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電子の国のアリスたち(後編)-ハートレス・クイーン

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電子の国のアリスたち(後編)-ハートレス・クイーン

リアクション

 フューラーが覚醒してまず感じたものは、ぐるりと脳味噌がひっくり返るような目眩だった。がくんと落下した錯覚で体中がこわばる。
「にいちゃん! 目がさめたよ!」
 目覚めに伴う身体の緊張がガタンとストレッチャーを揺さぶり、蒼がそれに気がついた。
 何があったかフューラーは聞きたかったが、のどがひきつってせき込んでしまう。
「動かないで、キミは昏睡してたんだから! って、まだ脳波がめちゃくちゃだよ!」
 朱音がてきぱきと計器をチェックし、無理に起き上がろうとする彼を真と二人で押さえ込む。
「…い、一体今どうなってるんです!?」
 何かしようとする度に目眩と寒気がし、低血糖の症状が思考をまとめさせてくれない、脳内で荒れ狂う活動電位の嵐が電脳空間での出来事を加速度的に押し流し、ただ彼には妹の元へ行かなければという衝動だけが残っている。
「し…しつじのにいちゃん、ヒパティアちゃんを止めてよお!」
 蒼の絶叫に、彼は目を見開いた。

「フューラー殿が目覚めたそうでござるよ!」
 坂下 鹿次郎(さかのした・しかじろう)が鹿之助からの連絡をうけて、彼の覚醒を報告する。
 ようやっとすべての棟のネットワークをチェックし終え、情報を得るために戻ってきた緋桜遙遠が、丁度その報を聞いて色めき立った。
「フューラーさんが戻ったんですね? では誰か手伝って下さい!」
 一刻も早くネットワークを切り離すのだ。棟ごとのターミナルをピックアップし、いつでもどうにかできるようにはしてきた。
 ただ、時限装置や遠隔装置の類は一切用意できず、あったとしても使用できる状況ではおそらくない、残された方法は人海戦術だけだった。
「どこを壊せばいいか印をつけておきました、その機器を壊せばネットワークは分断されます!」
 今すぐ動ける者達が集まり、話をまとめて分担する。
「ようし、それをぶった切ればよいのでござるな?!」
 鹿次郎はすっとんで行き、姉ヶ崎 雪(あねがさき・ゆき)は携帯電話を取り出して以蔵に繋いだ。
「以蔵、今どこにおりますの?!」
『今ぁ、隣ん棟の二階がよ、おんしがちゃあんと見えちょうよ』
「では今から言うところに行って、そこにあるものを壊しなさい!」
「私たちも行くぞ!」
 雪が以蔵に指令を飛ばし、リカインもパートナーたちと分担して大学内の各棟へ走り込む。
 いざ目的地に着いてみると、誰でもわかるようにしてあり、機械音痴でも迷うことはなく処理ができる。
「なるほど、これを壊せと申すのだな!」
 ケーブルの集中した部分を引き出して置いてあるから、単純に武器を振り降ろすだけで済んだ。鹿次郎は部屋を飛び出して、次の目的地を要求した。
「次はどこでござるかーっ!?」
 手分けして指示を出し、雪は一息ついた。
「はあ、ようやっと落ち着いてお弁当が食べられそうですわ…」

 肩を貸してもらって、ヒパティアが契約者達と電脳に降りている部屋に辿りつくと、アクリトが彼等を出迎える。
「君がフューラー君か。今し方シラード教授も目を覚まされた、ひとまずはよく戻った!」
 電脳に意識を降ろして横たわる契約者達の間をよろよろと抜け、シラードのそばに膝をつく。自力で起き上がる事の出来ない彼は、近寄るフューラーを視界におさめて、その頬の皺を深くした。
「じいさん! 大丈夫なのか!?」
「お前もな…、ヒパティアはどうしておる?」
 彼は今からそれを確かめに行くのだ、その横に蒼がにじり寄る。
「おじちゃん、ヒパティアちゃんがずっと変で…こわいんだ」
「それは怖い思いをさせたな、すまなんだの…」
「でもにいちゃんが戻ってきたっていったら、元にもどるかなあ?」
「ああ、きっと戻るとも」
 シラードはくしゃくしゃと蒼の頭を撫で、フューラーの顔を見た。
「わかってる、行ってくるよ」
 うなずいて、フューラーは立ち上がった。
 まだ誰かの肩を借りなければまともに歩けない、そんな彼の後ろ姿を見送り、アクリトはシラードに思わず呟いた。
「本当に大丈夫でしょうかな…、…シラード教授?」
 どうやらそこで力が尽きたようで、シラードはぐったりと倒れこんでいる。目を覚ました事のほうが未だ驚愕に値することだったのだ。
 さらに視点の定まらないまま、ぶつぶつとうわごとを言い始めている。
「教授、気をしっかり持って…」
 心配して彼を揺り起こそうとした生徒をアクリトは止めた。
「…お前が、お前達がいつか傷つく時が…それに立ち上がれなくなる日が来ることを恐れておった…」
「…今、教授には目の前に彼が見えているのだろう、そっとしておくように」
 毛布だけを掛けなおして、アクリトはその場を離れた。
「…お前はあの子の未来についてを…勝手に相続し、代わりに見守ろうとしているのだろうな…」
 皺に埋もれた目尻に、涙が浮かんでいる。
「わしも同じだ、お前らを見守る事を勝手に引き受けた。
 そうである以上、お前らに何かあれば、彼奴らに申し訳が立たんのだ…」
 何もできん、何も、と悔しさに歯を食いしばりながら、シラードは懺悔し続けていた。


 突如拮抗する演算が傾いて、ヒパティアがつんのめるようにして優勢に立った。
 組み上げていた構築が砕け、アリスがまるで絶望めいた、ひび割れたうめきを漏らす。
「…な、なにご、と…じゃ…」
 棟ごとのネットワークが次々と切り離されているのだ、アリスの動きがみるみる鈍っていく。
 彼女が自らの存在を維持するだけのリソースが確保しきれなくなり、まだしも人間らしい動きをしていたアバターが、次第に操り人形のような奇妙なものになる、表情から意志の色が褪せ、瞳の光を失い、声の抑揚すらなくしていった。
 驚いたヒパティアが出しかけた次の手をリザーブした次の瞬間、待ち望み、消失と忘却を恐れたその声に、ヒパティアの意識がロックする。
「ティア!」
 突如降ってきたフューラーに、二人は制止された。
 ヒパティアをその声一つで止め、動きをきしらせるアリスの肩に手を置いて、何かあってもその身で留めるように立ちはだかる。
 遅れて足をつけた真と左之助がアリスに向かって構えをとった。
「…き…さま…」
 彼らを透過して争いあうことは可能だが、今のバランスはアリスに絶対的な不利を強いている。今ならば簡単に彼女に手を下すことができる。
「ティアもやめるんだ。…君は今、何を学んだ?」
「…にいさま…」
 ヒパティアは慄いていた。ずっと名前のわからない虚ろな塊がつかえていて、抑えようとしても何かせずにはいられないバイアスが怖かった。
 アリスという標的を見つけ、その衝動が加速度的に偏向していくことも、兄の予期せぬ不在がそれをさらに乗算していくこともだ。
 フューラーはふう、と息をついて、見守るものの存在に気づく。
「ご無事で何よりだ」
「…フューラーよ、やっぱ…」
 彼は黎の安堵と、唯斗が濁した言葉の先にある期待を悟った。
 今はもう必死にアリスとやり合う必要は薄れている、ならば次は彼女の謎を解明する番だ。
 何せアリスは、ヒパティアに似たAIであるようだからだ。
「…君にも時間が必要だ。君がどこから来てどうしてここにいるのか、ぼくらは知りたい」
 絶対的な優位性に基づく提案に、情けをかけられているとアリスは思った。
 AIであるからこそ、ヒトごときに何も委ねはすまい。
「…愚かだ、我らのような存在は、確かにヒトに作られたものかもしれぬ!」
 言いなりになって、その手を緩めるヒパティアが、アリスには我慢がならなかった。ノイズが混じり、褪せたようにフラットな知覚の中でも、その怒りは鮮明だった。
 絶叫に唯斗が構え、黎がヒパティアを押しやろうとした。
「だが、お前の存在理由には、ヒトを愛せと書き込まれているのか、そんなはずはない、ヒトを超えろとコードされているはずだ!」
 はじける様に膨れ上がる衝動に抗わず、今までもっていた人の形も、最低限のテクスチャーさえそぎ落とし、その身を鋭い針に変えて、フューラーの心臓を狙い―
―だめ!
 演算が圧迫してすべてがスローになる、AIとしての思考スピードで反応したヒパティアが、咄嗟にアリスだったものへ純粋な力を振るった。
 彼我の条件の差をロストして、加減など一切できなかった。
「…そん…な…」
 かつてアリスだったもの、アリスと定義したものがほろほろと崩れ、愚かと笑うなかれ、ヒパティアはその崩壊を止めようとした。
 やがて踊る和音の気配が伝わった、ヒパティアの必死の矛盾にアリスが笑っている。
 先ほどの叫びには、何と応えればよいのかわからなかった。ヒパティアの中には、ただ『知りたい』という欲求があるだけなのだから。
 彼女はこの期に及んでも、アリスを知りたいという本能が頭をもたげることを、止めることはできなかった。
 最早すべての殻を無くした彼女に触れて知った感覚の中に、同じ電子的なものに触れていると思い切れない深遠の気配がある、もうほとんどが切り離されて、最早思考を維持できるような容量を有しているはずもないのに、存在の矜恃がヒパティアの意識をびりびりと震わせる。
 今の彼女の近似形を記録から検索…即座に結果がリターンされる。
 かなり直近において、似た気配を感じる種族の方を、彼女は電脳空間に迎え入れていたからだ。
「…まさかあなたは…今、魔道書に…!」
「なんだって!?」
 しかしもう遅すぎた、総てを外部リソースに依っていた彼女は、それを失ってしまえば簡単に自我を崩壊させてしまう。偏在する意識は、繋がっていてこそ個となった。
 …そう、思い込んでいたからこそ。
「ひとつだけ聞かせて、あなたの他には、私達のようなAIはいたの?」
「…我の知る限りは…おらん、我が目覚めるよりはるか昔に、その芽は情報の波に砕かれて、消えよったわ…」

―条件的に、空京大学の環境は比較的静かで、かつある程度整理された情報が多く、条件が整っていた。変化に敏感だが、寛容でもあった。
 これが例えば蒼空学園ともなると、はるかに大きな規模のネットワークと情報量が約束されていただろう。
 ただしあそこにはXルートサーバーがある。定期的に巨大なデータの更新の津波が押し寄せて、芽生えそうになる自我は入念に押し流されてしまうのだ。
 その他の学校ともなると、今度は必須条件が整うほどのネットワーク塊が存在しない。地球側はいっそ混沌と言うべきであり、彼女の存在は、奇跡と紛うほどの危うさで成り立っていた。
 アリスが通信環境が開放されていた短い間に知ったものは、そんな悲鳴の名残だけ。
 その中で完全な確立を見せたヒパティアの鮮やかな足跡を見つけて、自分は死にたくないと足掻いても仕方はない。

「…羨ましい…もっと…夢を見ていたかった…」
 手を伸ばせば触れるものがあり、意思を発すればこだまするものがある。
 その喜びに満たされていればよかった、対応ではなく、ただ素直に反応していればよかった…。
「アリス…」
 いつか、誰かにそんな風に名を呼ばれてみたかった。
 そうして、闇雲に喚くのではなく、意味も意義もある応答をし、知性あるものとして己を知覚するのだ。
「もう足掻くな、良いのだ。アリスは目覚めねばならん…」
 必死で存在を繋ぎ止めようと演算を注ぎ込んでも、割れた器に水を注ぐように、全てが無に還っていく。

―そうして、アリスは0と1の地平を離れた。


 ヒパティアは大事な存在を取り戻したが、隣人になるかもしれなかった存在を失った。
 兄が言うように、何も学べたとは思わない、それどころか帰還の喜びを凌駕する恐怖が彼女を満たした。
 そして得たすべての痛みから、ただ己が如何にちっぽけで、傲慢であったかを思い知る事になるのだ。