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東カナンへ行こう! 5

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東カナンへ行こう! 5

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(やれやれ。無事見つかったみたいだな)
 シャムスの指にはまったピンクゴールドの指輪を見て、高柳 陣(たかやなぎ・じん)はほっとひと息つく。
 セテカも昼間アガデの街を走り回っての捕り物のあとにはとても見えない動きと笑顔で、ひっきりなしに話しかけてくる者たちを次々と捌いていた。
 昼間の指輪探索を手伝えなかったことをひと言詫びるべきだろうか? ふいにそんな考えが浮かんだ。やむにやまれない私的な事情があったとはいえ、友人の危機に力になれなかったのはちょっと気が引ける。しかし、それも今あそこに近寄ろうと思うほどではなかった。南カナン領主とその伴侶に、早くも媚びやつなぎをつくろうと必死な貴族連中のなかに入って行くなんて冗談じゃない。
(祝いは済んでるし、まぁいいか)
 そう結論し、もぐもぐ隅っこのテーブルで料理を食べていると、淡いライトグリーンと白のドレスを着たティエン・シア(てぃえん・しあ)が、ダンスフロアから小走りに走って戻ってきた。胸元のたっぷりとしたフリルが細かく揺れている。
「お兄ちゃん、そろそろ空中庭園へ行こう」
「ん?」
 ああ、そういや昼間そんなこと言ってたっけな、と思い出す。
 なんで俺が? ユピリアと行け、と一瞬思ったが、どこにもその肝心のお守り役ユピリア・クォーレ(ゆぴりあ・くぉーれ)の姿がない。
「ユピリアはどうした」
「さあ? 分かんない。2階の方の壁にかかった絵を見て回ってたら、途中ではぐれちゃった」
 この人混みではさもありなんだ。
 もう外はかなり暗かった。パーティーでハメをはずした貴族のバカ息子とかがいてもおかしくないし、そうするとティエン1人で行かせるには、ちょっと危ないか。
 普段のティエンならまだ少年で通じないこともないが、編み込みのウィッグをつけて肩出しのビスチェドレスを着た今日は、完璧女の子にしか見えない。
「でも、これ見終わったら空中庭園の方に行こうって話してたから、きっとボクたちの居場所は分かってると思う」
「わーった」
 クッとグラスに残ったエフェスを飲み干すと、陣は立ち上がった。


 2人は、空中庭園にはもう何度も足を運んだことがあった。
 壁に沿ってぐるっと回るだけで数十分はゆうにかかる巨大な庭園は、春ということもあり、緑あふれる自然に満ちていて、虫の鳴き声が耳に心地いい。
 普段は一般に開放されないここに来ているのが自分たちだけでないのは当然にしても、この規模だ。まずめったなことでは歩いていて出くわしたりもしないだろう。ましてや、ティエンが目当てとする場所は領主家霊廟である。ひとが来る可能性などほぼない。
「お兄ーちゃん、早く早くっ」
 キィっと音をたてて鉄柵を開けると、ティエンは墓石が左右に連なる小径へ入って行く。夜の墓場だというのに怖がる様子は皆無だ。
(あー、そういや、前にバァルの先祖だからオバケでも平気とか言ってたな)
「あんま、あせって転ぶなよ。そのドレスは借り物なんだからな」
「はーーい」
 注意に素直に返事を返したけれど、特段気にしている様子もなく、プリンセスラインの広がった裾を風にふくらませながら走って行く。その姿にやれやれと思いつつ、少し離れて後ろを歩いた。
 ここでティエンが何をしようとしているか分かっているので、その邪魔をしたくない。
 やがてティエンは最奥の、さらに鉄柵に囲まれた霊廟の元へたどり着く。その影に隠れるようにひっそりと目立たない、小さな天使の像が脇に据えられた墓碑がある。
   『わが善なる光 最愛の弟エリヤへ
    真実の想いは月日に寄ることはない
    それは永遠なのだ』
 バァルが弟エリヤのために建てたものだった。
 3年の月日を経て、真新しかった墓碑はすっかりここに馴染んでいる。
「エリヤくん、今年も来たよ」
 刻まれた碑文に指をあてて、ティエンはほほ笑んでつぶやく。そして前に来たときと同じように周囲の草をむしって軽く清掃しながら、まるで親しい友人にするように、この1年であった出来事の報告を始めた。
 その様子を離れた木の下で見守っていた陣は、ふと、後ろの方で柵が開いたようなかすかな音がしたことに気づく。警戒の目をそちらへ向けると、小径を歩いてくる1組の男女の姿が目に入った。
「あれは」
 月明かりに照らされたライトブルーのドレスと、そこから覗く同色のパンプスのつま先。さみしい胸元を隠すように意図して並以上に盛られた花。豊かなドレープはいったん腰元で大きめの花の形にまとめられ、そこから川の水を模したように流れ落ちている。
 高く結い上げられた髪からしだれ落ちる花で半分隠れた横顔は、ユピリアだ。そして彼女の横を歩いているのは、バァルだった。
 一瞬でユピリアの意図を理解した陣は木の後ろに姿を隠し、ティエンとバァルを引き合わせたユピリアにだけ分かるように「こっちへ来い」と合図を送る。
「じゃあ私、先に戻っているわね」
 ほほほ、と手を添えて笑って鉄柵を抜けたユピリアは、2人の意識が自分からそれたのを確認したとたん、ドレスを両手でたくし上げ、影に紛れるようにして陣の元へ走った。
「陣! あなたもいたの?」
「ユピリア、おまえなぁ……」
「だって、せっかく遠い東カナンへ来たんだもの。2人にさせてあげたいじゃない。今日はバァル忙しくて、全然近づけないって言ってたし」
 それは陣も知っていた。妻のアナトが臨月を迎えていることもあって、ダンスをしないバァルはセテカ以上に客の相手に追われていて、その様子に、ティエンは遠慮することを決めたのだが、そう言った笑顔は少しさびしそうだった。
 ユピリアとしてはかわいいティエンのため、ひと肌脱いでやりたかったのだろう。
「バァルお兄ちゃん、あのね、ボク空大に入ったの」
 ティエンはあのときとまったく違う、輝く笑顔でバァルを見上げて、誇らしそうに報告をしている。
「カナンとの交換留学生にも申し込んだよ。通ったら、来月からボク、アガデで暮らすんだ」
 その言葉に、陣は一抹のさびしさを感じずにいられなかった。
 ティエンが通るのは間違いなく、ティエンは今からその日を心待ちにしている。それに反対を唱えるつもりはまったくないが、急に現実味を帯びてきて、突然ぽっかり穴があいてしまったような、何かが足りないような、そんな感覚だ。
 そのとき、一瞬だったが強い風が渡って、ティエンがむき出しの肩を震わせた。
「春とはいえ、まだ夜風は冷たい。風邪をひいてしまっては大変だ。広間へ戻ろう」
「……うん」
 バァルのエスコートで戻って行く2人を、成し遂げた思いで上機嫌に見守っているユピリアの肩を、少々乱暴に、ぐいと抱き寄せた。

「ユピリア、おまえだけは俺のそばにいろよ」

 思いがけない陣の行為に、ユピリアはそれこそ魂が抜け出るんじゃないかと思うくらいびっくりしたが、なぜ突然そんなことを言い出したか、すぐに分かって、そっと陣の胸に手を添えた。
 広がるドレスが邪魔でぴったりくっつくことはできなかったが、できる限り身を寄せて、うん、とうなずく。
 陣は、娘が独り立ちしたような感覚に陥って、さびしがっているだけ。そうと分かっていても、うれしかった。それは、ほかのだれでもない、ユピリアも同じくらい――いや、もしかするとそれ以上に、失いたくないと思ってくれているってことだから。
 はっきりとした愛の告白もなく。夢見ていたどんなシチュエーションとも違っていたけれど。
 陣の想いが詰まった言葉は、涙が出るくらい、心にしみた。
「私は、いつも一緒よ。今までも、これからも。あなたがうんざりするくらいそばにいて、いつか歳をとったあなたが回想する思い出のなかのどのシーンにも、必ず登場してやるんだから。それこそ、いまわの際の走馬灯のときにまでね」
 目尻に浮かんだ涙を指でこすりながら、笑顔で野望を口にする。
 それは、これまで目にしてきたどんな姿より、陣の胸に焼きついた。彼女の言ったように、いまわの際に思い出すのは、今のユピリアかもしれない……。
(なにばかなこと考えてるんだ、俺は。らしくもねぇ)
「俺たちもそろそろ行くぞ」
「あ、ちょっと待って、陣。このドレス、歩きにくくて」
 くるっときびすを返し、歩いて行こうとする陣について行こうと、あわててユピリアは広がった裾の前側を両手でつまんで持ち上げる。見えない足元で気をつけて歩くのを見て、その言葉が嘘偽りなく本当だと分かった陣は、ユピリアがとなりに並ぶのを待って、彼女の腕を自分の腕にかけさせると、ゆっくりとエスコートするように歩き出した。
「ありがとう」
「今だけだからな」
 ぼそっとつぶやく。
「うん。分かってる」
 今だけ。明日になれば、いつもの私たちに戻る。こんなふうに腕を組もうとしたら、陣は嫌そうな顔をして「やめろ」と言うだろう。
 でもきっと、そんなときでも彼の声はやさしいに違いない。引きはがそうとする力も、ほんの少し弱い。
 分かってる。
 明日からの私たちは、ちょっとだけ、今までと違う私たちになっている。
 そんなことを確信しているのは、きっと私だけではないということも……。


 無言で回廊を抜けて、表宮の会場へと戻る。その途中、人目につかない場所で、月明かりに照らされながらかすかに漏れ聞こえる音楽に合わせて踊るティエンとバァルの姿が見えた。