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【真相に至る深層】――前奏

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【真相に至る深層】――前奏

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【それぞれの水底――想う淵】


 地上の太陽が水面から光だけを、都市の地面へと映す、まだ日も高い午後のこと。
 ティユトスとアジエスタが引き合わされてから数年の時が過ぎ、少女は女性と呼べる齢となり、一人の戦士から茜色の騎士団で次の団長は間違いないと呼ばれるまでに成長し、日々は表向きのどかに過ぎていた。
 だが、それが仮初めであることも、どこかで皆感じていた。
 ただ、それが壊れるのが今日だと、思っていなかっただけで。

「そなたには、この度正式に命を下す。契約の時――十九の生誕日の訪れる前に、媛巫女の魂を献じよ」

 紅の塔、紅族の高官や騎士団員達の居並ぶ中央の間。
 豪奢な椅子に腰掛けたオーレリアが告げるのに、跪くアジエスタは明らかに顔色を変えた。
 薄々に分かっていたことだ。いつか来ると知っていたことだ。それでも、こうして正式に命じられることで、足元がぐらりと傾いでいく感覚がアジエスタの心を襲う。そんな様子を心配げに見守る者達の中で、特にその顔を曇らせていたのは、彼女の恋人であるメイサー・リデルだ。今すぐにでも駆け寄りたい、とその顔が言っているが、流石に居並ぶ者達の前にそれは叶わず、きり、ともどかしさに爪を手のひらに食い込ませた。
 誰もが一言も発せず、アジエスタもただ頭を垂れてその命を受け入れるしかない。辛うじて「御意に」とだけ答えたアジエスタへ、オーレリアは鷹揚に頷いて立ち上がった。
「方法はそなたに任せよう。妾の期待に応えてくれると信じる」
 そう言い残して部屋の主が去り、決められた順に従ってそれぞれが退出してゆく中、そっとアジエスタに近付いたのはリリアンヌだ。茜色の騎士団つきの官吏となってから、馴染み深くなっていたアジエスタに、リリアンヌは辛そうな顔で「お可愛そうに」と同情に満ちた声でアジエスタに囁いた。
「お辛いでしょうね。でも、躊躇ったりなさらないでね?」
 びくり、とアジエスタが肩を揺らすのにリリアンヌは目を細めた。
「あなた様が殺してくださらないと、皆死んでしまうんですのよ。皆のために、あなた様が殺さなくてはならないのです。一刻も、早く」
 ゆっくりと噛んで含めるようなその言葉は、甘い響きを持った毒だった。
 罪悪感の合間、公私の隙間に滑り込んでじくりとアジエスタの意識を蝕む。分かっている、と絞り出すような返答に満足げに薄く口元を笑ませながら、リリアンヌは追い討ちをかけるようにその繊細な指の形がわかるようにアジエスタの無骨な手のひらの上にそれを重ねて、甘えるように、悲しむように囁いた。
「アジエスタ様。あなた様の優しさで、あの可哀想なお方を、早く楽にして差し上げてくださいませね」


「お帰りなさい、アジエスタさん」
 そうして、最後に退出したアジエスタを迎えたのは従者のチャチャと、祖父のノヴィムだった。目に見えて沈痛な面持ちに、チャチャはオロオロと主人を窺った。
 チャチャ自身はその身分故に紅の塔には入れないが、おおよその事情はノヴィムやアジエスタ自身から聞いて知っている。それだけに、何と声をかけて良いのか判らないのだ。
「アジエスタさん……」
 自分の方が消えてしまうのではないかと言うような心許ない声に、アジエスタはようやく小さく苦笑を浮かべると、親しい者達ばかりに囲まれている状況に甘えるように、深い溜め息を吐き出した。
「すまないな、チャチャ、お祖父様。やっぱり、冷静でなんて、いられないみたいだ……」
「そんなの、当たり前ですっ」
 チャチャが思わずと言った調子で声を上げた。その途端、はっとなってまた小さくなるチャチャの肩をノヴィムがぽんと叩いた。
「のう、アジエスタ……冷静で居なくてはならんと、誰も言ってはおらんのじゃよ」
 その言葉に、ゆるりと首を上げるアジエスタの頭を、ノヴィムは軽く撫でて年長者らしい落ち着いた眼差しをアジエスタへと向けた。
「よく考えれば良いのじゃよ。儂やチャチャ……それに主の輩も皆、主の意思を尊重するでな」
「その通りです」
 ノヴィムの言葉に、チャチャはこくこくと頷く。言葉は上手くなくとも、少女のその目は、心配と信頼と親愛、それらの温かな感情でアジエスタを見ていた。その優しさにアジエスタの表情も僅かにだけ綻ぶ。
 その横顔を眺めていたノヴィムは、ふと近付く気配にアジエスタの頭を軽く叩いて、近付く人影を示した。退出したあと、雑事をこなしてから急いで追いかけてきたのだろう、メイサーだ。恐らく今の彼女にとって、最もその心を慰める相手だろうと、ノヴィムとチャチャが背中を押すのに、アジエスタは素直に従うと、メイサーが少し歩かないか、と差し出した手を取った。
 いつの間にか日は傾き、夕刻を迎えた天膜から零れる赤い日差しが、水面の揺らぎを映しながら二人の影を長く伸ばす。暫く無言で人気の無い道を歩きながら、メイサーは都市の中でも珍しく花をつける樹の下でその足を止めた。
「……とんだ誕生日になってしまったな」
 その言葉に、アジエスタは硬くなっていた顔をほんの少し苦笑に緩めた。正直を言えば、今の今までそのことを忘れていたのだ。それがありありと判る蒼白な顔に、メイサーは眉を寄せながらアジエスタの短い髪をそっと掬うようにして頭を撫でた。辛くない筈が無い。苦しくない筈が無い。だがそれを同情として口に出した所で、幾らの慰めにもならないのは判っていた。
「アジエスタ」
 メイサーは名を呼ぶと、笑い方を忘れたように曇ったその顔を見つめながら、繋いでいた腕を軽く持ち上げて、その左手首へと金の腕輪をそっと嵌めた。目を瞬かせるアジエスタに、メイサーは目元を和らげて告げる。
「誕生日おめでとう。そんな気持ちではないのは判っているが……祝わせて欲しい」
 そうして、アジエスタが何かを言いかけるより早く、その腕を引いてそっと抱き寄せると、宥めるように背中を撫でながらその耳へと囁きかけた。
「俺は……アジエスタが選ぶ道を助ける。その剣が重いなら、半分を俺が持つ」
 だから、そんな孤独な顔はしないでくれ、と。そう告げるメイサーに、アジエスタはくしゃりと顔を歪めると、それを隠すようにその額を肩に落とし、抱き寄せる腕に身を任せたのだった。


「……中々、妬ける光景ですね」
 その光景に、オゥーニは、気付かれないほど遠巻きに距離を取ったまま息をついた。覗き見をするつもりではなかったのだが、蒼白だったアジエスタを慰めるために追ってきたところ、先を越された形になったのだ。軽い嫉妬を抱きながらも、これでよかったのだろう、と複雑な息をついたオゥーニは不意に、自分とは逆側の物陰で、同じように二人を見ている人物を見つけた。アジエスタと同じ、茜色の騎士団に属する戦士にして、アジエスタの友人であるファルエストだ。
 だが、オゥーニはその距離のせいで気付かなかったが、アジエスタを見るフェルエストの黒曜の目は、友人に向けるそれではなく、どこか暗く重たいものをぐつぐつと煮やしたような色をしていた。
 フェルエストが、アジエスタへの憎悪を自覚したのは、数年前だ。
 だが恐らくそのきっかけは、もっと過去。幼い頃から宿った小さな棘だ。
 その資質から、早くに騎士として取り立てられ、アジエスタと共に厳しい訓練を受け、その補佐となるべく研鑽を積んできたフェルエストだったが、成長するにつれ、力をつけるにつれ、自分の位置がいつも友人の影にあることに気がついた。どれ程力をつけても、「絶命」の異名をとる友人の右には立てない。どれ程功績を上げても、それはひとつ前をいくアジエスタのそれに飲み込まれてしまう。その事実に自覚した時、フェルエストは戦慄した。
(わたしは……彼女が居る限り、光にはなれない)
 全ての努力も、全ての力も、アジエスタが全て食らって奪っていって、自分はただ影として何も残らない。彼女が生きている限り、それは絶対に覆らないのだ。そう思ったとき、フェルエストの中で鈍く積み重ねてきたものは噴き出したのだ。
(今は……幸せを味わっているといいわ、アジエスタ)
 仲睦まじく愛を語り合う二人を見やりながら、フェルエストは内心に呟き、口の端を上げた。そして、そのままくるりと身を翻すと、足を速め、自分を見ていた影へと距離を詰めた。そこに居たのは蒼族、藍色の騎士団に所属するアンリリューズだ。このところ感じていた、監視するような視線はどうやらこの女らしい、と確信して、フェルエストはすれ違い様に、切りつけるような目線を投げかけながら、声を低めた。
「随分、熱心ね」
 その言葉に、アンリリューズは僅かに眉を潜めた。
「それは此方のセリフよ。随分と物騒な目をしていたようだけど?」
 探るような声音に、フェルエストは、ふ、と口角を上げる。
「下らない好奇心、下世話な覗き見趣味はやめといた方がいいわよ? 私は寛容じゃないから」
 そんな警告めいた一言と共に、アンリリューズが何かを言うより早く、夕闇の深まる街影の中へと、フェルエストの姿は溶け消えていったのだった。



 その夜の事だ。
 か細い燭台の炎だけが僅かに照らすだけの闇深い一室。
 ビディリードの寝室の天蓋の影から、女の声が主の名を呼んだ。
「マヤか」
「はい。オーレリア様はその後そのままご帰還なされました。立ち寄られた家の主は、直後から行方が知れません」
 応じたのはマヤールだ。
「黄族も、動きがありました。アジエスタ様が動かれたようです」
「……で?」
「…………失敗、なされたようです」
 答える声が心なしか硬い。恐らく、殺害現場を見たのだろう。その反応にビディリードは面白がるように目を細めた。
「成る程、龍の加護か。いや、これは執念かな?」
  くく、と喉を笑わせたビディリードは、引き続きの神殿の監視をマヤールに命じて下がらせると、傍らに横たわったアンリリューズの髪を掬い上げながら、白い首筋を辿った。そのくすぐったさに身じろぐ、艶めかしく晒された肌の上、形良く丸みを帯びる肢体に、ビディリードの指がゆっくりと這う。そんな愛する男の腕の中で、アンリリューズは小さな胸の疼きを押し殺した。
 この男が、熱情に任せて自らを抱きながら、同時に冷たいその心で違うことを考えているのが判るからだ。
 恐らくは件の巫女と龍、そして他のあらゆるものをどう使うかを巡らせている。そんな時のビディリードの中では、自分もただの駒となることを、アンリリューズは知っている。
 豪胆豪腕の二つ名で呼ばれ、実際、計謀の類と得体の掴みにくさについては弟に右席を譲りはするが、激情的に思われがちな彼の腹の内は、意外に明かされることは少ない。その点では弟以上に本心の掴みにくい男の事を、アンリリューズは誰より理解していると密かに自負していた。
(それでも察するのがやっと、なのだから、こういうところは父親になのよね)
 ビディリードとは、彼の父親によってアンリリューズが戦士として抜擢された頃からの付き合いだ。
 若く精力的で野心に溢れたビディリードはアンリリューズには魅力的な男であり、ビディリードもまた好意を向けてくる若くて美しい女に手を出すことを躊躇うような種類の人間ではなかったため、そういった関係になったのは自然な成り行きだったのだろう。そのまま、幸福な日は続くと思っていた。その立場を厭う者達によって流産し、二度子供の望めなくなってしまうまでは。
(あなたはこうして今も私を愛してくれる。でもそれは……)
 同情ではないのか、都合の良い女だからではないのか。そんなものがふと過ぎったのを、敏く見つけたビディリードが訝しげな目で此方を見ているのが判って、アンリリューズはするりと首に腕をかけ、その口が興醒めな言葉を吐き出す前に、唇を唇で塞いだ。
 自分を見て欲しい。無心に求めて欲しい。例えその心が時に、自分ではないものを見ているとしても。
 冷静な戦士としての姿を脱ぎ捨てたアンリリューズは、口付けで、その柔らかな肉でビディリードの心に投げかける。その瞬間は戦士と主の関係ではなく、一組の男女としてその名と身体を差し出すのだった。





 そして、更に時は過ぎて二年。

「だから、今こそ必要なのだわ。『秘密結社オリュンポス』が!」

 右手人差し指は真っ直ぐ。左手は腰に。
 堂々たる姿勢でそう声を上げたのは、トリアイナ・ポセイドン……を名乗る、本名マリナ・エナリオス。自分こそが伝説の“薄倖のトリアイナ”の生まれ変わりであると言って憚らぬ少女の、いつものような突拍子のない物言いに、慣れたものでバルバロッサは「今度は何ですかな?」と面白がるように首を傾げた。
「言葉の通りよ! “薄倖のトリアイナ”の力の源である(※空想)かの霊峰オリュンポスの偉大なる魂……“グレートソウル”の導きに従い、『秘密結社オリュンポス』を結成する時が来たのよ!」
「また妙なこと言い出しやがって……」
 きょとんとするティユトスの隣で、盛大に溜息を吐き出したのは茜色の騎士団に所属する戦士、アルカンドだ。その、上司にも時に食って掛かる生来の性質故に、騎士団内で敵も多いこともあって非番の時はよく神殿を訪れているため、自然とティユトスとその周りの面子とは顔馴染みとなっており、またバルバロッサたちも気さくな人柄な為、お互いの言葉には遠慮がない。
「妙じゃないわよ! 神聖かつ偉大な計画と呼びなさい!」
「して、その計画とは何ですかな?」
 バルバロッサが水を向けると、得たり、とトリアイナは唇を自信満々に引き上げる。
「我々巫女による、ポセイダヌス様を敬愛し、尊敬し、そして愛をアピールする結社よ!」
 要するにファンクラブである。ははあ、とバルバロッサが曖昧な相槌を打ちながら腕を組んで首を傾げた。
「しかし、龍が人間の愛情表現を、理解しますかな」
「くっだらねぇ……」
 アルカンドが息をついた。永い時を生きる古代龍は、人間とは全く異なる精神をした生き物だ。特にポセイダヌスは一人一人の顔の区別もつかないのではないか、と言うほど人間に感心が無いのは、巫女であれば数年も勤めれば察することが出来る。龍にとって人間は小さすぎて、瞬く間に消え行く泡のようなもので、関心を払うに値しない、とその態度が告げる。特別なのは、ただ一人の魂だけなのだ。だがその事実を前にしても、トリアイナは怯むことも無ければ迷うことも無く、自分こそがその愛を勝ち取るのだと声高に語るのだ。その姿をどこか眩しげに見ていた友人のティユトスに、トリアイナはじとり、とその視線を向けた。
「これには、ちゃんとした理由があるのよ。ティユトス!」
「何です?」
 首を傾げるティユトスに、トリアイナは不意にその声を静かにして「ティユトス」ともう一度名を呼んだ。
「あなたは、ポセイダヌス様に恋をしていないのでしょ?」
「……!」
 その言葉に、ティユトスは息を呑み、アルカンドが僅かにぴくりと眉を寄せた。そう、彼女の指摘の通り、ティユトスはポセイダヌスに恋はしていない。彼女にとって龍とは自身の死の理由なのだから、当然といえば当然だろう。苦く俯いてしまったティユトスに、アルカンドは複雑な気持ちで手を伸ばし、その肩を撫でようとして結局躊躇ってそのまま手持ち無沙汰な指先を引っ込めた。龍を想っている訳でもないのに、龍に沿わなければならない彼女を憐れむ苦い気持ちの傍らで、彼女の心が、薄倖のトリアイナと同じように龍のものとなっていないことを喜んでしまう。いつもは乱暴に言葉を投げる口も上手く回らないで、アルカンドは年相応の不器用さで、やり場の無さを誤魔化すようにがりがりと頬をかいた。
 そんな二人の様子に、トリアイナは珍しく苦笑を浮かべると、俯きっぱなしのティユトスの背中をぽんぽんと優しく叩いて「だから、任せておきなさいと言っているのよ」と力強く言った。
「わたしこそが正統なポセイダヌスの恋人であり、妻となるのだから、あなたは自由に誰かを想えばいいのよ」
 その言葉が、どれ程重たいか判らないほど、トリアイナは愚かな少女ではない。だが他に誰も言えない言葉であることもまた、理解していた。
「トリアイナ殿は良い子ですなあ」
 バルバロッサが優しく頷いた。その背負う定め故に塞ぐことの多いティユトスに、トリアイナの変わらない堂々たる態度は良い慰めだ。付き人であるバルバロッサは、少しでもティユトスの心を幸せに出来るこの少女を気に入っているようだ。
「当然ね。何しろわたしは、トリアイナ・ポセイダヌスなんだもの」
 ふふん、と鼻を鳴らし、そのままのノリでルスキニアを結社に誘いに向かおうとするトリアイナに、アルカンドは突っ込みを入れながらもティユトスと共に付き添い、その後をバルバロッサが追う。
 そんな暖かな光景を、ティーズやネフェリィたちと見送りながら、イグナーツは笑みを深めた。
 この光景を、いつまで見ていられるのだろう。そんな切なさと同時に、彼等を――身寄りの無い自分にとって、家族に等しい彼等を守るのはどうしたらいいのだろう。
 そんな思いを胸に宿すイグナーツの背後では、オーレリアの密命を受けたケァルクセスが静かに口元を歪めながら、観察するように眺めていたのだった――……