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【2019修学旅行】闇夜の肝試し大会!?

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【2019修学旅行】闇夜の肝試し大会!?

リアクション


大池 〜その弐〜

 艶やかな黒髪を散らして、玉藻 前はボートの座席に深く座っていた。
 両肘をボートのへりに掛け、細く伸びた艶めかしい足を組み、玉藻は持ち前のキツネ目をいたずらっぽくほころばせている。
「まさかこれを、我に漕がせるつもりではあるまいな? 刀真?」
「はいはい」
 肩をすくませて、樹月 刀真はボートを水面に押し出した。
 滑り出したボートに飛び乗り、長く伸ばされた玉藻の足を踏まないよう、刀真は慎重に腰かけてオールを握る。
「こういうときは、言われなくても男が漕ぐものだ。まだまだよの、刀真」
 わざわざ避けた刀真の足に、玉藻はわざと足を絡ませた。
「……せっかく避けたんですよ?」
「進行方向にばかり気を向けられても困るからな。せっかく我が目の前におるのだぞ?」
 くすくす、と玉藻は口元を隠して笑った。
「子供扱いするのはやめてください」
「まだまだオトコノコよ、しかたあるまい? 我の十分の一も生きてはおらんのだから」
「そーですか……」
 ぐっと、刀真は船を漕ぎだした。
「静かに漕げよ、風情が薄れんようにな」
「はいはい」
 ぎっ……。ぎっ……。
 静かな音が、暗い大池を震わせていく。
「永いこと眠っていたからな……こういうのも悪くはない」
 玉藻はボートのへりに頬杖を突き、揺れる水面に視線を落とした。
 細い指先を、涼風に冷えた水に触れさせる。
「……」
 水面に視線を落とす玉藻、そのひねった首と、覗くうなじの曲線に、刀真はふっと頬を染めて視線を伏せた。
「静かなのはよい……。皆に騒がれるのは、眠りにつく前で飽き飽きしておる……ん?」
 ふと、玉藻は視線を鋭くして、暗い池の先へ目をこらした。
「誰かおるな……うおっ!?」
 ばっ、と刀真が身構えたことで、ボートががくりと揺れる、
「脅かし役ですか!?」
「……いいや、参加者か? こちらと同じボート、二人乗っておる」
 だんだんと近づいてきたボートには、細面の男がひとりと、トカゲのような顔をもつ人物がひとり、乗っていた。
「ドラゴニュートか」
 玉藻が目を細めて言うと、向こうのボートのドラゴニュート、ブルーズ・アッシュワースがふと振り返った。
 オールを握った細面の男、黒崎 天音も、微笑と共に会釈する。
「ぬしらもここで月見か何かか?」
「……そんなところだ」
 唸るような低い声で、ブルーズは憮然と言った。
「我らのほかにも風情が分かる連中がいたということか」
 玉藻は笑って、ブルーズをじっと見据えた。
「ドラゴニュートでは、京都で苦労も多いだろう」
「……まあな」
「弱い連中に限って、異端者を排斥しにかかるもの。気にしたら負けだぞ? 年長者のたわごとだがな」
「ずいぶん、わかったような口をきく」
「まあな?」
 ふっと笑った玉藻の背後に、筆先のようにふさふさした金色の尻尾が九本、立ちあがった。
「我も異形なれば、かつては同じように悩みもしたものよ」
「……かつて? 今は?」
 ブルーズが首をかしげて見せると、玉藻は刀真の足に自分の足をきつく絡ませた。
「今は、一人で悩む必要などない。お互い悩みは過去のもの、であろ?」
「……かも知れないな」
「……では、刀真。お互い貴重な時間だ。邪魔せんように、そろそろ行こう」
 刀真は小さく、天音とブルーズに会釈して、オールを漕ぎだした。
 玉藻も、いたずらっぽい視線をブルーズに送る。
「じゃあな。お互い、忘れられない修学旅行になるように」
「……ああ。邪魔して悪かったな」
「なに。こいつをからかうのも飽いておったところよ」
 袖口で口元を隠し、玉藻はころころと笑った。
 天音たちのボートから十分離れてから、刀真がぼやいた。
「……俺は、玉藻の悩みを軽くしてやれるようなヤツじゃない。……いずれ、その時が来たら、お前を……封印するのが役目だ」
「ほほほ……それは、月夜が悲しむのう」
「……」
「お前と過ごす時間は、楽しい。永く眠っていた時を、埋めるかのようじゃ。……だから我は、お前になら、封じられてもよいぞ」
「……素直に、喜べません」
 もう一度、玉藻はころころと笑った。

「いい出会いだったかい?」
 遠ざかっていく刀真たちのボートを見送りながら、天音が柔らかな声で言った。
「どうだかな……まあ、苦悩が我だけのものではないと分かったのは、すこし、よかったかも知れん」
 ブルーズが、どこか照れたように返す。
「ふふ、弱者は強者を排斥したがる、いい言葉だね。弱いから、自分と一緒のものにしたがるんだ」
「弱者などというな、お前は……お前は人だが、決して卑しい弱者などではない」
 天音は一瞬キョトンとして、それからまた、いつもの微笑を浮かべた。
「嬉しいね。……けれど思えは、ここは真夜中の廃神社、言うなれば魑魅魍魎の住む魔界だ」
 すっと、天音は暗い夜空を見上げた。
「ならばここでは……生きとし生けるすべての者が、異端者ということになるな。……俺もお前も周囲の皆も、誰もが同じ異端者だ」
「難しくて分からん」
「そうかい? つまり、そうだね……ここが魑魅魍魎の世界なら、彼らは異端者である我々を、自分の世界に引きずり込もうとするかも……なんて戯言さ」
「なんだそれは。怖いことを言うなよ」
 くすくすと笑う天音を、ブルーズは目を細めて見た。
「肝試しじゃないか。風情を味わうばかりじゃ飽きが来るよ」
「我は飽きん」
「そうかい?」
 首をかしげて、天音はボートの進行方向へ視線をやった。
「なあ、天音」
 視線を外した天音に、ブルーズは呼びかけて、
「いい夜だね」
 あっさり返され、むうと唸った。
「……お前、柄にもなく照れておろう」
「……何のことかな?」
 首をすくめた天音を見て、ブルーズは喉を鳴らして笑った。
「あまりの饒舌は、照れ隠しだ」
「無粋なこと言うね」
「そう思うなら、少し黙っていろ」
 ふう、とブルーズは息を吐く、
「お前との時間を、俺はもう少し、ゆっくり楽しみたい」
「……ロマンチックだね、柄じゃないと思うよ」
「細かいことを抜かすな。……そういう夜だ」

 揺れるボートと、響き渡る甲高い声が、暗い水面を震わせる。
「わっ、シェリス。ボートの上では傘しまいなさいよ、ただでさえ三人で乗ってる分バランスが悪いんだから」
「ええい! セラがガタガタとやかましいから揺れるのであろう!?」
「あっ……あの、落ちる時は三人一緒なんだから、もうちょっと仲良くしよ? ね?」
 ボート左右のへりに腰かけ、睨みあうセラ・スアレスとシェリス・クローネを、座席にちょこんと腰かけてオールを握ったフィル・アルジェントがやんわりなだめた。
「ほらほら二人とも、せっかくのお月見ですから」
 フィルは一升瓶を持ち上げて、セラとシェリスの持つぐい飲みにお酌した。
 セラの杯に満たされた液体の中に、蒼く輝くまん丸の月が写り込み、微かに震える。
「……そうね。うるさいこと言っても仕方ないか」
 セラは、月の落ちた杯はそのままに、口のほうをそっと近づけて飲み始めた。
「そうじゃそうじゃ。セラにもようやっと風情というものがわかったようじゃのう? ……ところで、何をおかしな飲みかたをしておるのじゃ?」
「月を肴に飲んでいるのよ。高貴なお月見って言うのは、みっともなく空を見上げたりせず、水面や杯に映った月を楽しむものなんだから」
 月を映したまま杯を飲み干して、セラはちらりとシェリスを見た。
「あら? もしかして月見のやり方も知らなかった? パラミタの生き字引さん?」
「なっ……なにおうっ!」
 シェリスが立ち上がろうとして、また猛烈にボートが揺れた。
「ひゃああッ! シェリスおちついてっ!」
 フィルになだめすかされて、シェリスは渋々と腰をおろした。
「ふっ……ふんっ、お月見のやり方くらい知っておるわ。セラのようなにわか知識ではなく、もっとふっかーいところまでな」
「へえ、たとえば?」
 フィルに再び杯を満たしてもらいながら、セラは適当に相槌を打った。
「えー、ごほんっ。かつて、ヨーロッパでは、お月見という概念はなかったそうじゃ」
 自慢げにない胸をそらして、シェリスは語り出す。
「ヨーロッパでは、月から降る月光線は有害であるとされていたのじゃ。狼男が月を見て暴れだすのは、その伝承が元じゃな。月光線は、浴び続けると人の心を狂わせ、発狂させるといわれ、ヨーロッパの人々は強い月光をむしろ避けたがった。つまり、お月見などという風習を古来の欧州人が見たら、それはもう狂気の沙汰……」
 じろ、とジト目でセラにねめつけられて、シェリスははっとした。
「こっ……この話は、盛り上がらんからやめておくか」
「そーね。賢明だわ」
 じっと、満ち始めた沈黙を、フィルがあわてて破る。
「でっ、でもでも! あれですよね! 日本には昔からお月見があったから、きっと日本の月は、体にいいんじゃないかな? ほら、だってこんなに綺麗だし!」
「そっ……そうじゃそうじゃ! 日本のお月見は、古来中国より伝わったものなのじゃがな。それ以前の日本では、やはり月光は有害とされていて、『かぐや姫』で月から得体の知れない使者がやってくるのも、あるいは古来日本人の、月への恐怖が……」
「シェーリスー。その話、盛り上がりそう?」
「むしろ盛り下がるかのう……」
 しゅん、とシェリスは目を伏せたが、またすぐ、思い出したようにパッと顔をあげた。
「そうじゃ! 江戸時代の月見の話をしてやろう!」
「わっ、わぁっ! 聞きたい聞きたい!」
 フィルがぱちぱちと拍手をし、セラが冷ややかにシェリスを見据えた。
「なんでも、江戸の遊里では、遊女たちが月見を祝う行事があっての、時期の始まる十三夜と、時期の終わりの十五夜、両方を客と祝ったそうじゃ。だが、一度しか月見をしないのは縁起が悪いとされての、片見月といって、それをする客は嫌われたそうじゃ」
「……あたしたち、月見をしたのは今年この一回だけよね?」
 セラの冷ややかな言葉に、ひくっとシェリスの言葉が止まった。
「えーと、つまりシェリスはこう言いたいわけね? 今年一度しか月見をしていない私たちは、縁起が悪いから地獄へ落ちる、と」
「何もそこまで言ってはおらんじゃろう!?」
「うわわっ! セラさん! シェリス! やめて!」
 フィルの制止は、もはやどちらの耳にも届いていないようだった。
「シェリスのうんちくは大体、肝心なところを忘れてるか着地に失敗するのよね」
「なんじゃとうっ!? うんちくではない、生き字引だと言うておろうがっ!」
「二人とも、喧嘩はやめましょう? 一度のお月見で縁起が悪いんなら、また、一緒にお月見しましょうよ?」
「セラ抜きでな」
「シェリス抜きでなら」
「あうう……」
 ふん、と顔をそむけ合った二人を見て、フィルは大きく肩を落とした。
 セラとシェリスを座らせるため、小さく畳んだ足の下には、一抱えほどの長方形のケースが置かれている。
「あ……そうだ」
 フィルはケースを持ち上げて、中にあるものを取り出し、構えた。
 高く澄みきった音色が、暗く沈んだ空気を震わせる。
「……うん?」
 顔をそむけていたセラとシェリスが、一斉にフィルのほうを見た。
 あごと片手でバイオリンを構えたフィルが弓を引くたび、大池に静謐なメロディーが響き渡っていく。
「……おお」
「風流ね」
 セラとシェリスはぽつりとつぶやき、鼓膜を震わす心地のいい音色に、目を閉じて浸った。
 フィルはそんな二人を見て。やわらかに微笑む。
「どうぞ、ご清聴をお願いいたします」
 三人で乗った、二人乗りのボート。
 不安定に揺れる船体から、大池中に波紋が広がり、
 それを、涼やかなバイオリンの音色が追いかけて行った。

 ――がつんっ。
 池のほとりに、鋭い音が響き渡る。
 ――がつんっ。
 とがった石が、ボートの床へ何度も何度も、打ちつけられる。
 ――がつんっ。
 赤い長髪に隠れた、ヴェルチェ・クライウォルフの口元が、艶めかしくつり上がる。
「ふふふ……カップルどもめ、今に見てなさい」
 ボートの底に空いた大穴を、布を敷いて隠すと、ヴェルチェは満足げに立ち上がった。
「沈んだ連中を助けてやって、がっぽりお金でも払ってもらおうかしら。……ふふふ、ひと山当てるチャンスなんか、どこにだってあるものよね」
 茂みをかき分け、二人分の足音が近づいてくる音を聞いて、ヴェルチェはその場から離れた。
「タマまで取りゃあしないわよ、安心なさい。ふふふっ」

「ガートナ? 心配しなくっても私が守ってあげますよ。幽霊なんか怖くありません、もし出てきたら解剖して、スケッチして、論文にでもしてやりますから!」
 すらりとした長身と、精悍な顔つきをもつ島村 幸は、がっしりした体を丸めてびくびく歩くガートナ・トライストルの手を、きつく握って笑った。
「こっ、怖くなどありませんぞ。ははは、パラミタでゾンビやモンスターを相手にする私がですね、まさかこの程度の暗闇が怖いなどと……ひいっ!?」
 びくっ、とすくみあがって、ガートナは幸の腕にしがみついた。
「いっ……いま、何か音がしませんでしたか? がつん、がつんと……まるで人の頭を繰り返し殴打するような……」
「まさか。気にしすぎだよ、ガートナ」
「あ……いや、しかし……おっと、失礼」
 腕から離れようとしたガートナを、幸はからめ取るように引き寄せた。
「いいですよ、くっついてて。ふふっ、今日は私が守ってあげますから」
「いえいえ! それでは騎士の名折れというもの。さ、どうぞ後ろを御歩きください!」
 ガートナは立ち止って、幸を背後へ行くよう促した。
 幸もぴたりと足を止め、振り返って、ガートナの翡翠色をした瞳を見据える。
「ガートナ? ここはパラミタではなく、地球です。そして、今日は戦闘ではありません、肝試しです」
「はっ……はあ」
「今日は、私はあなたの主じゃないし、あなたは私の騎士じゃない。それでいいじゃないですか」
「おっしゃる意味が、よくわかりませんぞ?」
 ふっと、幸は微笑んだ。
「私はただの島村幸、あなたはただのガートナ。……それ以上に、どんな言葉がいるんですか?」
 すっと背伸びして、幸はガートナの頬に唇で触れた。
 突然のことに動けないでいるガートナにくるりと背を向けて、幸は大池のほとりに一つだけ残っているボートに駆け寄った。
「まっ、待ってくだされ! ボートなら私が漕ぎますぞ!」
 ガートナははっと我に帰るや、ボートへと駆け寄った。

「う、おおおっ……これはっ、これはっ、まずいですぞ!」
 ボートの底には、布で隠された大きな穴が空いていたのだった。
 ごぼごぼと湧水のように浸水していくボートの上にすっくと立って、ガートナは幸の身体を、お姫様を抱くように抱き上げた。
「大丈夫でありますぞ! たとえこの船が沈もうとも、こうして私がお守りいたします!」
「いやいや、抱っこはうれしいですけど……大丈夫ですよ?」
 幸がぐいっと肩に体重を賭けると、不安定なボートの上でバランスの保てなくなったガートナは、ふらりとよろけて池に落っこちた。
 ざばん、と大きな水しぶきが上がり、波紋がゆらゆらと水面を伝っていく。
「ぷはっ」
 最初に浮かび上がってきたのは幸だった。
 片手で、水に浮くオールにしがみつき、もう片手で、ガートナを引っ張り上げる。
 幸は、水着に着替えていたのだった。
 背中に、ビニールに入れて防水した服とタオルが入っている。
「ボートに細工があるかもしれないからわざわざ水着で乗ったんでしょ? 慌てなくったって良かったんですよ。想定内です」
 もう一本のオールにすがって浮き上がったガートナは、顔を赤らめて頷いた。
「不覚でありました……」
「ふふ……まあ、ボートに細工なんてなければ、それが一番良かったんですけどね。……あーあ、ボートデート、したかったな……」
 ばしゃっ、とガートナは、いきなり頭を上げるや池の向こうへ目をこらした。
 橙色の光が、じわじわ近付いてきている。
「……敵でありますかな?」
「かもしれません」
 ぐっと、幸はオールを握りしめて身構えた。
 橙色の明かりは、どうやら近づいてくるボートからの、懐中電灯の明かりらしい。
 幸とガートナが乗っていたものより一回り大きな手漕ぎボートが、かなりの速度で突っ込んでくる。
 二つのボートには、それぞれ座席に座ってオールを漕ぐ人物が一人と、立ちあがって懐中電灯で進行方向を照らす一人が乗っていた。
「おーい! そこの人! 無事かい!?」
 ほとんど幸とガートナを跳ね飛ばすような勢いで突っ込んできたボートは、直前で急停止した。懐中電灯の眩しさに、幸は目を細める。
「……藍澤?」
「島村殿? まんまと罠に引っかかっているなんて、あなたらしくもない。……手を」
 藍澤 黎の差し出した、しなやかで力強い手にすがり、幸はボートの上に転がり込んだ。
「別に引っかかってたわけじゃなくて、予定調和ですよ。……でもありがとう、おかげで風邪を引かずにすみそうです」
「それは、なにより」
 微笑んで、黎はガートナも引き揚げた。
 大きなボートは、幸たちが乗っていたボートよりだいぶん安定しているらしく、人が四人乗ってもわずかに震えただけだった。
「だいじょーぶ? ふたりとも。タオルあるから使ってね」
 黎の乗ったボートでオールを握ったエディラント・アッシュワースは、人懐っこい笑みを浮かべて言った。
 向こうのボートには、西洋人形のように整った顔立ちのヴァルフレード・イズルノシアが立ち、西洋絵画に描かれる天使のようなふわふわ白髪をもつフィルラント・アッシュワースが、オールを握っていた。
 フィルラントはオールを握ったまま、じっと池のほとりのほうに目を凝らしていた。
 それに気づいたヴァルフレードが、フィルラントの視線の先に懐中電灯の明かりを向ける。
「黎! 池のほとり、またやばいのおるで。さっき見た連中や。溺れ死ぬ前に行ってやらな!」
 フィルラントが、見かけに似合わぬさばさばした口調で言う。
「なに……? わかった。エディラント、そっちの船に乗り移れ」
「え?」
「幸、ガートナ、岸までは送れそうにないみたいだ。すまないが、自力で岸まで向かってくれ」
 言うなり、藍澤はフィルラント達が乗ったボートに乗り移った。エディラントもガートナにオールを渡して、それに続く。
 フィルラントがオールを漕ぎはじめ、幸の乗ったボートから離れていく。
 ヴァルフレードが、ぱちんと懐中電灯のスイッチを切り、幸を一瞥した。
「……無様」

 ぽつん、と大池のただ中に、幸とガートナの乗ったボートだけが残った。
「……助けられちゃいましたね」
 短髪から滴を垂らして苦笑した幸に、ガートナは頷き返した。
「ですな。……しかし、いやあひどい目に遭いましたなぁ。この時期の池は冷える」
「そーですね……寒い」
 肩を震わせながら、けれど幸はうれしそうに笑う。
「……でも、ボートデートできました」
「……ボートデート、でありますか」
 ふっと微笑んだガートナの胸に、幸はこてんと頭を預けた。
「ガートナ、暖めてくれますか?」
 む? とガートナは唸って、幸の冷えた肩を押し返した。
「もちろんですぞ。まずは、頭から」
 幸の頭にぼすっとタオルをかぶせて、ガートナはわしゃわしゃと水気を拭き取り始めた。
「……ちょっと、違います」
 されるがままに頭を拭いてもらいながら、幸はぼやく。
「なにか仰いましたか?」
 タオルの合間からガートナの笑顔を見て、幸はふっと頬を染めた。
「……まあ、時間はまだまだありますか」

「……っく」
 もう幾度目とも知れぬ後退をして、祥子は舌を鳴らした。
 なんとか美羽の懐に飛び込もうとしては、蹴りのリーチに負けて距離を離されるのくり返し。祥子の額には焦りの汗が浮いていた。
「……教導団の生徒が、白兵戦で他校生に負けてちゃ格好つかないわよね」
 始終にこにこと突進を待ち構える美和に向けて、祥子は両掌を上にして合わせた。
 腕は伸ばし、肩をぎゅっと絞る。
「そろそろ終わりにしましょう。イライラはだいぶん晴れてきたわ」
「えー、もと遊んでくれないんだ。残念だなぁ」
 言いつつ、美羽はローファーのつま先で地面をコツコツと叩いた。
「ま、いーや。次はもっとスポットライトがたっくさん当たるところで遊ぼうね、お姉ちゃん?」
「私の八極拳は見せびらかすものじゃないわ。誰かを守るためのものよ。……あなたも、あまり見せびらかすもんじゃないわ」
 ぎゅっと肩をちぢめて、まるで弾丸になったように、祥子は突進した。
 美羽は足を振り上げず、両ひざを合わせて空中で正座するように、ぴょんっと飛び上がった。
「――……なにっ!?」
 こわばった祥子の顔を、両脇から、美羽の膝が挟み込む。
「しまっ……」
「よいしょっ」
 美羽は振り子のように頭を振って、祥子の顔を捕まえたまま、ブリッジするように地面に手をつける。祥子の身体が、捕まえられた頭を支店にしてふわっと持ち上がった。
「ぼっ……しゅーと、となりま―――っす!」
 投石機が石を打ち出すように、美羽の小さな体が反動をつけて、軽々と祥子の長身を投げ飛ばした。盛大な水柱を上げて、祥子は池の中へと落っこちる。
「ふうっ」
 息を吐いて立ち上がり、美羽は乱れたスカートのプリーツをちょいちょいと引いて直した。
「うっ……宇都宮ァッ!」
 誠治が叫んで、美羽の隣をすり抜け、祥子を追いかけて池へと飛び込む。
「わお、かっこいい」
 ばしゃん、と水柱を上げた誠治の背中を視線で追いながら、美羽はつぶやいた。
「……あーあ、結局、また盛り立て役みたいになっちゃったなー」
 こりこりとこめかみを?いて、首をかしげた美羽は、
「……ま、いいか。いいことした後の汗はきもちいーな」
 すぐに顔をほころばせて、ぐっと伸びをした。
 さあっと吹いた涼しい風が、エメラルド色の前髪を撫でていく。
「いい風、いい夜、だなぁ」