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冬空のルミナス

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●書き初めのいろは(2)

 通りかかった羅英照に敬礼し、ジェイコブ・バウアー(じぇいこぶ・ばうあー)はその妻、フィリシア・バウアー(ふぃりしあ・ばうあー)とともに畳に向かった。
 書道はおろか日本語を書くのもままならぬジェイコブが、なぜ書き初めに参加する気になったか、それは妻フィリシアの勧めによるものだった。
「一年の誓いを文字にして表すこと、それが書き初めの主題なの。なかなかない機会と思わない?」
「一年の誓いか……たしかに、そうないことだな」
 一年、という括りをするならば、たしかに昨2023年はジェイコブにとって激動の一年だったといえよう。
 最大のできごとは言うまでもない。『ジェイコブ・バウアー曹長、妻を娶る』だ。しかもジューン・ブライドである。同僚には散々からかわれた……というか、「結婚できない男」と思われていたので衝撃的だったらしい。しかも相手は美人だからなおさらだ。
 同僚に心ないことを言われたりからかわれるのはまだいい。軍人らしい荒っぽい祝いかたといえないこともないからだ。
 ジェイコブにとって真にショックだったのは、故郷であるロサンジェルスの家族に連絡したときの反応だ。
「ハロルド叔父さんが海軍大将に昇進してペンタゴン入り以上の衝撃的ニュースだ!」
 開口一番のコメントがこれである。軍人一族なので喩えが軍関係になるのは構わないとしても、だ。
 ――どんだけオレは結婚できない男だと思われてんだよ!
 そこまで驚かなくてもいいだろう。男ジェイコブ、さすがに腐りそうになったが我慢した。考えてみれば、『結婚できると思われていてできなかった』よりはいいのではないか。……そうとも言い切れないか。
 今日のジェイコブは非番だ。ノータイのスーツの上にコート、マフラーという気楽な姿である。だが、
「フィリシア……」
 着替えて出てきた妻を見たとき、ジェイコブが思わず見とれたことを記しておこう。見とれるどころか、言葉を失ってただ、魂を奪われたようにぼんやりとしてしまった。
「どうかしら?」
 フィリシアは日本の着物姿だったのだ。着物についてジェイコブは詳しくないので、なんというタイプのものなのかはわからない。だが、間違いなく彼女に似合っていた。結婚して一年になるのに彼は、またひとつ、自分が知らない彼女の美しさを見せてもらえたような気がした。
 その感慨は会場入りしても変わらなかった。
 女性はたくさんいるが、フィリシアはひときわ輝いて見える。
 ――たしかにオレは、色んな意味で自分にはもったいない女と結婚したんだな。
 誇らしい気持ちがある。同僚のからかいも、実家からの衝撃発言も気にする必要はないのだ。フィリシアと結婚できた幸運は、それを補って余りある。
 フィリシアは、そんなジェイコブが好きだ。無骨で不器用だが、まっすぐに愛してくれる彼と生涯ともにいたいと思っている。
 ――いよいよ結婚二年目ね……これからの物語をどう紡いでいくか、その過程を大切にしていきたい。
 どんな夫婦でも一度は思うことかもしれない。だが一般人よりも、彼ら夫婦の場合その意味は重い。
 二人とも軍人だからだ。
 ある日唐突に、結婚生活は終わってしまうのかもしれない。
 ――でも、それは考えないでおこう。
 暗い不安よりも明るいところを見よう。それは、軍属になるずっと前から変わらぬフィリシアの考え方だ。
 さてジェイコブは筆を手にしたが、なにせ勝手がわからない。
「大丈夫、私の書く通りにやってみて」
 さらさらとフィリシアは文字を仕上げた。彼女は、日本の文化に明るい。
「この見本通りに書けばいいのか? 日本語はよく判らんが、幸運を招く言葉らしいな」
 彼はぎこちない筆運びで、どうにかその文字を書き上げた。
「総長……その字……お見それしました!」
 小暮秀幸が通りかかって敬礼した。彼は少尉なので階級としては彼より上だが、年上のジェイコブに経緯を表していつも敬語だ。
「どれどれ……」
 ルカルカ・ルーもやってきて、これを見るやにっこりした。
「いいなー……奥さんを大切にね」
 他にも、見て祝福するもの、ヒューと口笛を鳴らす者、おおむね好意的な反応ながらどうも解せないものがあった。
「これ……本当はなんて書いてあるんだ?」
 たまりかねてジェイコブが問うと、小悪魔的な笑みを浮かべてフィリシアは言ったのである。
「『我、永久にフィリシアを愛す』って」
「な……!」
 いや、別に良いのだが、そのつもりなのだが……文字に書いて公言するのは……!
 ジェイコブは思った。
 ――この女、恐ろしいな……浮気なんかできんぞ……。

「金団長!」
 その名を口にするだけで、董蓮華の身には震えが走るようだ。名を呼ぶ光栄、その喜びに心臓が早鐘のようになる。
「ああ、中尉も見物か」
 鋭峰は書を仕上げて机から離れると、あとは他の人々が筆を振るうのを眺めていた。達筆の者には「ほう」と感慨の声を洩らしたりしている。
 たしかに上手な者は少なくない。でも、団長以上の名手はいないと、力の限り断言したい蓮華である。筆運びの見事さ、姿勢の美しさ、仕上がった文字の気品……すべてが他を圧倒していると思う。
「中尉は、書かないのか」
「え!? わ、私なんてとてもとても……」
「巧拙を気にする必要はないよ。私は知りたいのだ。中尉の誓いと、文字に込めた想いを」
 ある種の人々には鬼のように怖れられる鋭峰であるが、その本当の心は優しい。それを知っている蓮華である。なんどもその優しさに触れてきた彼女なのである。
 いま、また蓮華は鋭峰の優しさに包まれた気がした。
 ――ああ金団長、それ以上お優しい言葉をかけられたら私……私、恋しさのあまり死んでしまうかもしれませんっ!!
 少なくとも、失神くらいならしてしまいそうだ。
 ふら、と足をもつれさせる彼女を、 
「おいおい大丈夫か」
 スティンガー・ホーク(すてぃんがー・ほーく)がさりげなく出てきて支えてくれた。
 彼はちゃんと気を遣って、蓮華と団長を二人きりにしてくれていたのだ。といっても、緊急事態には届く距離を保っていた。今みたいな場合に備えて。
「中尉?」
 鋭峰が怪訝な顔をしたので、しゃきっと蓮華は立ち直った。
「はい! 大丈夫です!」
「では、見せてくれるか」
「光栄の至りです!」
 ここで引き下がるわけにはいくまい。蓮華は畳みに上がると、日本式に正座して紙に向かった。
 昨年の記憶が、彼女の脳裏をよぎった。
 ニルヴァーナ大陸をナラカに落そうとする企てに対し彼女は、女王器リンクオブフォーチュンを手に挑んだ。ニルヴァーナとパラミタを女王器で深くつなぎ、パラミタでニルヴァーナを支え、大陸ごと落下を止めるという、あとから思い出しても冷や汗が出るような発想……それは、成功した。
 女王器は蓮華の祈りを力に変え、大陸の落下を止める原動力となったのだ。
 ――その功績で私は中尉になった。
 けれどこれは、あくまで偶然だったと蓮華は思っている。女王器の元になる秘宝を入手したのも偶然なら、ダメ元の作戦が成功したのも偶然だ。
 だから、蓮華はこう考えた。
 ――それは一つの結果で成果なんだけど、私自身の力なんかじゃないんだもの。勘違いしないようにまた一歩一歩堅実に頑張って行こう。
 このとき彼女が『脚下照顧』(※脚注)という文字を書いたのは、そんな自分への戒めであり、心構えがさせたことだ。
 見事な書体だ。整っているばかりではなく躍動感がある。変な表現かもしれないが『若い文字』、という印象を受けるかもしれない。
 しばし黙ってこれを鑑賞した鋭鋒だが、短くこれを評した。
「昇級しても奢らず、ということか。実に中尉らしいな。よろしい!」
 鋭鋒は気に入ったようで、かすかにだが目元に笑みを浮かべていた。
 ――うう……褒めていただけるなんて、身に余る光栄です!
 感激のあまり蓮華の涙腺に熱いものがたまった。
 あえて鋭鋒はそれに気づかぬ様子を見せ、黙ってうなずいてから立ち去った。
「団長……言葉少なくとも、団長の気持ちは伝わりましたっ!」
 ぽろぽろと、直立したままで涙をこぼす蓮華であった。
 ――恋しい金団長。変わらぬ愛をもってあなたに尽します……。
「あー……まあ、なんというか、拭いとけ」
 入れ替わりにまたスティンガーがやってきて、彼女にティッシュを渡してくれた。
「さてオレもやってみるか……」
 スティンガーは筆を手に、見様見真似でこれを墨汁に浸す。
「このボタボタ落ちる墨が難敵だ……」
 言いながら彼が記したのは英語で、『Keep your eyes on the stars,and your feet on the ground.』という文字だった。
「これは……?」
 蓮華が訊いてきた。目は赤いが涙は止まったらしい。
「蓮華の言葉から思い至った名言さ。セオドア・ルーズベルトの言葉だよ。意味かい? 簡単な単語しか使っていないから自分で考えてみてほしい」
「でも書き初めで英語って変じゃない?」
「えっ、そうなのかい。じゃあ漢字を教えてくれよ。簡単なのでいいから」
「しょうがないわね。ほんと、簡単なのからいくよ」
 と笑う蓮華は、もう普段の彼女の顔に戻っている。


※脚下照顧――足元に気をつけよ、というのが原義。これが転じて、「他人に理屈を言う前に自己を省みよ」「身近なところに気を引き締めよ」といった戒めの意味になった。孤峰覚明(鎌倉時代の禅僧)の語録『徹心録』より。