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春もうららの閑話休題

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第3章


「……え、この温泉って入るとよく分からない効果が出るの!?」


 小鳥遊 美羽とコハク・ソーロッドの噂話がライカ・フィーニス(らいか・ふぃーにす)の耳に入るまで、そう時間はかからなかった。他にも、動物の姿になったとか、大きくなったとか小さくなったとか、光ったり光らなかったりとか、いくつかの奇妙な現象が報告されているようだ。

「……ライカ、そこでわくわくしたような顔をしないでくれるかな」
 パートナーのレイコール・グランツ(れいこーる・ぐらんつ)は軽くため息をついた。好奇心旺盛なライカのことだ、そんな奇妙な噂話を聞いてしまったら、自分も不思議現象を求めて温泉に入ると言い出しかねない。

「え? ……そんな顔、してる?」
「してる」
「なにが起こるか分からない温泉か……つまり……春プンテ温泉……」
 よく分からないことをぶつぶつ言いながら、自分の顔をぐにぐにと両手でこねくり回して表情を悟られまいとするライカだが、温泉が引き起こす現象に興味が湧いてしまっていることは隠し切れない。
「ふむ……興味があるのはわかるのだが、とりあえず今は温泉の警備をしていることも忘れずにな」
「あはは、そうだね。――ねぇ、あとでレイも温泉入ってみない? 私混浴にも入ってみたいんだよねー」
「いや……私はあまり人前で肌をさらすのが好きではないのだよ」
 ふ、と視線を逸らすレイコール。
「あ、そっか……レイ、プールとかにも入らないもんね。うんわかった、やっぱり警備を続けるよ!!」
 宣言して、魔鎧を装着しなおすライカ。水に入らないのは、彼が吸血鬼だということも関係あるのかもしれない。
「しかし……手伝いをしてくれるのは嬉しいのだが……」
 レイコールは、ふとライカとその後ろの仲間達を眺めた。
「この絵面はなかなかに……迫力がありすぎる気がしないかね?」

 覗きや痴漢の防止や撃退、という目的でライカとレイコールは温泉の警備に当たっている。
「え、そうかな? 警備なら強そうな方がいいかなって」
 ライカは後ろを振り返った。そこにはペットの月光竜『ポチ』やゴーレムのガルガンチュア、そして人ひとりくらいが余裕で乗れる巨大狼のロームルスまでが仁王立ちして温泉かまくらの入口付近に待機している。
 ついでにライカの魔鎧は全身鎧だ。多くの人間がレジャー気分でこの山を訪れていることを考えると、目立つことこの上ない。
「一体、何と戦うつもりなのかね」
 レイコールは軽く微笑を浮かべた。
 相変わらず少しズレたライカとの会話はかみ合わない。しかし、レイコールもライカが温泉に入らない自分を気遣ってここにいてくれていることが嬉しくもあり、深く追求しないことにした。

「あ、じゃあ可愛い要員でこの雪だるまを!!」
「溶けてる、それ温泉の熱で思いっきり溶けてるから!! むしろ怖い!!」

 ライカが出した雪だるまをそっと片付けるレイコール。
 そんな後ろ姿を眺めながら、ライカは呟いた。
「まぁ、こうやって警備しながら変な人を待とうよ……早く来ないかなぁ」
「いやいや、何で変な人を期待する流れなのかね。警備というものの大半の目的は、変な人を来させないためのものなのだからな?」
「え、そうなの……? 変な人が来たらお客さんをガードしたり、迷子の子供のお母さんを探したり、時には会場に仕掛けられた爆弾を撤去したりしないの?」
「しない……最後のは特にしない。もし不審者が来たら私が対応する。すぐに出られるところにいるから、何かあったらすぐに言うんだよ?」
 そういうのは男性の役割だからね、とレイコールは付け加えた。
「あ、そうなの……? うん、判ったよ」
「……そうしたまえ」
 いつになく素直だな、とレイコールは思った。いつものライカなら、むしろ自分が不審者との遭遇を楽しみ、間近で観察したがるのだが。
 そんな事を思うレイコールの横顔を見ながら、そっと呟くライカである。
「いっつもレイを振り回してばっかだから……今日は言うこと聞くんだ」
「? 何か言ったかね?」
「ううん、何でも……あ、レイ、あれ!!」
「うん?」

 ライカが指差す方向を見ると、女湯のかまくらへ男が入ろうとしているのが見えた。

「あっちは女湯だぞ……覗きにしても堂々と……」
 言葉の通り、レイコールはライカに率先して男に近づいた。なんだかキョロキョロと付近を見渡しながら移動しているその男は、まるで迷子にでもなったかのような印象だ。
 だが、その男はパッと見30代。それだけで判断はできないが、物の判らないような年齢にも見えない。

「そこの貴方、そちらは女湯だ――そこに書いてあるだろう。入浴するなら男湯か混浴にしたまえ――よろしければ案内しよう」
 レイコールはあくまで紳士的に警告を発した。
 話しかけられたその男――カスパー・サンドロヴィッチ(かすぱー・さんどろう゛ぃっち)はレイコールを振り返り、きょとんとした表情で訊ねた。

「女湯――とは何あるか?」

「え?」
 レイコールは面食らった。相手の表情を見ると、とぼけているようにも見えない。
「さっきも誰かに言われたある。ワタシ……わからないある」
「え……どういうこと?」
 さすがのライカも驚いた様子でレイコールの隣にやって来た。
「ワタシ……人間のいるところ……まだ慣れてないから……」
 どうも、長く他人と接しない状況に置かれていたらしい。パラミタには本当にいろんな人間がいるものだ、とレイコールは感心したような、呆れたようなため息をつくのだった。
「さっきも、お風呂は裸で入るものだと思って、そこで服を脱いだら怒られたある。お風呂なのにどうして服を脱いだらいけないあるか?」
「そこからか」
 どうやってこの人物に脱衣所の概念を教えたらいいのだろう、とレイコールは軽い眩暈を覚える。
「それに、みんな男と女は違うって言うあるけど……男とか女って何あるか?」
「……そこからか!!」
 レイコールは本格的な眩暈に襲われた。
「えーっとね……男と女はね……えーっと……おしべとめしべが……」
 眩暈に襲われている間に、ライカがどうにかして男女の違いを教えようとしている。
「あ、こらライカ、そういう微妙なところから男女教育に入り込もうとしてはいかん。それにライカにはまだ早い」

 とはいえ、カスパーに悪意がないことは判る。ただ困っているだけの人を放っておくわけにもいかない。さてどうしたものか。
 レイコールが思案していると、後方で誰かの叫び声が上がった。

「なんじゃこりゃあああぁぁぁーーーっ!!? って熱っ!! うわちちちやあちゃあーっ!!」

 声の主はカメリアであった。
 先ほど美羽とコハクの家族風呂をベアトリーチェと共に覗いていて、あまりの事態に大声を上げてしまい、ついでに覗き防止のトラップに引っかかったのである。


                    ☆


「あ、そういえばトラップを解除するの忘れてたでスノー」
 カメリアの神社を利用した旅館で、ウィンターは呟いた。
「え、ダメよ勝手に解除しちゃ。覗き防止なんだから」
 トラップの主、ローザマリア・クライツァール(ろーざまりあ・くらいつぁーる)は旅館でドリンクサービスの準備などしながら、ウィンターに話しかけた。
 たとえばかまくらに登ったり、仕切りなどの上縁に触れたりすると、人感センサーが作動して熱湯を浴びせかける仕掛けだ。

「いや違うでスノー。さっきカメリアが美羽の風呂を覗きたいから見やすくしてくれって」


「……まさか山の主が率先して覗きに行くとは思わなかったわね」


 ローザマリアは、軽く頭を抱えるのだった。


                    ☆


「うわっちやぁダブルでなんじゃこりゃあ!!」
 悪いことはできぬものだ。そのカメリアはローザマリアのトラップに熱湯を浴びせられて美羽のかまくらを転げ落ちる。
 そこに警備に当たっていたライカとレイコールがやってきたのだからたまらない。

「そこにいるのは誰だ!!」
 レイコールの声にどきりとするカメリア。
「む、いかん見つかった、逃げるぞベア――ってもういない!?」
 一緒に覗いていたはずのベアトリーチェ・アイブリンガーはいつの間にか消えていた。
 このままでは山の主でありながら覗きの汚名を着せられてしまう。
 カメリアは逃げ出した。

「ローくん!」
 しかし回り込まれてしまった。
 ライカの指示で狼のロームルスがカメリアの退路を塞いだのだ。
「くっ……!!」
「観念するのだ!!」
 後ろからレイコールが迫ってきている。幸い周囲は暗く、まだこちらの素性はバレていない。だがそれも時間の問題であろう。
 もういっそ観念して謝ってしまおうか、とカメリアが振り向きかけたその時。


「はーっはっはっは!!」


 周囲に男の笑い声が響き渡った。
「今度は何だ!?」
 レイコールはその声の方向を見た。そして、そこに奇妙なものを見たのである。

 山羊 メェに跨ったその男は、イエニチェリ風マントを一枚だけ羽織り、特に冷える山風でそのマントをはためかせ、細身ながら鍛えられたその肉体を誇示するかのごとく、颯爽と登場した。
 もちろん、マントの下は全裸である。

 当然のごとく丸見えである。

 その男は、もはや説明の必要もないほどに変熊 仮面(へんくま・かめん)であった。

「皆の者、ご苦労!! 俺様も及ばずながら監視員として警備に当たらせてもらうぞ!!」

「……あ、変熊さんだ……メェちゃんって、乗れるんだ……今度乗せてもらおう……かな……」
 ライカがぼんやりとした呟きをもらす。覗きの捕り物から変熊登場までのギャップで、一瞬にして思考能力を奪われてしまった。何だろう、自分の言葉に何らかの違和感を覚える。

「やはりロイヤルガードとしては山の秩序をしっかりと守らなければならないからな!! 覗きや痴漢などは論外だが、浮かれて裸で温泉のはしごをしようという者も現れないとも限らないし!!」

「……うん、そうだよね……秩序は……大事だね……」
 ライカは颯爽と駆け抜ける変熊を見送る。
 何だろうこのモヤモヤした感じ。もっとこの場に相応しい言葉がある筈なのに。


「待ちたまえっ!! 裸は貴公の方であろうがーーーっ!!!」


「それだ、それだよ! さっすがレイだねっ!!」
 レイコールの突っ込みにようやく正気を取り戻したライカは、変熊を追うレイコールと共に、ペット達を連れて雪山へ消えていった。

「ふー……変熊のおかげで助かったわい……どれ、ちょっと旅館の方へ移動するか……」
 と、どさくさに紛れてカメリアは逃げていく。
 そして、一人残されたカスパーは、ぽつりと呟いた。

「うん、やっぱり温泉は裸でよかったある」
 と。