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魔道書はアレクサンドリアの夢を見るか

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魔道書はアレクサンドリアの夢を見るか

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第1章 地平の涯より


 微かに霞む、【非実存の境】の何もない地平。

 だが、その地平線から、何かがむくむくと起こってくる気配があった。
 現実世界の空なら、雲だと思うだろう。
 だが。


「あれが、『虚無の手』という奴か」
 アルツール・ライヘンベルガー(あるつーる・らいへんべるがー)は、まだ今は遥か遠くに見えるそのもやもやとした黒い影を見ながら呟いた。
「歴史の修正力、か……」

 歴史の中で、一度喪われたものは再び出現するべきではない。

(確かに、それはその通りだ)
 アルツールは思う。――失われたことも歴史であり、事実である。
 取り戻すことのできない過ちや不幸が、人の世には幾たりもある。それらの積み重ねで歴史ができ、人はその経験を重ねて未来へと進んでいくものだ。
 そして、今がある。
 そこに至るまでの道が改変されれば、「今」が否定される。――『歴史』はそう判断したということなのだろう。それを否定はしない。
 むしろその意味でなら、アルツール個人は、虚無の手の修正力を「支持する」といってもよかった。

 しかし。
 アルツールは、【非現実の境】の風景を見やる。
 荒涼とした、靄のかかった荒野のような大地を前景にして建つ、アレクサンドリア夢幻図書館。
「だが、もうこの図書館は『できてしまった』」
 
『失われた』のは事実。それが今更存在するのはおかしいと考える。
 しかし今、こうして目の前にその、失われた書物のための図書館は存在している。
「ならばこれもまた――歴史の必然なのではないか」

 黒い靄が一塊になり、空にしなるように長い形を作っていく。

「そうね……すでに、出来てしまったものだものね」
 彼の隣に立って頷くエヴァ・ブラッケ(えう゛ぁ・ぶらっけ)も、歴史の在り方というものについては、アルツールとほぼ同じ意見である。
 そして、「すでに存在してしまっている」この図書館から、虚無の手を遠ざけようという思いも。
「それにしても、不思議な世界ね……」


 不吉な黒い蛇のように空に影が伸び始める下、人影が歩いている。

 きょろきょろと落ち着きのない、小さな子供だ。まるで、遊び友達の姿でも探しているかのようにうろうろ歩き、いきなりパッと消える。
 南の、未開の地の部族のものような、プリミティブな衣装をつけていた。
 その向こうを歩いているのは、髪はやたら長いが男性のようだった。
 前時代にヨーロッパの某国辺りで流行ったロック青年風スタイル、といったところか。その時代の人間かも知れない。
 悩み事でもあるのか、鬱々とした表情で歩いてきて、ノイズでかき消されるように姿を消した。
 彼にとってあまり安らいだ眠りではなかったのだろう。


 この世界のことは予め聞いているので、そうやって不規則に現れては消える人影が、現実世界で眠っていて、たまたま夢の中でこの【非現実の境】に接触した人間の意識の幻影なのだと知っている。
 空に現れた黒い靄の触手のことなど気付いていない様子で、夢の中にまで反映されているのだろう、それぞれの感情を湛えた様子でうろうろと歩き回って、現れた時同様唐突に消える。
 そして、この世界は現実世界の時間と連携していない。
 今現れた人影は、現実世界で自分たちがいる時間とは遠く隔たった時代の人間かも知れない。
 自分たちの生きている時間ではまだ生まれていない、もしくはもういない人間かも知れなかった。

 そんな人影が目につくと、ふとそちらを見てしまう。
 そしてそんな自分に気付いて、アルツールは苦笑する。
(こんな状況でなかったなら、死んだ妹でもいないか、探してみたいのだがな……)
 エヴァは、人影のいた辺りから目を逸らし、図書館の建物を振り返り仰ぎ見た。
(【非現実の境】、アレクサンドリア夢幻図書館、か……
 あの人にももしかしたから…そしてあの人の書も)
 そして、首を横に振る。
(…いえ、もう詮無いことだったわね)

「はーっ、ここが例の図書館という奴か!
 夢で繋がる建物などというからどんなふわふわした代物かと思いきや、存外厳つい建物なのだな」
 2人の思いを知ってか知らずか、いささか頓狂な声を上げたのは、ソロモン著 『レメゲトン』(そろもんちょ・れめげとん)である。
 己の夢でアルツールらを通してから自らが来たため、彼らよりやや遅れての到着であった。
「ここに我の原書もあるのだろうか?」
 興味津々の目で、城塞にも似たその建造物を見上げる。
「……しかしまぁ、確かめるのは後になりそうだな」

 空が暗くなる。触手型の靄は先程より大きく伸びている。

「なんとか『歴史』の認識を変えられればいいが……簡単にはこちらの話を聞いてもらえそうになさそうだ」
 靄が形作る触手――『虚無の手』の先は、真っ直ぐに図書館へと向かっている。
 アルツールは『召喚獣:サンダーバード』と『召喚獣:バハムート』を呼び出し、虚無の手の図書館に向けた一撃に備える。
 アスタロト・シャイターン(あすたろと・しゃいたーん)は少し離れた所で、【サンダーブラスト】で応戦する構えを取りながら遠くの空に目をやる。
 その様を遠景で捕えようとする時、目の端々に映っては消える幻影の人影に、心が一瞬向くことはどうしても避けられない。
 いま目の前にあるのは戦うべき相手、だが、心の中に淡い、しかし消えない微かな望みがある。
(誰か……たった一人で構わない……)
 夢の茫洋の中を歩くその人々の意識の中に、遠い遠い、遥か昔、自分を崇めてくれていたものはいないか。
(願わくば、もう一度、あの頃の皆の顔を見られれば、わたくしは……)



 人は、人の世は、様々なものを喪いながら先へ先へと進んでいく。
 二度と取り返せないものもある――それは当然の話。
 それでも、もしそれを、たとえ夢幻にすぎなくても、もう一度目にすることができるのなら……

 僅かに、微かに、揺れ動いてしまうのもまた、人の心なのかもしれない。



 そんな人の心の感傷を鞭打とうとするかのように、巨大な虚無の手は空中で大きくしなっていた。