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春をはじめよう。

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●夜桜もまた……

 いつの間にか周囲はすっかり暗くなっていた。夜桜の時間帯といえよう。けれどキャンパス内の活気が衰えることはない。桜にはほの明るいライトアップがなされ、暗くなってから姿を見せるものは数多い。
 アッシュ・グロック(あっしゅ・ぐろっく)もその一人だ。
「寝坊したー」
 彼は寝ぐせのついた頭のままで姿を見せた。昼に来るつもりが春の寝床の心地よさは彼を放してくれず……というやつだった。また、昼間の雑用を終えてアクリト・シーカー(あくりと・しーかー)嵐を起こすもの ティフォン(あらしをおこすもの・てぃふぉん)と共に現れてもいる。
「いい陽気になりましたな、アクリト先生」
 竜は厚い鱗の下に覆われた体を、ゆっくりと地に横たえた。
「ええ、たくさん生徒が集うことができたのも、大いに結構なことです」
 見上げるアクリトはティフォンの目に、優しげな笑みが含まれているのを見て取った。社交辞令ではない、学長は、本当にこの盛況を喜んでいるのだ。
「ティフォン学長、シーカー教授」
 永井 託(ながい・たく)が恭しく礼をした。託は春から空大生、これから色々と、この両者にも世話になることだろう。
「ご挨拶がわりにせっかくですので一献、さしあげたいと思うのですが」
 すっくと立つ託は凛々しい姿だ。良い学生が入ったものだねと、ティフォンは嬉しそうに答えた。
「といっても……」
 託が言葉を濁したので、学長は巨大な首をめぐらせた。
「ははは、ワタシにどうやって酌したらいいか考えているのだね」
 これに頼むよ、とティフォンは傍らの杯を示したのである。託にとっては浴槽ほどもある特製の杯だ。といっても巨大な竜であるティフォンにとっては、ほんのショットグラスといったところだろう。見ればすぐそばには樽も用意されている。栓を抜けば、そこからワインが注がれる仕組みだ。
「なるほど……では」
 託はそこから樽ワインを学長に注ぎ、一杯分すくってアクリトに渡した。
「君も?」
 アクリトが言うも、
「ああ、いや、ちょっと興味はあるんですが、ギリギリで未成年だからお酒は断った方がいいかなぁ」
 託は葡萄ジュースを手にした。
「それではこの夜を祝して」
「乾杯」
 巨大な杯に人間二人が、ちょんとグラスを当てるという奇妙な乾杯となった。
「おっと、俺様も混ぜてくれよ。なんか、イルミンの仲間が見つからなくてさぁ」
 同じ杯に、アッシュが自分のコップを当てる。
 これをきっかけに、託はしばしアッシュと話した。一人称が『俺様』だったりして傲慢なようだが、その実、年相応の少年であるという印象を受けた。
「……背」
 ある程度うちとけたところでアッシュがぽつりと言った。
「背?」
「あ、いや……どうやったらそんな伸びるのかな、って思って……」
「うーん。まあ、よく食べてよく眠ることじゃないかなぁ……?」
 どうやらアッシュは背の低さがコンプレックスらしい。眠りだけなら結構やってるんだけど、と口惜しげに呟いているのが印象的だった。
 そんなこんなで三人と別れると、託は同行のパートナーたちの所へ戻ることにした。足早に歩く。学長やアッシュと話し込んで、福寿 幸(ふくじゅ・さち)無銘 ナナシ(むめい・ななし)をすっかり放置してしまったことに気づいたのだ。
 その幸とナナシは、花の重みか枝のたわんだ桜の下に向き合って座っていた。
 ここからでも、ティフォン学長と託らが談笑しているのが見えた。そればかりではなくほうぼうからも喋り声や笑い、あるいは歌が聞こえてくる。誰かが冗談でも言ったのだろうか、どっと沸き立つことも数知れない。
 けれどそれがナナシには気にくわないようだ。
「何故我がこのような場に……我は必要としていないし、我を必要とする場でもなかろうに」
 不満げな表情を隠そうともせず、ぶすっと胡座の両膝に手を付いている。
「そんなことはありませんよ。こういう場は誰にでも楽しむ権利はあるのですから」
 もちろんナナシさんにも、と言いきかせるように幸は言う。ところが眉を片側だけ上げて、
「楽しまない権利もあるわけだ」
 ふん、とナナシは面白くもないように言った。そんなことを言われても幸はまるで動じない。
「でも、楽しむほうが気持ちいいですよね?」
「ま、まあそれもそうだが……」
 どうもナナシは、幸のことが苦手だった。ああ言えばこう言う――多少意地悪なことを言って突き放そうとしても、いつの間にやら幸のペースになっている。まるで自分の考えが読まれているかのようだ。
「さてナナシさん。花見の楽しみといえばお酒でしょう。これは、託さんがご用意下さったものですが」
 幸は縦置きした鞄から、清酒の入った木箱を取り出した。
「置いているだけではただの飾り、ありがたく頂戴するとしましょう」
 彼女は桐の箱を開け、用意したぐい飲みをナナシに手渡す。
「いかがです? 飲めるほうだとうかがっております」
「もらってやらないでもない」
 ナナシとてあまり頻繁に飲むほうではないものの、勧められて断る理由もなかった。
「なんだこの名前は……」
 ラベルの銘は『萌え殺し』、甘口だが強烈なパンチのある酒で、しかし一杯乾すまた次が欲しくなるような味わいがあるという。
「こんな名前の酒では酔いもすまい」
 と断じ、注がれた杯をぐっと呷るやナナシは瓶を取って、
「我ばかり呑んでもつまらん。幸も相手しろ」
 と返杯する。
「ありがとうございます」
 酒はナナシの警戒心を取り去り、いつしか二人は四方山話に花を咲かせていた。
「我の年齢か? 忘れたな。まあ、二十歳どころか千年単位で年月を過ごしておるぞ……ははは」
 といった次第で普段より明るく饒舌になったナナシだったが、酌み交わす『萌え殺し』は甘口なれど、アルコール度数は結構な酒なのである。だんだんナナシは動きが鈍くなり、いつの間にか突っ伏して眠っていた。
 その突っ伏した場所が、正座した幸の膝の上であることなど、今のナナシは知りようもない。
「こうして眠っている姿は子どものようですわね……」
 寝顔がいとおしくなり、幸はナナシの前髪を払ってあげた。そのとき、
「んぅ……主様……姉さま……何処ですか……私は寂しいです……」
 これまでとはまったく異なる声色でナナシが呟くのが聞こえた。甘えているようだが、半ば泣きそうにも聞こえた。
「ナナシさん……」
 きっと、ナナシの求める『主様』や『姉さま』はここにはもういないのだろう。起こしてはいけないと思い、抱きしめてあげたい衝動をこらえて幸は囁いた。
「大丈夫ですよ、姉さまはそばにいますから」
「えへへ……ありがとうございます、姉さま……むにゃ」
 この言葉を最後に、ナナシはすやすやと寝息を立てたのである。
 託が戻ってきたのはちょうどその時だった。
「どうした? ナナシ……?」
 そんな彼に幸は人差し指を立て、そっと自分の唇に当てて見せたのだった。
「しっ……。もう少し近くに来て下さいまし。わたくしとは、小声でお喋りいたしましょう」