いた。
「ばかやろう! 俺たちは2人でここを出るんだろ!! おい、セルマ!」
「はい?」
「俺とこいつはここで時間稼ぎしてくから、おまえたちは行って脱出法を見つけるか、助っ人を探してくれ」エタノールを全量ふりかけながら言う。「ある程度足止めしたら、すぐ追いかける」
 ここにいるのはあの5人だけじゃない。無茶だと言いかけた言葉を、セルマは飲み込んだ。ここで全員が立ち止まって全滅するか、1人でも生き延びられる可能性に賭けるか。それは火を見るよりあきらかだ。
「分かりました。
 行きましょう、イーオンさん」
 固い声音で告げると、セルマはイーオンたちがついて来るかの確認もせず、走り出した。彼が賛同するのは分かりきっている。彼は理解している。自分を助けられない者が、人の命を左右しようとするなどおこがましい。行くも残るも選択するのは「自身」だと。
 イーオンは陣と目を合わせ、わずかに頭を下げると立ち去った。
「陣、本当にいいの?」
 遠ざかる3人の背中を振り返って、ためらいがちにユピリアが問う。
「あ? いいも何も、俺ぁ死ぬ気はねーぞ?」
「陣っ!
 そうね! それこそあなたよ! 私たち、一緒にここを出るの。そして無事助かったら、今度こそ私たち――」
「だから死亡フラグを立てるなと言ってんだろーが」
 ようやくいつもの調子を取り戻したようだ。やれやれと内心思いつつ、朱の飛沫を放つ。
「気合い入れろ、ユピリア。てめーの分は受け持てよ。俺はきっちり自分の分しかしねーからな」
 さながら生と死を分ける分岐線のように燃え上がった青白い炎によって、近付いてくる看護師たちの姿が浮かび上がる。足元の床を明るく照らす炎の存在に彼らはたたらを踏んで、そこから先踏み出すのをとまどっているように見えた。
 やつらは炎と光に弱い。そして自分たちには懐中電灯がある。決して分の悪い戦いじゃない。己に言い聞かせるようにつぶやくと、陣は彼らをにらみつける。開戦は炎が消えたときだ。そしてそれは、もうすぐそこに迫っていた。