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真赤なバラとチョコレート

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第5章

 ようやく長い一日が終わろうとしている。
「お客様、まもなく閉店となります」
「ああ……すまないね。長居をしてしまったようだ」
「いいえ、くつろいでいただけたのなら、なによりです」
 微笑むレモを、最後の客……ナンダ・アーナンダ(なんだ・あーなんだ)は目を細めて見つめた。
 とはいえ、今日も地味な色合いのインド民族衣装に、顔を覆う仮面をつけ、偽名を名乗っていた。レモはもとより、元学友にも、正体を明かすつもりはなかった。
「コーヒーも美味しかったが、ホットミルクもあったようだね?」
「はい! リクエストをいただいて、メニューに増やしてみたんですけど、とても好評をいただけました。タシガンにある農場のミルクなんですよ! カフェオレにも使っています」
 それならよかった、と言いかけて、ナンダは言葉を飲み込んだ。それは匿名で、彼がリクエストしたものだったのだ。コーヒーが苦手な人もいるだろうし、なにより、ナンダ自身があの農場での思い出を感じたかったせいもあったろう。
「とてもよかったと思うよ。……本当に、楽しい時間だった」
 ナンダの言葉には、しみじみとした感があった。
 一時とはいえ、薔薇の学舎に戻ってこられたこと。レモが楽しそうに学友と過ごす様を見守れたこと。そのどちらも、ナンダにとって幸せなことだった。
 とはいえ、ナンダの行方を気にかけているレモに対してくらいは、正体を告げるべきかもしれない。だが、己のなかの「放校された者が、晴れの日に表に出るべきではない」という意識が勝った。
 おめおめと戻ってきた自分を恥じる気持ちは勿論ある。しかし、喫茶室で懐かしい味のコーヒーを飲み、じっくりと思索に耽るうちに、わかってきたこともあった。
 ……放校に関しては、納得している。あのとき、自分がしたことについても、後悔はしていない。ただ、何故そうしたのか。それは、自分が、「親の期待に応えきれない弱い自分」以外の「エリートで力強い自分」になろうとして、無理を重ねてしまったからなのではないだろうか、と。ウゲンという強者に認められることで、自身の価値を見いだそうとした。同じように、力強い者になろうと、ただそれだけを願ってしまったせいなのか、と。
 そんな自分に気づけただけでも、ここに来てよかったと、ナンダは素直に感じていた。
「では、失礼するよ」
 会計を済ませて、立ち去ろうとするナンダを、「あの」とレモは呼び止めた。
「また……いらしてください、ね?」
「…………」
 レモは、ナンダの正体に気づいているわけではない。ただ、立ち去る背中をひきとめたいと、その時思っただけだった。
 返事を迷うナンダに、「どうぞ、お客様」と記念品のチョコレートを手渡したのは、早川 呼雪(はやかわ・こゆき)だった。
「……ありがとう」
「いいえ」
 微笑む呼雪の瞳には、優しい色が浮かんでいる。
「あの、喫茶室は、……ええと、普段は女の子はちょっと、だめですけど、他校の方でも皆さんに来ていただける場所ですから! お暇があったら、また、……お待ちしてます」
 レモはそう言い切ると、ぺこりと深く頭を下げた。
「……そうだね。また、いつか」
 これからどうするかは、まだ決めていない。けれども、焦ることはない。時間はまだ、たっぷりとある。
 もしもまた迷ったときは、ここに来れば良い。一杯のコーヒーと、落ち着いた空間とが、またナンダを迎えてくれることだろうから。
「ありがとうございました!」
 レモの声に見送られ、ナンダはゆっくりと、一歩一歩、静かに薔薇の園を歩いて行ったのだった。


 店は閉店となった。後は、後片付けと清掃だ。
 今日ほどの混雑はさすがにもうないだろうが、明日からも営業は続く。きちんと片付ける必要があった。
「数はそろってますね……」
 思ったより破損個数は少なかった。カップを丁寧にしまいながら、神楽坂 翡翠(かぐらざか・ひすい)は数を確認していく。
 ただ、さすがにくたびれた。今日は一日、誰もが休憩もろくになかったのだ。ふぅ、と息をついた翡翠に、「大丈夫か?」と同じく厨房を担当していた瑞江 響(みずえ・ひびき)が声をかける。
「いえ、瑞江さんこそ、お疲れ様でした」
「俺はもっぱら、洗い物をしてただけだから」
 響はそう謙遜するが、すっかり手はふやけてしまっていることだろう。
「ああ、そうだ。誰か、テラスのほうも見てきてくれないか?」
 腕まくりをして片付けをしていたカールハインツが、そう声をかける。
「それなら、俺が行こう」
 少しばかり、やりたいこともある。響は厨房を出ると、テーブルを拭いていたアイザック・スコット(あいざっく・すこっと)に声をかけた。
「テラス席のほうを頼まれたんだ。一緒に、いいか?」
「ああ、もちろん!」
 今日は一日ずっと、響は厨房、アイザックは店内での給仕と、別れて過ごしていた。注文のやりとりでいくらか顔はあわせたものの、ゆっくりと会話するなんてことはとても無理な状況で。アイザックにしてみれば、バレンタインの最後の時間くらい、二人きりになるチャンスはとても見逃せない。(まぁ、それも片付けだけどさ)
 それでもいいし、とアイザックは響についてテラス席へと出た。
 外はすでに暗い。ぽつりぽつりと薔薇園に灯りが灯ってはいるが、それだけだ。テラス席に設置した灯りを片付け、テーブルクロスを畳む。作業は案外、すぐに終わった。
「俺様の活躍、響は見てくれたか?」
 うきうきとアイザックは尋ねたが、響は生返事だ。というより、なんだか様子がおかしい。
「響?」
「アイザック……悪い。俺、チョコレートも何も…用意してなかった」
 心底すまなそうに、響が詫びる。
 というより、正直にいえば、すっかり忘れていた。去年はなんだかんだとバレンタインはスルーしてしまっていたし、今年は今年で、喫茶室のことにかかりっきりだったのだ。
「……確かに少し残念ではあるが、俺様にとって大事なのは、こうして響が隣に居る事だ」
 だから、気にしなくていいと、アイザックは響の艶やかな黒髪を撫でる。
「…………」
 そうはいわれても、と響は俯く。
 たぶんだけども、今日という日を、アイザックは本当は二人きりで過ごしたかったはずだ。……恋人、なんだから。けれども、どうしても響は、薔薇の学舎の生徒として、喫茶室の手伝いをしたかった。人のためになることではあるが、響の我が儘というのも、否定はできない。
 旅行のときにしても、そうだった。アイザックはいつも、響の意志を尊重して、しかもこうして、許してくれる。
「アイザック……」
 ありがとう、と、愛しい、という気持ちがない交ぜになって、一瞬胸がつまる。ふぅ、と大きく息をついてから、響は思い切って、アイザックに告げた。
「けど、その代わり……俺はお前の我儘を叶えたい。いつも、お前は俺の我儘を聞いてくれるから」
 アイザックが、微かに眉根を寄せる。
「だめか?」
「そうじゃない。……まったくもう……」
 不安がる響に、アイザックは首を振る。可愛くて愛おしくて息苦しくなっただけだ、なんて、響にはとてもわかるまい。かわりに。
「じゃあ、今夜は響を片時も離したくない。……俺様のものにしたい」
「え……」
 響がその言葉の意味を理解するのには、少しの時間を要した。
 しかし、はっきりと同意の意味をこめて、小さく響が頷くと、アイザックは思い切り彼を抱きしめる。そして、このまま今夜は、いや、これから先ずっと。離すつもりなど毛頭ないと、伝える言葉のかわりに、唇を寄せたのだった。


 その頃。後片付けもほぼ終わった喫茶室は、すでに人もまばらだ。
 みな、充実した疲れを胸に、それぞれに帰って行く。
「翡翠。店内は片付きましたよ」
 厨房に入ってきた山南 桂(やまなみ・けい)が、そう伝えながら、翡翠の顔色を見る。無理をしていないか、心配なのだ。
「もうこちらも大丈夫そうですし、そろそろ休んでも良いですよ? 俺も手伝いますから」
 翡翠の隣に並び、明日以降は使わないカップを、桂は手際よく片付けていく。そうやって、気遣いをしてくれる桂が、翡翠には嬉しかった。だが、ふとあることを思いだし、手をとめる。
「あの、レモ君はまだ?」
「ええ、いますよ」
「よかった。早川さんに頼まれていたことがあって」
 翡翠はそう言うと、厨房に隠していたとあるものを出してくる。
「今日までよく頑張ってましたからね。喜んでくれると良いんですけども」
「翡翠もですよ。……それをお渡ししたら、俺たちも帰りましょう」
「そうですね」
 そう言う桂のほうも、きっと足が棒のようになっているに違いない。それでもお互いには大丈夫、といってしまうのが自分たちなのだろうな、と翡翠はひっそりと微笑んだ。


「さて、これでおしまい……かな?」
 全て片付けを終えて、きょろきょろとチェックをして廻っているレモを、呼雪が「レモ」と手招きする。
「なに?」
「さて……お疲れ様」
 テーブルに用意されていたのは、呼雪がファビエンヌに密かに頼んでおいた、とっておきのチョコレートケーキとカフェオレだ。間違えて客に出したり、あるいはレモに見つかってしまわないようにと、翡翠に保管を頼んでいたのはこれだった。
「え、これ、……僕に?」
 きょとん、とレモは目を丸くする。
「甘いものは疲れを癒してくれるからな。冷めないうちに、どうぞ」
「ありがとう!」
 レモは飛び上がらんばかりに喜ぶと、椅子に座り、ほうっと息をついた。
「えー、僕の分はー?」
「お菓子、良いなぁ……」
 ヘル・ラージャ(へる・らーじゃ)ファル・サラーム(ふぁる・さらーむ)がうらやましがるのに、「お前達には、後で俺が作ってやる」と呼雪は微笑む。
「わーい♪」
「わぁーい!
 ヘルとファルが二人で無邪気にくるくると喜んではね回る様に、レモは思わず吹き出して笑った。
 声を出して笑って、ゆっくりカフェオレを飲むと、一日の疲れが溶け出していくようだ。
「ヘルさんにも、いっぱいお世話になったし、……呼雪さんも、フォローしてくれて、ありがとう。僕、焦るとどもったりするし、ちゃんとやれたか自信ないけど……」
「大丈夫だよ! 僕だったら、レモが元気に一生懸命お茶を運んできてくれただけでも嬉しいよ」
 ヘルの手が、レモの頭を撫でる。くすぐったそうに、レモは首をすくめた。今日は、レモが民族衣装に着替えるときも、ヘルが手伝ってくれていた。それこそオープン前はがちがちに緊張しそうになっていたレモを、ヘルの明るさがどれだけ和らげてくれたかしれない。
「俺は、成功したと思うな。レモは、どう? 全体を見て」
「…………」
 レモは少し考えてから、呼雪にむかって口を開いた。
「僕は……すごく、楽しかったし、嬉しかった。みんなで、どうしようって考えて、手助けしあって、感謝することばっかりで。でも、……お客様にも、いっぱいありがとうって言ってもらえて。それとね、この喫茶室が、季節ごとに変わるみたいに、僕も変わっていけたらいいなって思ったし、……色んなものが混じり合って、よくなっていけたらいいって、すごく思ったんだ」
「そう」
 訥々と語るレモに、呼雪は笑みを深くした。

 きっとそれこそが、ジェイダスの本当の『宿題』だったろう。
 薔薇の学舎の生徒たちと関わり、結びつきを感じること。
 沢山の意見や、沢山のものとむきあって、それらをすべて混ぜ合わせ、新たな『自分』に変わっていくこと。

「ジェイダス様、合格っておっしゃってくださるかな?」
「ああ、大丈夫だよ」
 呼雪の優しい言葉に励まされ、レモはようやく肩の力をぬくと、今日一番の、リラックスした笑顔を浮かべたのだった。


 こうして、喫茶室「彩々」は新たなスタートをきった。
 ここでまた、たくさんの人々が時を過ごし、新たな物語を紡いでいくのだろう。
 そのすべてが、ハッピーエンドであるように。

 『彩々は、いつでも貴方を、お待ちしています』




担当マスターより

▼担当マスター

篠原 まこと

▼マスターコメント

●ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。おかげさまでレモも、無事にジェイダスからの宿題を完遂させることができました。

●今回は、ワールドガイドにもあるほどの名物に関わらず、どちらかというと影の薄い喫茶室にスポットをあてて、皆様の手でより愛着のあるものとなればよいな、と思い、企画してみました。おかげさまで素敵なカフェになり、とても嬉しいです。協力してくださった生徒さんだけでなく、リニューアルオープンを華やかに彩ってくださったお客様にも、感謝しております。本当に、ありがとうございました。

●Happy Valentine’s Day!