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第二章 賑やかなる日 3

 うずまき通りを歩いていた最中、神楽坂 翡翠(かぐらざか・ひすい)がふいに足を止めた。
 突然のことで、一緒に歩いていたレイス・アデレイド(れいす・あでれいど)柊 美鈴(ひいらぎ・みすず)は反応できない。思わず翡翠の背中にぶつかりそうになった。
「おい、どうしたんだよ、翡翠。なにかあったのか?」
「これ、なんだか面白そうだと思いましてね」
 翡翠は横にあった小さな店を見ながら言った。
 それは写生屋だった。お客から人物や風景画の要望を受けると、それを紙に描いてくれる店だ。それなりに繁盛しているのか、狭い店内には客の姿がちらほら見える。レイスは店の中にたくさんの画材が並べられているのを見て、すこしだけ興味が湧いた。
「こういうところは、その国や町にしかない画材とかもあるんだろうな」
「そうだ。もしよかったら、レイス、ここの主人に画材を借りて地図を描いてみてくれませんか?」
「なんだって! 急になに言い出すんだよ、おまえは」
 レイスは思わず大声をあげて、しかめっ面になった。
 そりゃ、地図は前にも描いたことがある。だけどそんなもんはお遊びというか、単なる内々で使うだけの趣味レベルなもんだし、こんな立派な店で描かせてもらうようなものじゃない。レイスは言うけれど、翡翠は「大丈夫ですよ」と言い返して、さっそく店の人に交渉を始めた。出来れば、断ってください。願ったけど、あっさり店の主人は承諾してくれた。むしろ大歓迎という様子だ。
 レイスはしかたなく店の隅を利用させてもらい、画材を借りて地図を描くことになった。
「まったく、勘弁してくれよ……」
 イスに座って、どさっと荷物を置いた。
 レイスは口は悪いが、なんのかんのと最後にはちゃんと頼みをきいてくれるやつだった。荷物だってそうだ。もともと、お土産やらなんやらを買いすぎてしまって、翡翠が抱えていたものなのだ。レイスは「おまえは無理し過ぎなんだよ」と、それをさりげなく奪い、平気な顔をしている。すこしでも好意のある女性なら惚れてしまうところだった。
「レイスは絵を昔から描いてたから、慣れてるのよね」
 美鈴がそう言って話しかけてくる。彼女は両手を腰の後ろに回して、店内の絵を眺めていた。
「まあ、慣れっちゃー慣れだけどよ……。プロの人と比べられたらたまらんぜ」
 レイスはちらりと店の主人を見た。小さな丸眼鏡をかけた老魔族は、温かい笑みを浮かべながらレイスを見ていた。なんだか試されているようで落ち着かない。ときどき頭を掻きながら、すこしずつレイスは筆を進めていった。
 しばらくして、ようやく絵が完成する。ちょっと古びた羊皮紙に描いたため、なんとなくお宝の隠された古地図みたいな雰囲気があった。紙質のおかげか、絵の具が滲んで良い味になってる。翡翠はさすがだというように驚嘆した。
「すごいじゃないですか、レイス! これなら、楽しんで観光も出来ますよ!」
「そ、そうか?」
 褒められると悪い気はしない。美鈴も「やっぱり、レイスね。なんのかんのとすごい才能じゃない」と褒め称えた。しかも翡翠は店の主人にまでレイスの地図を見せるほどだった。レイスは慌ててとめようとしたが、一足遅い。店の主人はとっくに翡翠から地図を受け取り、小さな眼鏡の奥からそれをじっと見つめた。
 レイスはごくっと息を呑んだ。店の主人が顔をあげる。
「よく出来てるじゃないか」
 にっと子どもみたいな笑みを浮かべて言われて、、レイスはほっと胸をなで下ろした。
 とにかく良かった。恥をかくような結果にならなかっただけで、十分だ。だけど、事態は思いもしなかった方向に動いた。
「これなら、うちの店のサービスで使わせてもらいたいぐらいだな」
「サ、サービス?」
 レイスは予想してなかった言葉にとまどった。
「良いアイデアですね、それ。どうですか? レイス。いいじゃないですか?」
 翡翠は乗り気だ。レイスはよく意味もわからず、勢いに押されるままにうなずいてしまった。
 それからしばらく、レイスの描いた地図は店の前に貼り出されることになった。こっぱずかしいが、みんなの役に立つのなら、まあ、良いかもしれない。地図を見ていく町の人たちは、口々に「綺麗……」とつぶやいていた。


 思えば緊張の連続だった。
 まずは観光会社に電話するところからはじまった。ザナドゥから赴任してきている支社の人が相手で、言葉だって通じるし、こちらの勝手だってわかってるし、それほど苦労するものじゃないのだが、ジア・アンゲネーム(じあ・あんげねーむ)は観光会社に予約をいれるのが初めてで、妙に緊張してしまった。電話の向こう側にも、ジアのどもり声が届いただろう。いま思えば、恥ずかしくもあった。
 それでも無事にザナドゥまでやって来て、アムトーシスを訪れることが出来た。ジアはダンケ・シェーン(だんけ・しぇーん)を連れて、いくつかの観光地を回る。噂に聞いていた通りの美しい街で、ジアは驚嘆を隠せなかった。
「ジア、ジア。あれはなんですか?」
 ジアの袖を引っぱりながら、ダンケがたずねた。
 街の美しさに目を奪われているのはジアだけじゃないようだ。頭から生えている狼の耳がぴくぴくと動いている。心なしか、喜んでいるように見えた。
「ああ……あれは、『アムドゥスキアスの塔』ですね。この街を治めている魔神さんが住んでいるらしいですよ」
 ジアは観光マップに目を落としながら言った。
「魔神? この街は魔神という人が治めているんですか?」
「アムドゥスキアスっていう名前みたいですね。この街がこれだけ美しいのも、その人の街造りの方針みたいですよ。芸術を愛しているという話です」
 ジアはダンケに下調べしてきた内容をいろいろ教えてあげた。同時に、街が複雑な構造をしていることも伝える。まるで魔法陣のような形をした街は、一歩大通りから外れた路地に入ってしまったら抜け出すのが難しいらしい。地元の住人は慣れたものだが、観光客は注意が必要なようだ。
「だから、ダンケも迷子にならないようにしてくださいね」
「ジアもです。迷子になるのは私じゃなくて、ジアかもしれません」
「私ですか? そんなことはないと思うのですが……」
 ダンケには強がってそう言ったが、内心ではどきっとしていた。
 実際、観光マップがあっても、中心的な観光地に行くのには戸惑ってしまうことが多々あった。あまり他人に頼るのが好きではなく、自由時間が多めのプランを選択したが、素直にツアーコンダクターのついたプランを選んでおけば良かったかもしれない。ここにきてすこしばかり後悔していた。だが、なにくそ、くじけるものか! せっかく、めったにないダンケと二人の旅行なのだ。いつも一緒にいてくれる大切な相棒だし、ダンケが楽しめるような旅行にしたかった。
 それからその日一日、二人は目一杯観光スポットを楽しんだ。噴水広場や砂糖菓子の館にも行った。不安はずっとあったが、幸いにも迷子になることはなかった。あとはホテルにチェックインするだけだ。だけどその前に、ジアがダンケに渡したものがあった。
「これって……」
 ちょうど二の腕の上ぐらいにつけるアンティーク調の腕輪だった。
 翡翠色の宝石を縁取るように金色の真鍮が渦を巻き、二手に分かれて穴のあいた円をつくっている。穴をかるく広げるようにして、腕輪はダンケの二の腕に嵌められた。ちょうど肘ぐらいまである革手袋の上だった。
「これって、どうしたんですか?」
「お土産の一つぐらいないと、寂しいでしょう? だから、うずまき通りを歩いていたときにちょっと……」
 ダンケは思いだした。そういえば、トイレに行くと言ってしばらく帰ってこなかったときがあった。そのときに内緒で買ってきたのか。
「まったく……なにも隠れて用意することないと思います」
「嫌でしたか?」
 ジアが不安そうにたずねる。わざわざ内緒にしておく必要もなかっただろうか。
 ダンケはジアの顔をじっと見つめる。しばらく間をおいて、彼女は言った。
「いえ……そんなことないです」
 はにかんだ顔で動いた手が触れた腕輪。翡翠色の石は、ジアの優しさが込められてるみたいに、あたたかかった。