校長室
【Tears of Fate】part1: Lost in Memories
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榊 朝斗(さかき・あさと)は息をついていた。 さすがにきつい。 なんとかエリザベート一行の足取りをつかみ、その救援に駆けつけ名乗りを上げんとするもかなわず、奔流のように集中した量産クランジの奔流に飲み込まれたような格好だった。正面から巻き込まれたゆえ、仲間の安否すらわからなかったほどだ。つい、先ほどまで。 「しかもそこから……火事対策なんてね」 ようやく敵を蹴散らしたかと思いきや、朝斗に休む暇はなかった。今度は、炎が書物を焼かぬよう鎮火作業に大わらわとなったのである。 火が付いた本をはたく。それが終わらぬうちに、剣をふるって燃える書棚を切り崩す。 作業の途上、黒い前髪が目にかかった。頭を振って強引にどけた。 いい加減、髪、切らなきゃ……いや、そんなことは今考えるべきじゃない。ともかく参った。 だから朝斗はすぐに気がつかなかった。 小山内南が両手で頭を押さえながら駆けてくるということに。 反射的に飛び出そうかと思うも、朝斗は控えることにした。 (「南さんの事は詳しくは知らないから、僕が踏み込む事はできない……すべきじゃない、って気がする」) 仲間たちを信じたい。朝斗は見守ることを選んだ。 朝斗が一歩退いた位置に足を止めた理由は、もう一つあった。 アイビス・エメラルド(あいびす・えめらるど)にも、なにか反応があるかもしれない――そう思ったのだ。 このところのアイビスには目覚めの予兆があった。クランジに関与するほどにその予兆は強まるように朝斗は思った。 (「どうしても危険になったら止める。でも」) ぎりぎりまでは見守ろう。朝斗はそう決めていた。 幼い子どものように、南はぽろぽろと泣きながら歩く。どこへ行こうというのだろう、きっと自分でもわかっていないのではないか。 (「何故、貴女は泣いているのですか? 本当は厭だと……真実と向き合いたいと思っているのではないのですか?」) 小尾田 真奈(おびた・まな)は声をかけようかと思ったがためらっていた。人生が急転した彼女に、どんな言葉をかければいいのか迷ったのだ。 立ちはだかる人影を見て、南は恐怖と狂気を匂わせる震え方をした。 「近寄らないで!」 真実を言い当てられ、足元が崩れ落ちたように感じているのだろう。小山内南はそれがまるで、自分の最後の盾であるかのように『カースケ』を抱いていた。 「いいや、近寄るよ」 されど涼介・フォレスト(りょうすけ・ふぉれすと)は頑として、首を縦に振らなかった。 おもむろに、涼介は南を抱きしめていた。 「だって、私たちは友達だろう……」 細い肩を抱く。肉の落ちた背中を、抱く。 可哀想に、悩んでいたからだろう。南の肌には生気がなかった。 「放して」 涼介は南の言葉を無視した。 「南ちゃん、ダメ!」 クレア・ワイズマン(くれあ・わいずまん)はこらえきれず叫んでいた。 涼介の腕のなかで南が身を捩るのが見えたのだ。彼女が、『カースケ』の腹に手を突っ込むのが見えたのだ。 そこにあるのは、 「姉さま、抑えてください……」 エイボン著 『エイボンの書』(えいぼんちょ・えいぼんのしょ)が、クレアの半身をつかんで言いきかせている。 「兄さまに言われましたでしょう? 任せてほしい、って。決して手を出さないで、って」 「わかってるよ。けれど……お兄ちゃん!」 クレアは声を上げていた。自身の眼を両手で覆った。 南はぬいぐるみからナイフを抜き、涼介の肩に突き立てたのだ。 当然の帰結として鮮血が一条飛んだ。 涼介は表情を変えなかった。無論、焼けつくようにいたんだが呻きを押し殺した。 (「これくらい……彼女の苦しみや心の痛みに比べたら……」) 静観できる状況ではない。当然、同行の朝斗も七枷 陣(ななかせ・じん)も身を強張らせていた。 されど涼介はそのうちの誰よりも落ち着いた目で、「もう少しだけ、話させてほしい」と告げた。 誰も邪魔しなかった。 「落ち着いたかい?」 ぽん、と涼介は南の背を叩いた。 「辛かったんだね、寂しかったんだね。でも、もう大丈夫だよ。 君には私やみんなが付いている。 確かに君は、自分を見失っていることだろう。小山内南であることを否定されて、ようやくそのことを受け入れるようになった途端、すべて嘘だったと告げられたんだから。あらゆる者が嘘に思えているかもしれない……」 しかし、という言葉をこれまでになく強く口にして涼介は続けた。 「思い出してほしい。君がここで過ごした日々や記憶は君のものだろ。あの時の洞窟探検もお正月の時も。 今の君の心はクランジ?に染まってしまったのかもしれない。否定しなくていいんだ。 私たちにとっては、偽りの記憶であっても、それすらひっくるめて今の小山内南という人間なんだ」 そして優しく、彼女から腕を放したのである。されど涼介の優しさは今なお南を包んでいた。 「だから、君はここにいていいんだよ」 「ね、南ちゃん。帰っておいでよ」 クレア・ワイズマンも、言葉で彼女の魂を引き寄せるべく呼びかけていた。 「みんなでダンジョンに潜ったり、一緒に新年会をやったり、お勉強したり、お昼ご飯をみんなで一緒に食べたり……ねえ、またあの頃に帰ろうよ」 しかし南の返事は、『帰って』来たものではなかった。 「わからない……!」 彼女はまた『カースケ』を掴んだが、今度はこれを、握りしめて地面に叩きつけていた。拾って叩きつける。これを繰り返す。 「あなたたちがまた、クランジを騙そうとしているだけじゃないんですか! そんな甘い言葉で、私を、せっかく見つけた居場所から遠ざけようとしているんじゃないんですか!」 「洗脳が強力だというの……せっかく戻りかけた南さんの心が……」 遠のいていく、とルシェン・グライシス(るしぇん・ぐらいしす)は口惜しげに呻くが、仲瀬 磁楠(なかせ・じなん)は落ち着いていた。 「違う。涼介の言葉は確実に南を捉えた。あれは目覚めが近づいている証拠。いわば産みの苦しみだ」 「どうしてわかるんです?」 ルシェンが詰め寄ると、 「長生きしているからな」 なんでもないことのように磁楠は言い、あとは何も答えず、狙撃を警戒しながら周囲を見回した。 (「この場所、視界は決して広くない。遠距離狙撃にはおおよそ向いていない地形……だが、二度あることは三度あるという。ローを雪山で射貫かれたような状況を再現させたりはしない。断じて」) 「長生き、って、あの、吸血鬼の私のほうがよっぽど長生きだと思うんだけど……ちょっと、聞いてます?」 ルシェンは色々言うのだが、磁楠はもう答えなかった。 カエルの『カースケ』のぬいぐるみは、南に何度も叩きつけられ首がもげかけていた。右腕がちぎれ、透明なボタンで作られた目玉がころりと落ちた。もともと屍体のような顔をしているのに、布がやぶけ内側から綿がはみだし、グロテスクにもほどがある。 「もう嫌! もう嫌! やっと所属できたのに! 私を独りぼっちにしないクランジという帰属先を与えてもらったのに! ただの小山内南に戻れだなんて! 嫌! 嫌です! 嫌!」 小山内南は友達が少なかった。一人でいることが多かった。希に友人と呼べる人たちといても、日陰の花のように閑かに笑っているだけだった。そんな南の内側にあったコンプレックスのようなものを、シータが利用したのだ。 誰の心にもある孤独を。 「なに寝言ぬかしとんや!」 陣はもう我慢できなかった。見守るのをやめ、飛び出して南の顔を張り飛ばしていた。 そこから短く何か叫ぼうとするが、気持ちが昂ぶって舌がもつれてしまう。それでもやっと、 「オレが、オレたちがどんな気持ちやったかわかるか! 自己憐憫にひたるあまりわからんのか!」 叫んだ。 「忘れたんか! クランジΨ(サイ)にトドメを刺したんはオレや!」 叫んだ。 女性に対して紳士的な陣が、我を忘れていた。胸ぐらを掴んで南を立たせる。もう一度頬を打つべく右手を振り上げる。 「今度のことで……オレ……ほんまの南ちゃんを殺しちまったかと思って……」 陣の両眼から、熱い涙が零れていた。 「だから真実を知ってどんだけ嬉しかったか……わかってくれ……」 陣の右手が南の頬に触れた。赤く腫れた頬をいたわるように。 「それなのになんや、自分は独りぼっちやとか……そんなん、逃げやないか」 「逃げ……?」 ようやく南はポツリと言った。 「そう、逃げてるんや!」 彼は涙を拭おうともしなかった。 「逃げんなよ! 優しかった人達から! 楽しかった思い出から! 何より……小山内南として今まで生きて来れた自分から! 『ただの』南なんて悲しいこと言うな……『かけがえのない』南ちゃんやろ……。 ……逃げないで、くれよ」 怒りながら、泣きながら、それでも陣は笑おうとしていた。 「自分を赦せんのなら、 オレが赦す。 ここにいる、南ちゃんを助けにきたオレたちが赦す! だから君は……クランジΣっていう記憶を捨てなくてもいい。けれど、それ以上に小山内南として生きるんだ! 生きて欲しいんだ! ボロボロでもツギハギだらけでも辛くても、オレのわがままの延長だとしても、 手に入れた大切な縁と絆を手放さずに、 抱き締めて前を見据え続ければ…… いつか、きっと……きっと、笑って歩けるはずなんだ」 ぐしゃぐしゃだが、陣は笑顔だ。 「そうだよ! そうだよ!」 リーズ・ディライド(りーず・でぃらいど)が駆け寄った。 「ボクは、南ちゃんがクランジのままでも、元の人間でも、どっちでも受け入れるよ! 一緒に過ごした時間は長くはなかったけど、それは夢でも幻でもなかったんだから! 陣くんに綺麗とか言われて恥ずかしがってた、ちょっと頼りない南ちゃんは間違いなくそこにいたんだし、今だってここにいるんだ!」 共感して胸をふるわせていた真奈だが、リーズの言葉にぴたりと止まった。 「……綺麗? ご主人様が、他の女性に?」 ゴゴゴゴゴゴ……そして真奈は今度は別の意味で、震えた。(まあ、それはあとで陣に問いただすとしよう……たっぷりと)。 「自分が何者か、わからないんですね?」 はっ、と朝斗は顔を起こした。その声は、 「あの子……あの無口な機晶姫の……」 リーズも声の主を目で追った。 南の手を、アイビス・エメラルド(あいびす・えめらるど)が取ったのである。 「あなたはようやく、長い夢から覚めようとしています」 アイビスは二の句を継がせない。 「わかるんです。私も同じなんですよ」 アイビスを知る者ほど驚きを隠せない。彼女がこれほど、すらすらと話すのを見せたのはほぼ初めてだったからだ。 「私は、誰かに似せて作られた存在。何の為に生まれたのかは、今でもよく分かっていません。 でも……」 アイビスは深く息を吸い、そして、きっぱりと告げた。 「これからの『自分』を決められるのは『自分』なんです。 それは、私も、あなたも、同じ」 そして彼女は、南の手を両手で包むようにして握った。 南は、決して強い力ではないが、それを握り返した。 アイビスは無表情だ。しかし口元を、微かに歪めた。 それが笑みなのか、決意の表れなのかはわからない。 「南さん。あなたは空虚な過去から逃げようとして、結果的に記憶を捏造されたのですね……私も逃げようとしていました。何度か、過去の断片が現れては消えましたが、強いてその意味を考えるのを放棄していました」 これまで断片的に見てきた記憶のフラッシュバックを、いま初めて、アイビスは明かした。 朝斗も、ルシェンも初めて聞く話だ。 誰かに手を握られ、神社を歩いている自分。 その誰かは、自分そっくりの顔をしていたこと。 研究者らしい服装だったこと。 ……だけど自分そっくりのその女性がこときれるのを、ただ立ちつくして見つめていた記憶だけは、口にすることができなかった。 「これが私の過去。私の過去の意味は……わかりません。捏造され、何者かに植え付けられた記憶の可能性もあります。けれど私は、これら過去を大切に胸にしまって未来に進みたいと思います」 あなたにもそうしてほしい――といってアイビスは、南の肩を抱いた。 「帰りましょう。帰る場所が、あるのですから」 南は、かすかに頷いた。