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リアクション
イコン製造工場へと飛んでいく漆黒の機体を追うべく、裁は禽龍のコクピットでごく僅かに操縦桿を倒し、ほんの少しペダルを踏み込んだ。これだけでこの銀色の機体は殺人的な速度まで加速し、まるで砲弾として撃ち出されたかのような動きをする。
――イーグリット、ガネット、ジェファルコン。
今まで自分が乗ってきたどの高機動タイプ機体はどの機体もいずれ劣らぬ高性能機だった。だがしかし、この禽龍という機体ほどの機動性を有する機体は初めてだ。そして、この機体ほどパイロットを無視した機体も――。
――さぁ、風になろうぜ、禽龍☆
先刻、仲間にはそう気丈に振る舞って見せた。だが、実際はあの時から手足はみっともないくらいに震え、呼気は情けないくらいに乱れている。手足の震えや呼気の乱れは身体的なダメージが原因の一つだった。
操縦桿を一つ倒す度に鉄球、それも人間相手に使うことを想定して作られた武器ではなく、人間よりも遥かに感情な建造物を破壊することを想定して作られた解体作業用の鉄球のフルスイングで殴りつけられたようなダメージが骨を砕きにかかり、内臓を潰しにかかってくる。
ペダルを一つ踏む毎に自動車どころか家屋すら丸ごと巻き上げる竜巻に巻き込まれたかのような殺人的な回転が脳を揺さぶり、更には高空に巻き上げられた後にアスファルトの地面に叩きつけられたような衝撃が身体中の筋繊維という筋繊維を引きちぎろうとし、神経という神経を断ち切ろうとする。
パイロットに凄まじい負荷を強いる機体とは聞いていた。だから、自分でもできうる限りの対策をしたつもりだった。
粘体のフラワシをクッション代わりにして少しでも加速とGによる反動を軽減できないか試み、魔鎧として纏ったドールが超人的肉体で裁のフィジカルを強化して少しでも加速とGによる肉体への負荷を減らそうとも試みた。
更にはメフィストの肉体に憑依した九十九が超人的肉体でメフォストの身体にかかる負荷をすこしでも軽減しようとも試みていた上に、リジェネレーションの回復力で反動によるダメージを減らそうという方法も試した。
――まぁ、気絶は避けられないにしても、少しでも反動ダメージの軽減になれば。
その程度に思っていたが実際はどうだ。
「……かはっ……!」
また一つ吐血しながら裁は、禽龍の負荷に対する対策がどれも焼け石に水であったことを悟り、そして更に悟った。
自分の乗機であるシルフィードもピーキーな機体であるし、同じピーキーな機体ならどうにかなるかと思っていたが、この機体はあの程度の対策でどうにかできるような生易しい代物ではない。追いつくことも、捉えることも、あるいは捕えることも、誰にもできはしない。禽龍という機体が持つのはそれほどの絶対的な機動性。その絶対的な力を手にするということは骨を砕かれ、臓腑を潰され、筋をちぎられ、神経を断ち切られる――それだけの代償を受け入れる必要があるのだということを。
そして、この機体を乗りこなし、真の意味で絶対的な機動性を手に入れ、自らの力として使いこなすだけの境地は、その代償を受け入れ乗り越えた先にしかないのだということも。
サブパイロットシートに座るメフィストと九十九は既に気絶している。横目でそれを確認すると、裁は霞む視界で眼前のモニターを見やった。モニター越しに見える外の風景は彩羽のスクリーチャー・オウルあらためスクリーチャー・ゲイルで埋まっていた。機影が大写しになるほど接近されているというのに反応しなかった。否、反応できずに接近を許してしまった自分を叱咤するも、裁の手足は震えたままなかなか言うことを聞かない。
手足の震えと呼気の乱れのもう一つの理由。それは恐怖だった。
一挙動毎に襲いくる凄まじい身体へのダメージ。いくら心で抑えつけようとしても、裁の身体は本能的に凄まじい身体的ダメージを恐れているのだ。もはや身体に染みつくほどの恐怖。それも禽龍のパイロットにかかる負荷を考えれば無理からぬことだ。
『実は私、今からちょっと待たないといけないの。だから、待っている間の暇潰しに遊んであげるわ』
敵機からダイレクトに送信されてくる指向性通信。送信してきたのは眼前の敵機であり、通信を通して流れてくるのはまだ少女とすらいえるような若い女の声だ。
相手の言っていたことは聞き取れたが、何を言っているか意味が理解できない。脳を強烈に揺さぶられ続け過ぎたせいだろうか。それに加えて耳鳴りもする。裁は放心状態に近い顔をしながらそう考えていた。頭を振って強引に脳を覚醒させ、頭の中にかかっていた霞を払ったた裁は相手の言っている意味を理解し、即座に敵機の出方を窺う。
それと同時に敵機は攻めてきた。両手に持った蛇腹剣を鞭状態に展開し、クロスさせるようにして叩きつけてくる。禽龍が本来の機動性を発揮していれば、この程度の速度しか出ない攻撃などそもそもかすりもしない。だが、度重なる心身へのダメージで裁が放心状態となっている今の禽龍は半ば棒立ちに近い状態だ。スクリーチャー・ゲイルが両手で振るう蛇腹剣によって滅多打ちにされるがままだった。
先刻の「遊んであげるわ」という挑発の言葉に違わず、彩羽はどうやら本当に遊んでいるようだ。その証拠に、スクリーチャー・ゲイルの攻撃は数こそ多く、見た目こそは激しいが、装甲強度の高い部位ばかりを狙って牽制程度の攻撃を繰り返しているだけに過ぎず、実際の所はそれほど大きなダメージがあるわけではない。
だがそれでもこのまま攻撃を受け続ければいずれは重大な損傷に繋がる。もっとも、今の状態が続けばそれよりも先に裁の意識が途切れて禽龍は地表に向けて自由落下を始めるだろうが。
『そろそろ時間ね。それじゃ、これで終わりにしてあげるわ――ジェットエンジンは空気の吸気が必要だから試作型カットアウトグレネードなどを置いてやればジェットエンジンがえらいことになるはず。試してみようかしらね』
あえて説明するように彩羽が言いながら、スクリーチャー・ゲイルが試作型カットアウトグレネードをハードポイントから取り外し、見せつけるようにして放り投げる。
スクリーチャー・ゲイルの手からグレネードが投じられ、放物線を描いて飛ぶ動きは、裁にとって不思議なほどゆっくりしたものに見えた。
数秒後、あのグレネードが直撃すれば機体は動力源を停止されて自由落下を始めるだろう。そうでなくとも爆破の際に四散した破片がジェットエンジンの吸気口に巻き込まれ、それによるエンジントラブルで機体は大きく異常をきたすに違いない。そうなれば、傷つき疲弊した今の自分ではもはや機体を立て直すこともできないだろう。
諦念を受け入れたからか、裁の心の中はやけに静かだった。
裁の心の中には風が吹いている。
ただ静かになった心の中に吹く風。肌を撫でる感触や涼しさ、速さや風圧、そして音。風そのものには触れてすらいないにも関わらず、裁にはそうした諸々の要素がまるで本物の風をその五感全てで体感しているかのように鮮明な形で実感できた。
そして、それを実感した瞬間、裁は無意識に操縦桿を倒し、ペダルを踏み込んだ。
棒立ち状態から急発進した禽龍は一度急上昇すると、一瞬にして稼いだ莫大な高度をすべてつぎ込んでの急降下で超加速に入る。
『かわされたッ!? まぁでも、カットアウトグレネードの磁場干渉波の影響圏内だからすぐに動力が停――あぁぅっ!?』
通信を通して聞こえてくる彩羽の声は唐突に苦しげな悲鳴に変わった。超加速に入った禽龍がすぐ横を通り過ぎた直後、スクリーチャー・ゲイルの手足の先端が唐突に消失したのだ。何が起きたのか当の彩羽にもわからないらしく、あれほど冷静な彩羽が珍しく狼狽えている。
素早く至近距離まで接近した禽龍がコンバットナイフでスクリーチャー・ゲイルの手足を斬り払った――たったそれだけのことだ。ただし、常識を軽く超越する速さで、であるが。
常識を軽く超越する速さが彩羽に与えた精神的ダメージは大きいようで、カットアウトグレネードが一時的に機晶石を動力としたエネルギーに干渉する為のものである以上、ジェットエンジン――即ち、機晶石をはじめとしたパラミタ技術だけではなく地球産の技術も用いられている禽龍には効果が薄いことを理解できないほどに動揺させていた。
一方の裁は不思議と落ち着いていた。
たった今、心に吹く『風』を感じてからというもの、不思議と自分がいつ、どれだけの強さで、どの操縦桿あるいはペダルに、どの方向に向けて力をかければよいのか――そうしたすべてが直感的に理解できていた。そのおかげか、先程よりもスピード自体は出ているにも関わらず、裁には禽龍に振り回されているという感覚はなかった。
『い、いったい何が……!?』
相変わらず通信を通して流れてくる彩羽の声はまだ驚愕と焦燥に震えている。だがしかし、そんな精神状態にあっても彩羽の判断は迅速かつ正確だった。斬り落とされたパーツが先端のみであったことが幸いし、まだ手足のパーツの大半が残存していることに目を付けた彩羽は、咄嗟の判断で機体Uターンさせ、一目散に撤退する。まだ損傷が軽微な方に入る方だったことが幸いし、本来の機動性を発揮できたスクリーチャー・ゲイルはかろうじて十分な距離まで後退することに成功する。
彩羽の取った行動は上策だろう。少なくとも、両手を損傷して武器も使えない状態で今の禽龍と戦うのは危険な行為に他ならないのだから。
だが、彩羽の危機意識はある意味で杞憂に終わった。
その頃、禽龍のコクピットの中で裁は唐突に自らの身体から力が抜けるのを感じていたのだから。身体からだけではない。精神からも力が抜け、心身という心身が脱力していくのが自分でもわかる。そして裁の意識は禽龍のコクピットの中で薄れていった。