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55


 店のドアを開けると同時に、
「こんにちはフィルさん。お願いがあるんだけど、いい?」
 ルカルカ・ルー(るかるか・るー)はフィルに問いかけた。
「内容にもよるけどー」
「部屋を貸して欲しいの」
 部屋というのは、フィルが情報屋の仕事をする際に使う部屋のことである。店の奥、厨房に入ってすぐ右手にある小部屋。
「今日はそっちの仕事ないし、厨房を歩き回らないならいいよー。でも使用料取るからね☆」
 さすがフィル、しっかりしている。ルカルカもそう言われるであろうことは予想していたので、既に封筒に入れておいたお金を渡した。アポも取らず突然の頼みだったので、少し多めに包んである。
「それでお願い」
「おっけー♪ どうぞお使いくださいませ♪」
 綺麗な接客スマイルを浮かべたフィルが、手のひらで店の奥を示した。促されるまま奥へ向かったのはダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)メシエ・ヒューヴェリアル(めしえ・ひゅーう゛ぇりある)、それから彼らと深く付き合いのある美女――リージャ・オーレリアの三人だけだ。ルカルカとエース・ラグランツ(えーす・らぐらんつ)は店の入り口から動かない。
「ルカちゃんたちは行かないのー?」
 フィルの問いかけに、ルカルカはうん、と頷く。
「とりあえず、ルカたちは居ない方がよさげだから」
「俺としてはお茶くらい淹れたいんだけどね。邪魔しちゃ悪いっていうんで、これから祭りに行こうかと」
「そっかー。楽しんでおいでねー」
 ばいばい、と手を振るフィルに振り返し、エースと並んで店を出た。


 店内も静かだったが、さらにその奥の部屋ともなると輪をかけて静寂に包まれている。
 情報屋の仕事に使う部屋なら、恐らくは防音処理もされているのだろう。時計が時を刻む音だけが部屋に響く。
「久しぶりね」
 沈黙を破ったのはリージャだった。微笑み、ダリルに近付いてぎゅっと抱きしめる。恋人同士がするような抱擁ではなく、挨拶やコミュニケーションに近いものだった。
 それでも、昔ならば違う風に捉えたのだろうか。
 あの時どう感じたかを、ダリルはもう思い出すことができない。あの頃の気持ちが蘇ることもない。
 機械的に、知識から反応をなぞるだけ。
 それに抱擁はすぐに終わった。ほんの一秒程度だ。次にメシエに向き直り、再びぎゅっと抱きしめる。
 メシエはダリルと違い、抱擁の後リージャの手の甲にキスをした。貴族がする類のもので、強い親愛の情が見て取れる。
「君にまた会えて嬉しいよ」
 優雅な微笑みも、貴族的なもの。
「嬉しいわ。貴方が気にかけてくれるから、今もこうして『私』という自我が完全に散逸しないで済んでいるのね」
 対するリージャも、にこりと綺麗に微笑んだ。
 気にかけている、というのは墓参りのことだろう。リージャの墓へまめに通っているのは知っていた。
「さあ、座って。レディを立たせたままでいるなんてとんでもないことだ。それから美味しいケーキをご馳走しよう。ここのケーキの味は私も認めているんだ。紅茶も美味でね。何がいい?」
「そうね。じゃあメシエのお勧めをお願いしようかしら」
 わかった、と言ってメシエが部屋を出て行く。
「心配しているの」
 二人きりになった途端、リージャがぽつりと呟いた。
「メシエは、私のことを気にかけてくれている。それはとっても嬉しいことだわ。
 ……だけど、そうやっていつまでも過去に縛られ続けてほしくないのよ」
 彼女らしくない、小さな声だった。


 ケーキと紅茶を用意して戻ってきたメシエは、自身の近況をひとつずつ話すことにした。
 エースたちと一緒に、時々事件に巻き込まれたりしていること。
 タシガンから空京に居住地を移したこと。
「充実しているのね」
 リージャが微笑んだ。けれど、メシエは申し訳なく思っていた。
「君の眠る場所にいける時間が少なくなって済まない」
 以前なら頻繁に通えたのに、そうはいかなくなってしまって。
「でも、いつも君のことを考えているよ。片時も忘れたことはない」
 本心から微笑んだ。
「それから……近況といえば、ダリルには将来を誓い合った娘が居るんだよ」
 彼と同じ剣の花嫁でね、と紹介を続ける。
 突然こんなことを話し始めたのは、ダリルの心変わりをリージャに報せたかったから。
 彼女のことを想っているのは、自分だけだと知ってもらいたかったから。
「そうなの?」
 少し驚いたように、リージャが目を開いた。
「言うようなことでもないだろう」
 ダリルが睨むようにこちらに視線を向ける。
「隠すようなことでもなかろう」
「そうよ。貴方の近況も知りたいわ。教えて?」
 リージャに促されてしまっては、ダリルも答えざるを得ない。
 遠距離の関係ではあるが、心を許したことをぽつりぽつり、語る。
「そう……なら、貴方たちの子としてこの世界に戻ってくるのもアリかしら?」
 話しを聞いたリージャが、少女のように無邪気な笑顔で言った。
「生憎、子供は当分予定していない」
「そう、残念」
「なんならナラカに迎えに行くが?」
「ふふ、結構よ。それに今の私は生きていた時の私の全てではないのね。貴方達と私の心残りの部分が残滓として虚ろに在るだけだもの。自然の理を捻じ曲げることは駄目よ」
 はきはきと喋るリージャを見ていて、なんとも言えない気持ちになった。
 リージャを取り戻したい。
 ナラカから、この世界に。
 だけどそれはエゴだ。遺されたもののそんな勝手な都合で死者を蘇らせることは自然の摂理に反するし、彼女もきっと望んではいない。
 わかっているのに。
 ――未練か? それとも我儘か。
 自問して、苦笑。
「メシエ?」
「うん?」
 長く黙っていたからだろう、リージャが怪訝そうにこっちを見ていた。
「大丈夫?」
 その一言に、どれほどの意味があったのだろう。
 ――大丈夫じゃないさ。
 ――君を欲して止まないんだ。
 だから、最初に触れて以来彼女にはほとんど近付いていない。
 触れたら、抱きしめたら、理性が負けてしまう。彼女を手放せなくなる。それだけならまだしも、彼女が望まぬ姿にしてでもこの世に縛り付けようとするかもしれない。
 ああ、本当に、この気持ちはどうしようもない。
 けれどそんなこと言えるはずがなくて。
「大丈夫だよ」
 笑顔の裏に全て押し込んで、メシエは笑った。


 時間は、あっという間に過ぎていった。
「そろそろ帰る時間ね」
 言って、リージャが立ち上がる。ダリルが時計を見ると、二十時半を回ったところだった。
 部屋を出て、店を出て。
 外では花火が上がっていた。賑やかな祭りも、けれどそろそろ終わるだろう。
「リージャ」
 ダリルは空を見上げるリージャに声をかけた。うん? とリージャが振り返る。
「君のために作られたことに――出会えたことに、感謝する」
 今日ずっと、伝えたかったこと。
 ゆっくりと、リージャに告げる。
 それからもうひとつ、どうしても伝えたいことがあった。
「君を愛して良かった」
 言葉と同時に抱きしめた。
「ダリル。過去に囚われないで、未来に向かっていくのは素敵なことよ。経験という形で貴方の中に私が残り続けるのは嬉しいわ」
 抱きしめ返しながら、リージャが言う。
「だからね。貴方のこれからを生きて。それから、――」
 最後、ダリルにしか聞こえないように小さく囁かれた言葉に、頷く。
「じゃあね」
 ばいばい、と手を振ったかと思うと、リージャの姿はもうそこにはなくて。
「…………っ」
 メシエの息を呑む音が、聞こえた。
 唇を噛み締め、眉を寄せ、辛そうな顔でリージャが居た場所を見ている。頬には一筋の涙が伝っている。
「泣くな」
「泣いてない」
 嘘つき、と心の中で言ってから肩を抱いた。胸を貸す。
 『メシエのことをお願いね』。
 最後にリージャが言った言葉。
 ――頷いたんだ。守ってみせる。
 だから、かつての自分だったらたぶんこうしたのだろうという予測のもと、動く。
「お前にはわからんくせに」
 八つ当たりのような、理不尽な文句も想定内。
 しばらくして落ち着いたメシエがふうっと長く息を吐いた。
「今日は俺達の家に泊まっていけ」
 見計らって、ダリルは声をかける。
「そんな無様な泣きぬらした顔、エースに見られたくないだろう?」
「君に私のことを把握されていると思うと癪だが、その言葉には甘えさせてもらおうか」
 不遜な言い回しも、やっぱり想定内。
 なら行こう、と立ち上がった。
 空はもう、静かなものだった。