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それを弱さと名付けた(第3回/全3回)

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それを弱さと名付けた(第3回/全3回)

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chapter.18 求めていたものを叶えるように 


 ゆっくりと、光が溶けていく。
 赤い夕日が割れた窓や空けられた穴から漏れてくる中、講堂の中心に立っていたのは、愛美とアクリトだった。その足元で、崩れ落ちるようにしてニムフォが地面に手をついていた。
「なに……? これはなに? 私はアクリトの脳を手に入れたはずなのに、なんで!?」
 彼女が視界に映している両の手は、つい先程までの艶のある皮膚ではなかった。シワというシワがよれ、骨張った指は今にも折れてしまいそうだった。
「肌が、せっかく手に入れた肌が……!」
 うろたえるニムフォ。もちろん手だけでなく、彼女の全身がシワとたるみの増えた体となっていた。その肉体に女性特有の丸みを帯びたフォルムはなく、枯れ枝のような手足が老体であることを強調していた。艶やかだった銀髪も、ごわごわの白髪へと変わってしまっていた。服装と外見があまりにミスマッチすぎて、ある種の痛々しさすら感じられる。
 アクリトは、呆然とするしかなかった。彼の前に立っている愛美は、タガザとは反対にその皮膚に潤いを取り戻し、若々しい、彼女本来の年齢に相応しい肌になっていたからだ。目の前に広がっているこの光景を把握すべく、アクリトは懸命に頭を働かせる。
 ニムフォの言動、ふたりの女性の外見。自身が狙われた理由。
 彼がそこから導き出した結論は、何度考え直してもイーオンのものと同じであった。「部位の交換」。おそらくそれが、ニムフォが使い続けてきた術で間違いない。しかもそれは、術者が望む部位を好きなように交換できるような万能なものではないだろう。愛美が肌を取り戻したことが、それを証明している。
「おまえ、おまえか……よくも、私を……おまえが!」
 体を震わせ、ニムフォが目の前の愛美を罵る。
「おまえが邪魔さえしなければっ……! 触れさせろ! もう一度触れて、交換を……!!」
 伸ばしかけた手から、愛美が距離を取る。
「それが本来のあなたの姿でしょ! 私は私に、あなたはあなたに戻ったの!」
 凛とした声で、愛美が言う。それでもめげずに、ニムフォは愛美の元へ近寄ろうとした。そこに待ったをかけたのは、いつの間にか講堂に来ていた詩穂だった。おそらく騒動を聞きつけ来たと思われる。ということは、彼女もまた先程の衝撃的な光景を目の当たりにしたということだ。
 講壇に近い側の出入り口から現れた彼女は、ニムフォに向かって言った。
「愛美先輩のところじゃなく、こっちに来たら? どうせなら、体と一緒に歌声も変えられる方が良いでしょ? 戸惑う必要はないよね」
 ひとりの人間とふたつの部位を交換することが可能なのか、詩穂は知らない。詩穂だけでなく、本人以外、その場の誰もが。それでも詩穂は、一番ニムフォに近い場所に自分を置こうとした。おそらくは、他の者を守るため。
「うるさいっ! おだてたからって調子に乗るんじゃないよ! 私は、私はどの女よりも……!」
 詩穂は、少しだけ悲しい気持ちになった。それでも彼女は、ニムフォの犠牲となった人たちのことを思いそれを言った。
「貴女に憧れていた人たちもたくさんいたはずなのに、貴女はそれを利用した……でも、これで分かったでしょう! 偽りの力は容易く手に入るけど、本物はいつまで経っても色褪せない!」
「ガキが、悟ったようなことを言うんじゃない! 本物も偽物も、どうせ他人には分かりっこないんだよ!」
 彼女の中で何かが吹っ切れたのか、ニムフォは心に積もらせていた恨み辛みを吐き出し始めた。
「お前らに分かるのか? 魔女として何百年も生を与えられ、その長い時を醜い姿で生きなければならない気持ちが!」
 彼女が本音を晒したことで、徐々にその目的と背景が露になっていく。
 どうやら彼女、ニムフォは元々美貌も美声も持っていなく、これが生来の姿のようだった。そんな彼女が変わったきっかけが、今まで使ってきた例の術なのだろう。
「ということは、元々その術は持っていなかったということだよね? もしかして、パルメーラさんがそこに関係しているのかな?」
 天音が疑問を口にする。確かに、最初からその術が使えたのであれば、美貌を手に入れ、長年思い悩む必要はない。加えて、彼女がパルメーラについて何か知っている風だったことが彼は気にかかっていた。万が一を危惧した天音の問いかけだった。
「パルメーラ? ああ、会ったこともないよ。ただ全知を誇る存在だってのは知ってるから、妬ましく思ったことくらいはあったけどね。この術だって、遠い異国で禁忌と言われてたものを身につけただけだよ。こうでもしないと知ることが出来なかったんだから。どうすれば、自分を愛せるのか」

 ニムフォが会得した術――イーオンやアクリトが予想した「部位の交換」の術式は、正確には「細胞交換」の術であった。
 この術を発動させるとまず、術者と対象者の体内に流れる経絡や受容体が限界レベルまで開かれる。そうして準備を整えたら、対象者と細胞が比較され、自動的に優勢側と劣勢側が交換される。その際片方が強力な細胞を有していた場合、優先的にそれをアンテナがキャッチし交換対象となる仕組みになっている。
 愛美の場合は、あえて術中に飛び込むことで優勢側のニムフォの肌と劣勢側の愛美の肌が交換されたのだ。この術が禁忌とされているのは、今回のように場合によっては術者に著しい被害を与えるためである。おそらく彼女がアクリトを狙っていたのは、鏨が予想したように彼の頭脳を狙ってのことだろう。きっと彼女は、より完璧になりたかったのだ。
 それはコレクター癖や、凝り性の人に顕著な現象だ。何かひとつを手に入れると、それに関連するものをすべて集めないと気が済まない性質を持った人種は存在する。
「好きな俳優の出ている作品を全部集めなければ」と大量にDVDを買い込んだり、部屋をコーディネートしようとしたばっかりにひとつでも部屋にそぐわないものがあるのを許せなかったりといったことは、日常でも充分耳にすることである。

「この術を手にしてようやく、自分の望む姿を手に入れることが出来たんだ。お前らはそれを悪行と呼ぶか? 蔑むか? もし同じような力を手にしたとしたら、お前らだって私と同じようにしただろうさ!」
 急激に老いた顔立ちのせいか、そう主張するニムフォの顔は酷く歪んで見えた。彼女は講堂にいる生徒たちをぐるりと見回し、わだかまりをぶつけた。
「お金持ちと財布の中身が変わったら良いと思ったことはないか? 病気知らずの人を羨んだことは? 何人もの異性に言い寄られる同性を妬んだことは? 運動神経抜群のクラスメイトに憧れたことは? 交友関係の広い隣人を僻んだことは?」
 一気にまくし立てた後、息を切らしながら彼女は言う。
「自分の代わりに他人がちょっと不幸になるだけだ。いつだって人なんて、そうやって生きてるじゃないか」
 その有無を言わさぬ迫力に、思わず一同が言葉をつぐんだ。そんな中彼女に言葉を返したのは、政敏だった。
「それが、つまるところ本音か。でも、悪いことをしたらいつか自分に跳ね返ってくる。たとえ、愛だかなんだかのためであってもさ」
 ギロリ、とニムフォが政敏の言葉に反応する。
「悪いこと? じゃあ一体、良いことって何!? 誰にも不幸を背負わせず、誰にも不快な思いをさせず自分の境遇がどうあれ慎ましく生きること!?」
 政敏が言った通り、ニムフォは確かに今本音を晒した。だが、彼女にとって最も心の深いところにある言葉は、既に多くの者が聞いていたのだった。

 ――生まれてきたからには、幸せになりたい。そして私は女として、美しくあることに幸せを感じたいと思ったの。

 そう、それは講演会で彼女が言っていたことであった。
 数時間前のその時と同じ場所で、だけど違う姿、違う声、違う名前で彼女――ニムフォは今一度、心の底からの思いを告白した。
「女性として、幸せになりたかった! 一番綺麗な姿で一番綺麗な服を着て、一番好きになれる人と出会って、一番綺麗な声で一番愛してると言いたかった!!」
 もう、彼女に近寄り声をかけられる者はいなかった。皆、固唾を呑んで彼女をじっと見つめていた。その言葉をことごとく否定するように、彼女の肌は衰えきり、黒いドレスはボロボロに破けている。周りを囲む生徒たちとの距離は触れることが敵わぬほど離れており、叫ぶ声はしゃがれている。

 その時だった。講壇の脇にあったスピーカーから、聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。
「これ、は……」
 ニムフォが視線をそちらに向ける。聞こえてきたのは、彼女が数日前に歌ったばかりの歌――「幸せの証」だった。
「講演会終わった後もずっと様子を窺ってたけど、ようやく少し分かることが出来たな」
 そう言いながら、講壇裏から現れたのは、講演会の時から彼女の歌を気にかけていた一だった。
「そこまで美を求めるのは、大勢の人から称賛を受けたいからでも、好きな人に振り向いてほしいからでもなかったんだな」
 ただ、単純に幸せになるために。一は彼女の動機を噛み締めると、その上で言葉を口にした。
「俺ぁ、美なんて興味ねーからその感覚は分かんないけどさ、それで幸せが本当に手に入るのか? それがずっと続くのか? 花はどんなに美しくても枯れるって言うだろ」
 一の言葉が聞こえているのかいないのか、ニムフォは流れる音楽にすっかり耳を奪われていた。
「あー、ったく。柄にもねーこと言ってんじゃねーよ俺。乙女かこの野郎。でもよ」
 一が、一呼吸置いてから言った。
「この歌自体は、悪くなかったぜ。良い歌ってのは歌い手の思いがこもってるもんだからな。これを歌ってる時のあんたはもう、思い出せないか?」
 どうやら、音が流れているのは彼の仕業のようだった。裏の音響設備をいじり、持っていた音源をスピーカーに出力させたのだろう。

 白は幸せの色
 長いドレスを着たら
 頭にはヴェールを 手には花束を 道には光を

 前奏が終わり、講堂には歌詞を乗せた音符がいくつも浮かび出す。それは、とても繊細で悲しい旋律だった。ニムフォは、体を引きずりながら講壇へと這いずっていく。彼女の進む道は、講堂に配された長机と長机の間、後ろの壁から壇上までを一直線に繋ぐ通路だ。ところどころに彼女が崩した瓦礫はあるが、そこにいた者たちは一瞬、チャペルのヴァージンロードを見たかのような錯覚に陥った。チャペルでもなんでもない講堂がその情景を抱かせたのは、聞き惚れるような音楽のせいだろう。
 黒いドレスをまとい、目にかかる白髪を払うことも忘れ、手を床に這わせながら、ニムフォは講壇まで辿り着く。彼女が歩いてきた道を染めたのは、沈みかけた夕日の僅かな残光。壇上に彼女が手をかけた時には、歌は終盤に差し掛かっていた。

 笑顔は幸せの証
 何千日と流した涙が
 妬みで歪んだ心を ふやかしたら ふやかしたら

 壇上で輝きを放っていた自分をそこに見たのか、ニムフォはステージを見上げた。壇上まで上がっていく体力は、もう彼女に残っていない。その瞳からは、涙が流れていた。そして、最後の歌詞をスピーカーが伝えようとした時、重なり合うように彼女の喉からそのフレーズが流れ出た。

「ねえ、私は綺麗?」