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春をはじめよう。

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春をはじめよう。

リアクション


●Especially for You

 黒い布にビーズを散らしたよう――それが星空の美しさとすれば、地上の桜の隆盛は、何に喩えればいいだろうか。
 桜の下で二人きり、博季・アシュリング(ひろき・あしゅりんぐ)リンネ・アシュリング(りんね・あしゅりんぐ)ともたれ合いながら、かけがえのない甘いひとときを過ごしている。つがいの小鳥のように。
 空大のキャンパスは広い。中心からすこし遠ざかれば、すぐに静かな一角が見つかった。ここで二人、誰にも邪魔されずにときをすごしているのだった。
「あ、そうだ乾杯の前に……」
 博季は思い出して、紙コップと紙皿を用意して手近な桜の下に揃えておいた。二人分。
「死んだシータやラムダの分も……献杯って言うんでしょうか」
 慈しむような眼をして、博季はこれを桜の樹に供えたのである。
「それは?」
 リンネが問うた。
「友達の分、です」
 博季は微笑む。
「うん。二人とも、どんな人生だったんだろうね」
「わかりません。けれど……」
 今は安らかでいてほしい、そう願うと博季は言った。
「今の僕たちのように」
 桜の樹から振り返った博季を迎えたのは、リンネからの熱いキスだった。
「リンネちゃんは一人きりになって……博季ちゃんの安らかな眠りを祈るなんて、やだからね」
 唇を離して、リンネは博季に言ったのである。
「絶対に一人きりにしないでね!」
 雰囲気がそうさせているのか、しんみりした話のせいか、今宵の彼女はいつも以上に素直だ。
 リンネがくれたキスは短いキスだった。
 それに対して博季は、ずっと長くて濃厚なキスを返したのである。
「あ……」
 我慢できなくなったのだろうか、博季の腕の中でリンネは力がへなへなと抜けて、舞い落ちた桜の絨毯に背中を預けたのである。
「好きだよ」
 リンネが言う。その首筋に緋色の花弁が一枚、しっとりと貼り付いている。
「僕もです」
 覆い被さって博季はリンネを愛した。
 言葉で、体中で。思いつく限りの全てを使って。
 春の風が吹き込んできた。博季の下でリンネが、ぶるっと震えるのが判った。
「流石にこれ以上は、お家に帰ってからにしましょうか」
 着衣の乱れを直しつつ、博季はリンネに笑いかけるのだった。
「うん、お家に帰ろう」
 リンネも身を起こし、博季にすがりつくようにしてその耳に囁いたのだ。リンネの甘い息に震えが来る。今夜は長くなるかもしれない。
「満開の桜も綺麗だけど……」
 夢見心地で博季は呟いたのだ。
「やっぱり自分達の『家』って、特別な場所ですよね」
 

************************************


 楽しい夜桜だが、楽しむ者ばかりではない。
 人をふと感傷的な気分にさせるものだ。夜の桜は。
(「……駄目だ、見つめていると、辛い」)
 樹月 刀真(きづき・とうま)は桜から視線を外した。一時は咲き誇ってもやがて散る……この花の宿命を思うと、胸にナイフを突き刺されたような気持ちになる。
 この夜、刀真は半ば強引に漆髪 月夜(うるしがみ・つくよ)に連れられ懇親会の会場にあった。
 居場所がない――彼はそう感じている。
 桜を眺めれば心が痛み、かといって他の来客と会話を交わすような気にもなれない。ここにいる意味を見いだせないのだ。
 仕方がなく手持ち無沙汰で、魂の抜け殻のようになった身を桜の下に置いている。片手には銀の杯があり清酒で満たされているが、それを呑むでもなく、ただ掌で温めているような状態だ。そして彼は、他に向けるところがない、という理由だけで月夜のほうを見ていた。
「どうしたの?」
 なにか考え事? と月夜が問うた。
 何も、と回答しても良かったが、それはあまりに冷たい気がして、
「酒のつまみ……」
 作ったのか、と、酒瓶と共にならぶ一品料理を刀真は指した。いずれも酒によく合うものばかりだ。オクラのなめたけ乗せ、山椒豆腐、あぶりサーモンにマグロの中おち、ジャガバター等々。
「料理が下手な私だけじゃ難しいから、白花と一緒に作ったんだよ」
 月夜は告げた。封印の巫女 白花(ふういんのみこ・びゃっか)については花見に行くこと自体も誘ったのだが、二人だけでいってらっしゃい、と断られたのだった。その際月夜は、「頑張って」とも言われた。
(「気を遣ってくれるのは嬉しいけれど……」)
 本当は、まだ二人きりになれる自信は月夜にはなかった。
 
「刀真!」
 月夜は彼の腕を取った。刀真を強引に振り向かせると、彼のネクタイをぐいとつかみ自分の顔に急接近させた。
 そして、刀真と唇を重ねた。
「……! 何を!」
 熟睡中に揺り起こされた男のように、刀真は唇を離すとまばたきした。
 今初めて、そこに彼女がいることに気づいたかのように……


 魍魎島の決戦、その場の勢いで月夜は刀真にキスをした。
 島から帰還して以後現在まで、刀真はそのことを一度も口にしなかった。
 けれど月夜は、意識してしまう。むしろ刀真が何も言わないだけに気になった。どうしても、二人きりだと緊張してしまうのである。
 会話が途切れ生まれた空白を埋めるように、月夜は杯を重ねた。成人ではあるがそれほど飲めるほうではない。だけど今は酒の力を借りたかった。
「……あれ?」
 見上げた桜の枝が二重に見える。いや三重だ。ぼやけて揺れている。
 もう、どうとでもなれ。
「刀真ぁ〜」
 我知らず甘えた声で月夜は刀真に抱きついていた。
 どうした、と告げた刀真は、月夜の体温を感じてたじろいだ。
 接して思い出したというのか、脳裏に、魍魎島での口づけの記憶が蘇ったのである。あのとき確かに月夜は、『剣』ではなく『女』だった。
 生温かい風が心をかき乱すのか、それともこれは春の夢か。
(「剣は剣士の命だ、だから剣そのものである月夜は、俺の命かそれ以上のものだと言い切れる。……でも、それは剣士としての俺で、男としての俺は?」)
 刀真の腕は、いつの間にか月夜の背中にまわされている。
 誰も見ていない。周囲には誰一人いない。
 ここで彼が獣に帰したとて、誰がそれを責められよう。
(「しかし」)
 つまみの由来を聞くべきではなかったかもしれない。いや、そのおかげと言うべきだろうか。
 刀真はこのとき、もう一人の剣の花嫁……白花のことを思い浮かべたのだった。
 すると急速に、刀真をまどわせていたものは萎んでいった。
「刀真……?」
 月夜はこのとき、彼に頭を撫でられていることに気づいた。それが徐々に穏やかな気分を招き、いつしか月夜の瞼はぴたりと閉じられたのである。
(「気持ちが良いから……このまま寝ちゃおう……」)
 今の月夜には無理な話だった。「頑張って」と伝えたときの白花の気持ちを推し量るのは。
『初めて会った時から刀真さんの隣には月夜さんがいました、二人はいつも一緒でお互いを信頼し合って戦っていました』
 このとき白花の眼はそう訴えていたのだ。
『刀真さんを欲しいと思ったことが無いと言えば、嘘です……でも二人の間に割り込みたいとは思いません』
 その意思があっての「頑張って」だったのである。
 けれどそこまで酌み取れというのは、今の月夜には難しい話だ。