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リアクション
4.おとり捜査
斎藤 邦彦(さいとう・くにひこ)は無精ひげの生えた顎をなでながらあくびをかみ殺す。その目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。このところの騒動続きで、ゆっくり寝る間もない。
(ネルが寝る間もない、なんつってな)
「っぷくく」
邦彦は一人笑みを浮かべた。いつもならニヒルな笑みが浮かぶところだが、過度の疲労のために脳の働きが鈍った彼の笑みはむしろアヒルのようだった。
「もうちょっとシャンとして下さい、邦彦」
彼のパートナーであるネル・マイヤーズ(ねる・まいやーず)は、眉を寄せて邦彦を見つめる。たいていはやる気なさそうにしている邦彦だが、こんな奇妙な笑みを浮かべている彼は非常に珍しい。
「む、いかんいかん」
邦彦は軽く自分の頬を張る。
「ネル、ほかのチームからの連絡は?」
「犯人に遭遇したという連絡はまだ――ただ、女装した不審な男性の目撃情報が複数のチームから本部に寄せられているようです」
「女装? それはあやしいな」
ファーストキス泥棒は少女であるという被害者の証言だが、実は小柄で線の細い女装男性だった可能性はゼロではない。
「――ネル、その女装した奴が次に現れる場所を予測できるか?」
邦彦のアヒルな笑みが引き締まる。
「少々お待ちください――囮捜査のスポットをなぞるように移動して、次はおそらく中央校舎の二階と三階の間の――」
邦彦はネルの言葉が終わらぬうちに駆け出していた。
「……熱心なのは喜ぶべきことなのでしょうが」
ネルはパートナーの後を追って駆け出した。
不審な女装男性などと呼ばれ、マークされていることなど知るよしもない風間 優斗。彼はファーストキス泥棒を捕まえるため、あやしいところを巡回している。自分を追いかけてくるパートナーたちから逃げ回っているわけではない。
「まて、あやしい女装男性!」
次のスポットへと向かおうとする優斗の前に立ちはだかったのは、まるで鏡写しのように自分に似た青年だった。
「ルミーナさんのためだ。お縄についてもらう」
風祭 隼人(かざまつり・はやと)は星輝銃を優斗の眉間へと向ける。
「は、隼人、僕だよ、優斗だ」
「残念だ……例え優斗でも女装した上破廉恥な行いに及びルミーナさんを困らせる。ここで、終わりにしてやる」
隼人は無造作に引き金を引く。せめて痛みを知覚する部位が一倍最初に失われるように頭部を冷静に狙っている。
優斗は、必死のスウェーで星輝銃の一撃を避ける。
「こらー!」
駆けつけたテレサ・ツリーベルがフルスウィングで光条兵器を隼人に叩きつける。
背後から殴りつけられた隼人は、そのまま磨き上げられた床の上を滑っていく。
「何事だ!?」
そこへハンドガンを抜いた邦彦が駆けつける。
「いやはや、兄弟喧嘩ですよ。兄は女装したいといい、弟はそれを止めようとした……悲しい話ですね」
諸葛亮著 『兵法二十四編』が邦彦にだけ聞こえる声でささやく。
「邦彦! キス泥棒出現の情報です」
ネルの言葉に邦彦は小さく舌打ちし、きびすを返して走り出した。
「どうしよう?」
ミア・ティンクルは気を失ったらしい隼人と、すっかりメイクアップした優斗を見つめて嘆息した。
ミルディア・ディスティン(みるでぃあ・でぃすてぃん)は、ファーストキス泥棒を捕まえるため、一人廊下の角に立っていた。
「キャサリン! ユーのファーストキッスはミーがいただくのね!」
くねくねと、骨格があるのか不安になる奇妙な動きで見知らぬ動きで、ヴェル・ド・ラ・カッツェ(う゛ぇる・どらかっつぇ)が近づいてくる。
ミルディアは、目の前の男が乙女の的であることを本能的に悟る。
「……うーん。名乗る義理もないけれど。我が名は百合園女学院のミルディア・ディスティン。義によりて今からあなたを討つよ。キャサリンじゃないからね、ミリーだからね!」
ミルディアはハルバードを構える。ハルバードは複数の長柄武器の特性を併せ持つ。重い穂先部分を持つ故に扱いが難しい。狭い建造物の中では、切る突く叩くというハルバードの攻撃の内、二つは十分にその威力を発揮しない。
「OKOK、ミリアリア! ミーがその唇を奪うのネ!」
ヴェルは、まるでプールの中を歩いているような奇妙な歩法でミルディアへと近づいてくる。
(なんか気持ち悪――って、距離を詰められた!?)
決してミルディアが油断していたわけではない。ヴェルの動きは、通常の戦闘訓練を経たものにはまったく理解のできないものだ。彼の動きは無駄が多すぎて、予測が付かないのだ。
ミルディアはハルバードを捨てる。
「この、ばかちんがぁ!!」
スナップの利いた平手打ちがヴェルの頬に炸裂する。クラッカーを鳴らしたような子気味のいい音が響いた。
「殴ったネ。ダディーに――ゲハ」
今度はグーパンチがヴェルの鼻面に叩き込まれる。その動きから想像されるようにヴェルは戦闘経験がほとんどなく、強健さにも掛ける。眼を回して廊下の上にダウンした。
「あなた、その男の仲間!?」
過度から顔だけをのぞかせてミルディアとヴェルの戦いを眺めていた生徒に拳を突きつける。
「え……いや、あの俺」
篠宮 悠(しのみや・ゆう)は口籠もる。どこからかうわさを聞きつけてきたヴェルに、薔薇の学舎から引きずられるようにして連れてこられたのだ。
だるいのでなにもしなかったが、いよいよというときにはヴェルを止めるつもりではあったのだ。
「その人と一緒に捜査本部に来てもらうからね!」
鼻先にハルバードを突きつけられて、悠は頷くしかなかった。
篠宮 悠、ヴェル・ド・ラ・カッツェ、捕縛。
――神楽坂 翡翠(かぐらざか・ひすい)は、本部で連絡係を務めている花梨に連絡のメールを打ちながら、人気のない廊下を歩いていた。廊下の向こうから、一人の男性が歩いてくる。
――赤城 長門(あかぎ・ながと)は上半身裸で歩いていた。廊下の向こうから、髪の長い男性が歩いてくる。
「――寒くはありませんか」
翡翠は、うっすらと汗を掻いた素肌を外気に晒している長門に尋ねる。長門の身体からは、際えて男らしい汗のアロマが立ちのぼってくる。裸の上半身と、ぴっちりとした黒いレザーパンツが『怪しさ』を演出している。
「お前の方こそ髪のトリートメントたいへんそうじゃのう!」
「いえ、特別なことはなにもしていませんよ」
翡翠はつややかな髪をかき上げる。長門はドレッドヘアーをかき上げて笑った。
「どうじゃ、やるか?」
長門はベルトに挟んでいたヌンチャクを抜く。
「一つ聞きたいことがあります――」
「なんじゃ」
「なぜ上半身裸なのですか?」
「上半身裸は、葦原明倫館のユニフォームじゃけぇの! 総奉行も上半身裸じゃき!」
長門は胸を張る。本当かどうか、翡翠には知るよしもない。
「それでは、やりますか」
翡翠はトミーガンを長門へと向ける。
長門はヌンチャクを構える。
二人の視線が絡み合う。
ほかに人影とてない廊下で二人の男がぶつかり合う――