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Zanna Bianca――ザナ・ビアンカ

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Zanna Bianca――ザナ・ビアンカ

リアクション


●6

 その頃――。
 一条 アリーセ(いちじょう・ありーせ)は単身、イサジ老人の住む小屋にいた。小屋は小さく、木製で古ぼけていたが、中は綺麗に整頓され居心地は悪くない。何度も補修されたと思わしき壁や、使い込まれた調理器具に、老いてなお誇り高き老ハンターの誇りが見て取れるようだ。
「お帰りにならない……」
 おかしいですね、とアリーセは独言した。せっかく作ったスープも冷めてしまうだろう。一旦鍋に戻して火にかけ直したほうがいいだろうか。
 アリーセはこれまで幾たびか、老ハンターと働いた経験があった。寒冷地用の試作装備のデータを採りたい教導団と、獲物を狩るために良い装備が欲しい老人、その利害の一致で、技術科が彼の装備の補充を請け負う代わりに、装備の試用を頼み、感想やデータを貰うような関係にあったのである。今日はそのデータ受け取りの日だった。老人は約束に厳格で、一度とて時間に遅れたり留守だったりしたことはなかった。今日、このときまでは。
 アリーセは、数少ない彼の理解者でもあった。いつしか、老人の信頼を勝ち得て小屋の鍵も受け取っていた。また、イサジの過去の話を、ぽつぽつと聞いてもいた。同じくハンターだった彼の息子は雪中の事故で死に、その報を聞いた息子の妻も、孫を生んですぐに死んだ。まるで夫の後を追うようかのような死に様だったという。また、二人の命を受け継ぐたった一人の孫、コヤタについて、寂しい気持ちを抑えてイサジは、なるだけ接しないよう努めていると言っていた。
「そうでないとコヤタも、自分や息子と同じくハンターになってしまうかもしれん……」
 と語ったときのイサジの寂しげな顔が忘れられない。
 それにしても、彼は遅い。来る気配すらない。やはりなにかあったのだ。アリーセは不吉な予感を抱いて立ち上がった。そのときふと、手が触れて一冊のノートを机から落としてしまった。
(「スケッチブック……?」)
 ノートではなかった。それはリング綴じのスケッチブックだったのである。悪いと思いながら拾い上げて開くと、そこには老人の手によるペン画が記されていた。決して時間をかけて描いたものではなかろうが、つい見入ってしまうほどに緻密な絵の数々がそこに花開いていた。しばらく夢中で、アリーセはスケッチブックを繰った。
 動植物や雪景色を描いた数点の中に、ひとつ、アリーセに奇妙な印象を与える画があった。

 真冬の風がいくら吹こうと、ノーン・クリスタリア(のーん・くりすたりあ)はいたって平気なのだ。なぜならノーンは氷結の精霊、吹雪も春のそよ風ほどにしか感じず、そよ風同様に心地良く思うという体質なのである。
「『ざなびあんか』さんに会ってみたいな!」
 そう決めて彼女は、この山に足を踏み入れた。サンタのトナカイにソリを引かせて、鼻歌を唄いながら進んでいた。ノーンの目にはきらきらと、氷の結晶が舞うのが見えた。この山にも氷結系の精霊がいないだろうか、いたら話を聞いてみたいのだが……。
 ところで彼女の契約者影野 陽太(かげの・ようた)は現在、御神楽環菜に付き従っており、従ってノーンは今日も単独行動なのだった。聞いた話によれば、環菜は今後、新しい事業を興そうとしているのだという。ようするに『社長(しゃちょー)』だ。その準備として、諸国漫遊に出ているのだ。校長から社長に転職するなんて、なんだか環菜らしいとノーンは思った。
 トナカイが突然足を止めた。
「きゃ」
 ノーンはつんのめってソリから転げ落ちてしまった。
「もー。なに?」ノーンは立ち上がった。トナカイはなにかに驚き、立ちすくんでいたのだ。その鼻面を撫でてやりながら「なにか見えるのー?」と彼女は問うた。目の前には灰色の木立があるばかり……。
 いや、それは木立ではなかった。

 アリーセの心を奪ったスケッチは狼を描いたものだった。背景も描き込まれているが、あきらかに縮尺が間違っている。これでは狼が大きすぎるのだ。しかし狼、背景、ともに描き込みは執拗なほどで、他のスケッチのラフさとは、おもむきがかけ離れていた。それに、これだけ画が達者な老人が、このような初歩的なミスをするとは思えなかった。
「これは……一体……?」

 鉛色の空の下、ノーンは、見た。
 空と同じ色の狼を。それも高さ十メートルはあろうかという巨大な狼を。牙のみ、雪よりも白い。白い牙(Zanna Bianca)とはよく言ったものだ。
「おおきなおおかみさん……大狼(おおおおかみ)さん?」
 狼は白い息を吐きながら、黙ってノーンを見おろしていた。やがて狼はノーンに屈み込み匂いを嗅ぐような仕草をしたが、突然、両耳をぴんと立てると方向転換し、矢よりも迅く疾駆して去った。
「あっ、大狼さん……! おしえて」
 ノーンは追いかけるようにして、狼に呼ばわった。
「大狼さんって、『ざなびあんか』さんだよね? そうだよね?」
 しかし狼の姿は、もう見えなくなっていた。