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白の夜

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白の夜

リアクション

 広間の端、先程ヴラドが指し示した方向では、バラード調の穏やかな歌声が静かに奏でられていた。
 開け放たれた窓の前、庭にしゃがみ込むたまの伸ばした脚を台に、澄んだ月光を浴びる皇祁 璃宇(すめらぎ・りう)は清らかな歌声を響かせる。即席のステージを提供したたまは声に合わせて首を揺らし、持ち込んだBGMに合わせて、璃宇の歌は続く。

♪甘くて 可愛いスィーツ
 ちょっぴり苦くて 優しい気持ち♪

 廊下で行われるクッキーマンとの戦いは、ひと段落を迎え始めていた。広間で上がる歓声や笑い声は絶えず、薄明るく照らし出されたお菓子のパーティーは続いて行く。彼女の肉声は決して広く届くことはないものの、聴いた者の心に暖かな心地を提供した。
 一曲を歌い終え礼をする彼女に、ぱちぱちと拍手が贈られる。顔を上げた彼女は次の曲へ移ろうとして、ふと目に映った知り合いへと駆け寄って行った。たまが長い首を傾げ、ぐるぅと疑問気な声を漏らす。
「皇祁さん?」
 広間を歩いていた鈴倉 虚雲(すずくら・きょん)は、ふと耳に届く聞き覚えのある声に惹かれ、手にしたお菓子を持ったままに庭へと赴いた。彼の後には勿論、パートナーである紅 射月(くれない・いつき)も続く。最も近くにいながら視線の合わない、ぎこちない関係のまま、二人は虚雲の目指す方向へと歩いて行く。
「虚雲くん、紅様。丁度良かった、二人に渡したいものがあったの」
 たまの脇を抜けて庭へ飛び出しはにかむ璃宇に、虚雲はきょとんと目を瞬かせた。まずは、と一歩歩み寄る璃宇から、その夜闇に似た色の瞳から目が離せない。胸騒ぎがする、と、そう感じた。
「渡したいもの?」
「そう。虚雲くんにはね、言葉をあげる。……それはね、“光”」
 どきり、と鼓動が一つ高鳴るのを感じた。
「暗い闇を照らしたり、振り払うのは光なの。見失わないでね」
 璃宇の瞳に、一切の含みは感じられない。しかしその曖昧な言葉の指すものに、虚雲は返答するだけの余裕を奪われた。どくどくと、煩わしい程の鼓動の音が思考を妨げる。何故それを俺に、そう言葉にすることが躊躇われた。
「見失うも何も、俺は……」
 掠れた声で呟く虚雲に、璃宇は大人びた笑みを向けた。動揺にそれ以上の言葉を失った虚雲から、射月へと視線を移す。
「紅様には、この花束ね。この前は勝手に帰っちゃってごめんなさい」
 後ろ手に隠し持っていた花束を、謝罪と共に璃宇は差し出した。気にしないで下さい、と穏やかに述べようとした射月は、しかし唇を薄く開いたままに動きを止めた。凍り付いたように喉が言葉を発さない。差し出されたものを受け取ろうと伸ばした指先は定まらず、微かに震えを訴える。
「……。……ありがとうございます」
 時が止まったかのような一瞬の静寂の後、我に返った射月は曖昧な笑みを浮かべて帯紅色の薔薇の花束を受け取った。忘れもしないバレンタインのその日、それは他ならない射月が虚雲へ渡した物と同じだった。
「それじゃ、もう一曲あるからまたね!」
 璃宇は彼らの動揺を指摘することも無く、ただ静かに微笑むと、すぐに踵を返した。呆然と見守る二人の視線の先、促すように差し出されたたまの長い尻尾に飛び乗ると、緩やかな曲線を描いて屋敷の中へ連れ戻されていく。

♪苦くて ヘビーなスィーツ
 ちょっぴり甘くて 嬉しい気持ち♪

 渦巻く感情に乱され動き出すことの出来ない二人の耳に、再び澄んだ歌声が届いた。それを機にはっと顔を上げた二人は、やはりどこかぎこちなく視線を逸らす。
 漂う雰囲気が気まずい。未だ動揺の冷めやらない虚雲は、ふと手にしたままのお菓子を思い出すとそれを口へ放り込んだ。何もせずにこの空気の中佇むことは、とても耐えられそうになかった。
 ぼんやりと花束を見詰める射月は、どこまでも深く思考に沈む。彼女は知っていてこの花束を自分に渡したのか、それが気掛かりだった。知っているのだとしたら、何のために。じゃり、爪先が無意識に小さく地面を蹴る。
 その音に反応した虚雲が、ぼんやりと射月へ目を向けた。どこか焦点の定まらないその瞳は、先までと違って一向に逸らされる気配がない。怪訝と見返した射月の目には、とろんと双眸を蕩けさせた虚雲の姿が映った。
「虚雲くん……?」
「……お前見てると、ここが……熱くなるんだ」
 呼吸を荒げた虚雲が胸元を片手で握り締め、呟くように言う。誘うようなその妖艶な瞳の色に射月が動揺した、その刹那の出来事だった。
 不意に飛来した一匹の吸血コウモリが、擦れ違い際に虚雲の首筋へと歯を引っ掛け飛び去っていく。咄嗟の反応の遅れた射月の前で、虚雲の首筋から一筋の赤が垂れる。
「虚雲くん!」
 駆け寄った射月が傾く虚雲の体を抱き留める。頬を上気させた虚雲は肩で呼吸を繰り返し、その姿に吸い込まれるように、射月は彼の傷口へと唇を寄せた。そっと差し出した赤い舌先を、温かな首筋へと丁寧に這わせる。傷口から滲む血を舌先が掬うと、虚雲の唇からは小さく喘ぐような音が漏れた。
「ぁ……う、……っ……もう少し、このまま……」
 どこか足元の覚束ない虚雲を彼の要求通りに体で支えたまま、射月は緩慢な所作で繰り返し首筋を舐め上げた。ぴくりと震える虚雲の傷口から零れる血液が収まって、ようやく名残惜しげに顔を離す。酔ったように蕩けた虚雲の瞳にはただ、自分だけが映し出されている。それが堪らなく心地良く、同時に鈍い痛みを射月にもたらした。彼を今乱しているのが惚れ薬の類であろうことは、射月にはとうに見当が付いていた。
「好きだ……ずっと前から、お前のこと……」
 尚も紡がれる虚雲の言葉が射月の鼓膜を震わせ、言葉を失う彼には構わず、虚雲はさり気なく射月の腰元へと腕を回し抱き付いた。服を介して伝わる互いの鼓動は、どちらも落ち着きを失っていた。
「……。僕はあなたが好きですが、虚雲くんは違うでしょう?」
 このままで居たいと、そう思う心は確かに会った。しかし射月は、緩やかに虚雲の肩を掴み引き剥がす。薬に思考を乱された虚雲のきょとんと丸められた瞳に、生じる痛みを押し殺すように、射月は儚げな笑みを浮かべる。真剣な声音で、一言一言を言い聞かせるように紡ぎ出す。
「あなたが“本当に”僕を好きになって下さった時に、そう言って下さるのなら……本望です」
「紅……」
 表情に戸惑いを浮かべた虚雲は、次の瞬間すうっと意識を失った。弛緩した体を、射月はやや驚いたように支える。吸血コウモリの一撃には眠りを誘う効果があったらしい、穏やかに寝息を立て始めた彼を改めて抱き留めながら、射月は静かに笑みを浮かべた。
「薬の力で好きになられても、……あなたの本当の心は手に入らないから」
 聞く者のいない言葉を零し、射月は空高く浮かぶ月を見上げた。
 歌声が、遠く響き渡る。


「……ん」
 片手を差し出し、一拍置いてやはり引っ込め、言葉にならない単音だけを零した皇祁 黎(すめらぎ・れい)に、飛鳥 誓夜(あすか・せいや)は困ったように眉を下げた笑みを浮かべた。彼の意図は手に取るように分かっている。それに乗りたいのも山々だが、初心な彼から直接口に出して求められたいと欲求が募るのも、また如何ともしがたい事実だった。
「……」
 一向に差し出される気配のない助け船に、黎の猫耳がしょげたように垂れ下がる。しかし表情にはそんな落胆を一切覗かせずに視線を逸らしてしまう黎に、誓夜は微笑ましげに頬を蕩けさせ苦笑した。
「ごめんな。ほら、行こう」
 促すように手を取る誓夜にぱっと黎は顔を上げ、控え目に指を絡めて手を繋ぐ。温かな体温を共有しながら二人は庭へ向かうと、空いたベンチを見付け並んで腰を下ろした。夜の澄んだ静寂の中、黎は顔を誓夜と反対の方向へ向けながらも、さり気なく身体を寄り掛からせる。
「黎。……バレンタインのお返し」
 思い出したように片手に提げていた袋から箱を取り出すと、誓夜はそれを黎へと差し出した。きょとんとする黎へ、受け取るよう緩やかに促す。受け取った箱を膝に乗せた黎が慎重に封を解き、箱を開けると、中には猫の顔の形をしたチョコレートケーキが収められていた。誓夜お手製のそれには、黎に似せて丁度目の位置へ眼帯のようにプレートが置かれていた。
「……! その、誓夜、……ありがとう」
 その見事な出来栄えに息を呑んだ黎は、気恥ずかしさに駆られやや苦戦しながらも視線を逸らしたままに礼を述べる。嬉しげにぴこぴこと揺れる耳が彼の心境を代弁しているように思えて、誓夜は満足げに頬を緩めた。
「黎は俺のこと、好き?」
「……知ってるだろ」
「直接聞きたいんだよ」
 照れたように薄らと頬を朱に染めながら紡がれる言葉には笑みを深めながら、誓夜は尚も不満げに要求を重ねた。躊躇うように長い間が置かれ、チョコレートと空との間で何度も視線を往復させた黎は、やがてか細い声で「好き」と零す。
「好き……だから、もっと日常でも恋人同士みたいなことしたい」
 思い出したように誓夜を見上げると早口にそれだけ言い添えて、黎は素早く視線を逸らした。耳まで赤くなった彼の横顔に、誓夜は暫しぼんやりと見惚れた後、告げられた言葉の甘さに双眸を蕩けさせる。
「普通の恋人同士って、どんなことするの?」
「え、……わっ」
 やや低めた声でそう囁くように問うた誓夜は、言うや否や黎の頬へと肩手を添えた。緩やかながらも有無を言わさない力で黎を自分へと向かせ、戸惑う黎へと顔を寄せる。
「こう?」
 頬を撫でる掌を顎へ滑らせ、軽く持ち上げるようにしながら、誓夜は黎へと唇を寄せた。触れる寸前の距離で悪戯にそう囁くと、黎の頬が一層赤みを増す。答えない黎を更に追い詰めるよう、誓夜は間近な距離のままに言葉を重ねた。
「黎、おねだりして」
「誓夜……!」
 羞恥を押し隠すように引き締められた黎の余裕のない面持ちも、悪戯に誓夜を煽るばかり。切羽詰まった声で名を呼ぶ可愛らしいその姿に及第点とばかり誓夜は苦笑し、柔らかく唇を重ねた。
「黎は恋人同士なら、誰とでもこういうことするの?」
「何言って……恋人は誓夜だけだし、こうなるのも誓夜だけだ」
 すぐに顔を離し、真っ赤になって俯く黎に、誓夜はくすくすと満足げな笑声を零す。緩やかに両腕を回して彼の細腰を抱き寄せると、耳元へ囁きと吐息を吹き込み、誓夜は告げた。
「じゃあ、もっと恋人らしいこと、シようか?」