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【カナン再生記】迷宮のキリングフィールド

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【カナン再生記】迷宮のキリングフィールド

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■第17章 第6のドア(2)

 激しい攻防が続いていた。
 ネクロマンサー、フェイタルリーパー、フェルブレイド、ウィザード、ナイト、それぞれが長所を活かし、短所を補いつつ彼らに向かってくる。ナイトが守りを固め、ネクロマンサーとウィザードが広範囲魔法を放ち、それを受けている隙をついてフェイタルリーパーとフェルブレイドの3人が一撃離脱をかけてくる。
 受ける彼らもまた同じく。櫛名田が後方から全体を把握しつつテレパシーで的確な指示を出し、佑一、エヴァルト、遙遠、リゼッタといった後衛が遠距離攻撃をしてけん制をかけている間に麻羅やバァルが前衛で接近戦を試みる。
 どちらも手を探り合い、うかつな一手を出せないため、無難な技の応酬が続く。どちらかが一方的に攻勢というわけにもならず、拮抗した戦いはまさに消耗戦ともいうべき様相を見せ始めた。
 だれもが血と汗を飛び散らせ、少なからぬ傷を負っていた。最後衛で櫛名田の横についたミシェルがフラワシのレーベン・ヴィーゲを用いてチームの回復に専念しているが、とても追いつかない。
 そんな中、遥遠がモレクの足元を見て、あることに気づいた。
 ステンドグラスの彩りの影――あれは、ずっとあそこにあったか?
 一生懸命、この部屋に入ってきたときのことを思い出す。遙遠の後ろから伺った。あれが今度の戦いを引き起こしたモレクだと……そして怠惰に構えた彼のぶらぶら揺れる足の下、あの位置に、光はあった?
 ――あった。全く同じ位置に。
(まさか…)
 ぱっと上を振り仰いだ。
 はるか高処にある、丸いステンドグラス。教会の構造を思えばあり得ない高さではあったが、それを言えばこの部屋とてあり得ない広さだ。それは関係ない。
 では、あの光は?
「遙遠、サポートをお願いします」
 遥遠は胸のいやな予感に駆り立てられるまま、光の翼を広げ、舞い上がった。戦列を離れた彼女を撃ち落とさんと放たれるウィザードの魔法を、遙遠がブリザードで防ぐ。
 遥遠はステンドグラスに虚刀還襲斬星刀を突き立てた。
 パン! とガラスの割れる音がして、鉛枠からはずれたガラスが次々と落ちていく。
「――ああ、そんな…!!」
 予感が的中してしまったことに、遥遠はそれ以上言葉をつなげることができなかった。
 ステンドグラスの向こうには何もない。ただ闇が渦巻いているだけだ。ガラスを透かせて入っていたはずの光すらも、そこには存在しなかった。
「あーっはっはっは!!」
 彼らがようやく真実に気づいたことに、モレクが高笑う。
「ここはそういうフィールドなんだよ? 一体どことつながってると思っていたのサ」
「なんだと!?」
 シュヴァルツ・ヴァルト(しゅう゛ぁるつ・う゛ぁると)が吼えた。
 理不尽すぎた。刻限は「夕刻、陽が沈むまで」と決められていたのではなかったのか。だからこそ、彼らはあの光で外の様子を探ろうとしたのだ。モレクもまた、そうしていると信じて…。
「――まさか」
 佑一は脳裏にひらめいた言葉をそのまま口に出す。
「はじめから、薬を渡す気がなかった…?」
 だからあんな小細工をしたのか。
 外の様子を知ることができない自分たちに、まだ陽は落ちていない、まだ間に合うと信じ込ませるために。
 そしていよいよとなったとき、絶望へ突き落とすために。
「そうしてあげてもよかったんだけどねー。でもそれじゃあゲームにならないでしょ。そんなことはしないよ」
 モレクは首を振り、初めて玉座から立ち上がった。
 脇のミニテーブルに指を這わせ、そこに浮かぶ解毒剤を見つめる。
「ルールはルール。彼らを倒したらこれをあげる。この薬が黒矢を受けて24時間以内だったら効くというのも本当。
 でも、今がいつかなんて、僕が教えてあげる義理はないよね?」
 意地の悪い笑みを見せ、彼らをねめつける。
「キミたちがこの教会に入って、もうずいぶん時が経った。外はもう夜かもしれないね。あの男を助けたいキミたちにとってはとっくに手遅れかも」
 ポケットに手を突っ込み、斜に構えている彼が、初めて相応の魔女に見えた。
 子どもっぽい口調、しぐさ。しかしその裏にあるのは大人の打算と底意地の悪さだ。無邪気さなんてものはカケラもない。
「勝ち負けとか何時かとか。僕はどうでもいいんだよ、楽しいゲームが続きさえすれば」


「まさか…」
 もう手遅れだというのか? セテカを救えない…?
 ついに内なる悪意を前面に押し出した敵を見て、バァルの体がぐらりと傾いだ。
「バァルさん?」
 隣の遙遠が、とっさに肩を支える。
「立ってください。まだ夕刻を回っているとは限りません。あれは、やつがそう言っているだけです!」
「ああ……すまない」
 エリヤのように失ってしまうのかと、絶望的な思いに引きずりこまれかけたことに自らも気づいて、バァルは詫びた。頭を振り、その考えを振り払う。
 遙遠の言うとおりだ。敵の言うがままを信じる道理はない。今はただ、薬を手に入れることだけに集中すべきだ。
 そう思い切り、バスタードソードを握る手にあらためて力を込めたとき。
「そうとも! まだ時間は全然ある!!」
 バーーンと入り口のドアを蹴り開けて。
 トライブ・ロックスター(とらいぶ・ろっくすたー)がずかずか中に踏み込んできた。
「ちくしょお! すっかり騙されちまったぜ!」
 刻限が指定されているからてっきりステンドグラスから外の様子を把握しているのだとばかり思っていたのに、まさかあれがフェイクだったとは。
「おかげで奇襲作戦がだいなしだ」
 カッコイイ作戦思いついたと思ったのにっ。
 くっ、と苦い思いを噛み締める。
 だがしかしッ! こうやって最終決戦には間に合った。
 6室目は途中入室不可なんてきまりはなかったことを思い出したからだ。5枚のカードを使用され、ドアは開いている。バァル側の入室条件はクリアされていたからルールによって強制退室させられることもない。
「いいか! モレク!」
 びしッ、真正面に立つモレクに指を突きつけた。
「はっきり言っといてやる! テメェにバァルの首をくれてやるわけにゃいかねぇ! アナトの姐さんが待ってんだ、こんな所でバァルに潰れられちゃ困るんだよ!」
「――まるで彼女と知り合いのようだな…」
 彼の啖呵の中、使用された固有名詞を耳聡く聞きつけて、バァルは訝った。
 もしや、彼女に余計な話を吹き込んだ「とある方」というのは…?
 ――ぎくり。
 しまった、よけいなことを口にしてしまった、と内心汗だらだらになるが、口から出たものはもうどうしようもない。あとはもう、どさくさにまぎれるしかッ!
「と、とにかーーく!! 背負ったモンの為に戦う、それが俺のルールだ! 万年退屈病のテメェなんざとは、背負ったルールの重さが違うんだよ!」
 ブレード・オブ・リコを手に、トライブはバーストダッシュで突っ込んだ。一撃必殺。薬がどうの、刻限がどうなどもう関係ない、とにかくあいつをぶった斬りさえすれば決着だと。
 しかし飛び出したフェルブレイドの剣が、これを阻んだ。
「ちッ」
 続けざまに繰り出された剣を受け、すり流し、突き飛ばす。アルティマ・トゥーレの氷結を受けた袖が、音を立てて砕けた。
「ひとの邪魔してんじゃねぇッ!!」
 怒声とともに放ったトライブの轟雷閃が、床を裂き走る。
 フェルブレイドの離脱により、敵の戦列は崩れた。
 膠着していた戦いの場が、一気に活気を帯びる。
「援護します! 行ってください!」
 佑一が前列で防備を固めるナイトに向け、クロスファイアを撃った。彼らを足止めしている隙に、バァルが俊足を活かして敵陣へ走り込み、ウィザードを切り伏せる。――「LOST」
「おぬしらの相手はこのわしじゃ!」
 自分たちを飛び越えたバァルの背中に向かい、ナイトが剣を突き込もうとしたのを見て、麻羅がジェットハンマーを打ち込んだ。ヒロイックアサルトで強化された一撃はナイトのまとった鎧がまるで紙製であるかのように変形させ、容赦なく叩きつぶす。
 「LOST」の青い点滅は、しかし1つしか現れなかった。
「麻羅、あぶないっ」
 手前のナイトにさえぎられ、威力が少し足りなかったか。もう1人のナイトがよろめきつつも立ち上がる。それを見て、緋雨がとっさに前に出た。緋雨のヒプノシスを受け、ナイトはその場に昏倒した。――「LOST」
「バァルさん、伏せて!」
 彼に闇術を叩きつけようとしたネクロマンサーの動きを見て、遙遠が黒翼を放った。糸に操られた刃は不規則な軌道を描き、ナイトやフェイタルリーパーを巧みに避けてネクロマンサーに突き刺さる。闇術を放とうとした手が硬直した、その一瞬の間を逃さず、バァルは彼らの間合いを離脱した。
 すぐさま糸を切り、ネクロマンサーを背後に庇ったフェイタルリーパーに向け、雷術が落ちる。
「きさまの相手は俺がしよう」
 もう雷術での後方支援などやっていられない。
 先のモレクの汚いフェイクに、すっかり頭にきたエヴァルト・マルトリッツ(えう゛ぁると・まるとりっつ)が進み出た。
 彼は、武装を一切まとっていなかった。鎧をつけ、大剣で武装した巨躯のフェイタルリーパーを相手とするには無謀に見えたその姿に、だれもが眉を寄せた。
「おーい。ワイが補助に入ろうかぁ?」
「いらぬ心配だ」
 振り下ろされた渾身の一撃――一刀両断を白刃どりで受け止め、エヴァルトはその手首に蹴りを入れた。彼の体はいまやドラゴンアーツの輝きで包まれており、次々と繰り出されてくる大剣を悠々と避けている。その身のこなしで、見守っていた彼らの不安は払拭された。
「スタンクラッシュ、一刀両断……力押ししかできん大木め」
 直線的に動く大剣は、少し横から力を加えてやれば簡単にそれる。相手の攻撃が大きければ大きいほど、空振りした剣を引き戻すまでの隙は大きく、エヴァルトの目から見ればがら空きと同じだった。
 フェイタルリーパーが低いかまえをとる。チャージブレイクだ。必殺の一撃でかたをつける気らしい。
「ふん。こっちも一気にけりをつけてやるか。――変身っ!」
 気迫のこもった言葉とともに高く跳躍した、エヴァルトの全身から光が放たれた。白光に包まれた体がぐぐぐと変形し、ひと周り大きくなったような錯覚さえ見る者に与える。
 光が静まったとき、そこにはパワードスーツに身を包んだエヴァルトがいた。
「くらえ! そして沈むがいい!!」
 ――龍飛翔突。
 急降下踵落としからたたみかけるように歴戦の必殺術で連続攻撃に移る。フェイタルリーパーはブレイドガードはおろか、大剣を満足に持ち上げる隙もない。彼の動きが止まったとき、そこにはもはや立つ者は彼しかいなかった。
 「LOST」の青い点滅が、エヴァルトの完全勝利を告げていた。


 いまや完全に流れは彼らの方にあった。
 モレクはミニテーブルの横に立ち、手をポケットに突っ込んだまま、残ったネクロマンサーとフェルブレイドたちの戦闘を段上から見ている。その表情は、彼らが現れたときと違ってもはや笑んではいなかったが、かといって追い詰められて苦りきっているという様子でもなかった。
 ネクロマンサーとフェルブレイドは守勢に回っている。倒されるのも時間の問題というのは分かりきっているだろうに…。
(まだ何か考えてやがるな、あの野郎)
 貼りついた天井から見下ろしつつ、四谷 大助(しや・だいすけ)は考えた。
 彼は、最初の混戦のどさくさに紛れて軽身功を用い、壁づたいに天井近くまでよじのぼっていたのだ。
 ステンドグラスが割られたときには、結構危なかった。全員が上を向いたため、見つかるんじゃないかとひやひやしたが、魔鎧四谷 七乃(しや・ななの)の隠れ身は万全だった。彼らの注意は完全に真上のステンドグラスにのみ向いており、そのあとすぐ戦闘に入ったこともあり、気づかれずにすんだとほっと胸をなでおろした。
 一応少し間をおいて様子見をしてから、少しずつ少しずつ、壁飾りの影に紛れるようにじりじり動いて、今ようやくモレクの横までたどりついたわけだが。
 モレクの意味不明の余裕っぷりが、妙に気にかかる。
(マスター、どうします? もうちょっと様子見ますか?)
 七乃の言葉に、大助は肩をすくめて応じた。
(いや、今が絶好だ。何か考えがあるってんならそれを封じるためにもさっさと動いた方がいい。俺たちでその余裕を消し去ってやろう)
 大助は、モレクの死角となる位置まで移動して、そして合図を出した。
(オッケー)
 大助の合図を受けて、白麻 戌子(しろま・いぬこ)がパチっとウィンクをする。そして、わざと大仰な態度でずいっと赤絨毯の中心に立つ。
「モレク! 一体キミは何様のつもりなんだねー!」
 腰に手をあて、堂々胸を張った。指を突きつけ、高らかと宣言する。
「ゲームで遊びたければ1人遊びでも何でも、よそ様の迷惑にならない場所で勝手にやっていればいいのだ! したがっていない者を強引に引っ張り込むなんて、それがゲームマスターのすることかね?」
「引っ張り込んでなどいないよ。僕はゲームを提示し、賞品を決め、場を提供しただけさ。したくなければ来なければいいし、面白くないと思ったんなら帰ればいいんだ。僕は止めないよ、全然」
「そうできないお膳立てをしておいて、なんて言い草なんだね? 恥を知りたまえ! ボクは心底あきれちゃったよ。
 自分だけが楽しければいい? それも誰かの命を弄んで? 何処から見てもキミのしていることは最低の行為なのだよ!」
「……だから?」
 戌子の挑発に、モレクは乗ろうとはしなかった。素っ気なく肩をすくめて見せただけだ。
「キミは若いなぁ。人の評価なんてどうでもいいんだよ。人間なんて、この時間の流れにおいてはしょせん通りすぎる影でしかないんだから。どうせあと数十年もすればここにいるだれもいやしないんだ。そんなものを気にかけるなんて、ばかのすることだ」
 その声、口調、言葉――そして金の瞳。すべてが空疎だった。虚無。彼は真実そう信じていると、聞いただれもが信じた。これまで口にしてきた言葉、態度、ほかの何がうそであっても、その言葉だけは彼の真実なのだと。
 彼とは絶対に分かり合う日はこないだろう――彼らは納得した。
 ぱちぱちぱちと、戌子の拍手が高く鳴る。
「いやあ大層な御高閲だったのだよ、実に素晴らしい。うん、感動した。
 では大助、やりたまえー」
「って、全然注意ひけてねーじゃんかよッ!」
 反対に言い負かされてるじゃねーかっ。
 戌子の能天気っぷりに頭がくらくらしたが、名前まで出されてバラされてしまった以上、もう隠れ身は通用しない。
 こうなったらやるしかないと、大助は一気に飛び降りて、解毒剤の奪取を試みた。低い体勢で走り抜け、ミニテーブルから小瓶を掴み取る。奪ったと思った瞬間、しかし小瓶は彼の手の中から消えた。
「これなーんだ?」
 余裕綽々、モレクが横のミニテーブルを上から指す。そこには、先までと変わらず解毒剤の小瓶が浮かんでいた。
「そんなばかな!?」
 たしかに掴み取ったはず、ともう一度手を見る。そこにはたしかに小瓶を握った感触も、まだ残っているというのに…。
 自分の手を見つめている大助が何を考えているか見抜き、モレクは遙遠を指差した。
「僕とそこの彼との間で、この部屋のルールはすでに取り決められてるんだよ。カードと同じ。勝敗が決しなければ何者も動かすことはできない。
 ここにいる者を倒さなければ、解毒剤は手に入らないよ」
「……くそっ! ルール縛りというわけか!」
「ならばきさまを倒すのみ!」
 エヴァルトが宣言する。
「薬を渡したからって、どうせテメェを許す気なんざ、はなっからないんだしな、こっちは!」
「一気にカタぁつけてやる!」
 その言葉とともに、全員がモレクに向かって突き進んだ。


 主人を守るべく、ネクロマンサーとフェルブレイドが立ちふさがった。絶対闇黒領域を発動させたフェルブレイドが捨て身の攻撃で前列崩そうと走り込み、鬼神のごとき猛攻をかける。身を守ることを放棄した、決死の舞いは彼らの足を止め、戦列を崩した。
 その隙にネクロマンサーが詠唱を完了させ、アンデッドたちを召喚する。
「――くそッ! このタイミングでかよっ」
 長引く戦闘に、だれもが疲弊していた。ヒールやフラワシで表面上の傷はふさがれても、疲労は蓄積し、彼らの手足を重くさせる。SPも底をつきかけている。
 だが諦めるわけにはいかなかった。たとえ武器を持ち上げる力すら、失われたとしても。
 遅い来るアンデッドを迎え撃つべく、佑一は銃舞を発動させた。
「ここは必ず食い止めます! 行ってください!」
「遙遠たちが援護します!」
「そうよ、バァルさん、行って! セテカさんのためにも!」
「ワイが突破口を切り開く!」
「――すまない」
 遙遠が、残るSP全てを込め、我は射す光の閃刃を眼前のアンデッドたちに放った。
 通り過ぎた光刃を追うように切が飛び出し、まっすぐネクロマンサーに切りかかる。
 その横を、バァルが風のように走りすぎた。
「行っけぇ!! バァルさん!!」
 声援を背に、バァルはさらに速度を上げる。
「モレク! きさまだけは許さん!!」
 迫り来るバァルに向け、モレクが手を突き出す。
(いまだ! 来い、シュヴァルツ!)
 佑一は切り札――シュヴァルツ・ヴァルト(しゅう゛ぁるつ・う゛ぁると)を召喚した。
 前もっての打ち合わせどおり、彼は現れた瞬間サイドワインダーで暗黒の弓を放った。2本の矢が、左右から同時にモレクを襲う。
「! なにっ?」
 さすがにこれは彼を驚かせたようだった。肩と脇腹に突き刺さった矢の激痛に身をよじり、てのひらから呼び出しかけていた闇が霧散する。
 大きくよろめいた彼の腕を龍飛翔突の応用で背後に着地したエヴァルトが掴み、バァルに向かって振り投げた。
「ネルガルの居城まで飛ばすつもりで、一世一代の大ホームラン、ぶちかませぇぇッ!!」
 次の瞬間、バァルとモレクが交差し、バァルの剣がモレクの胸を十文字に切り裂いた。
「やったわ!!」
 モレクが割れた胸に手をあて、がっくりと膝をつくのを見た緋雨が快哉を叫ぶ。と同時に、頭上からステンドグラスが再び割れる音がした。――今度は、現実空間のステンドグラスが。
 モレクの力が弱まり、フィールドを保てなくなったのだ。
 現実世界の坂上教会とモレクの作り出した坂上教会が、今、重なり始めようとしていた。
「正悟! 行け!」
 ヘイズ・ウィスタリア(へいず・うぃすたりあ)の声とともに、如月 正悟(きさらぎ・しょうご)が室内へ飛び込む。
「いまなのだ!」
 入り口付近で中の様子を見守っていたリリが、ついに動いた。
 リリからの合図に固い表情でこくんと頷いたイナンナが、リリの隣から姿を消す。まるでテレポートをしたように、次の瞬間にはもうイナンナは室内の奥に転がっていたイナンナの聖像を用いて顕現していた。
 これこそがリリの一か八かの作戦。勝利のために必要ならばたとえ女神であろうと手駒として使う、奇策である。
 だが次の刹那、彼女は自分の犯したミスに愕然となった。
 シュヴァルツとバァルの攻撃を受け、よろめき、フィールドを保てないほど弱っていたはずのモレクが、小瓶を奪取しようとしていたイナンナの腕をすばやく掴みとめていたのだ。
 そしてウルクの剣で斬りつけようとしていた正悟の前に彼女を盾として出し、ひるんだところを吹き飛ばす。
「うわあっっ!!」
 正悟はバァルを巻き込みつつ、床を転がった。
「そんな…!!」
 驚愕に、その場にいるだれもが目を瞠った。
 モレクの切り裂かれた胸の傷口から、シュウシュウと音を立てて煙のような闇が出ていた。その傷も、まるでヒールでも受けているかのように、みるみるうちにふさがっていく。それと同時に闇も薄れて消えていった。
 ――ただの魔女なんかじゃない。彼は、まさか――……
「来ると思っていたよ、イナンナ」
 モレクは楽しげにそう言うと、イナンナの腕を背中でねじり上げた。
 その声にも、ダメージを受けた様子などどこにもない。全てがうそ、欺瞞、芝居だったのだ。
「キミが昔のキミのままなら、きっとね。キミはあのときも、人間たちと一緒に僕の前に立ちふさがった」
「手を放しなさい! モレク!」
 敵の腕の中に捕らえられていながらも、イナンナは毅然とした態度を崩さない。強い眼光でもって威圧すべく、彼をにらみ据える。
 そんな彼女を見て、パッとモレクの顔が明るくほころんだ。
「僕を覚えていた? 覚えていたんだね、その目を見れば分かるよ。うれしいな。あれからもう何千年も経ったのに。
 ああ、そんな幼い姿をしていても、キミはあのころのままだ、イナンナ」
 まるで愛しい恋人にでもするように抱き寄せ、強引に髪に頬を寄せてくるモレクを、次の瞬間イナンナは強く平手で打った。
 パンッ! と小気味いい音が高く上がる。
「……汚らわしい…!」
 イナンナの見せる身震いするほどの激しい嫌悪にもモレクは笑んだまま、悠然と叩かれた頬に手をあてるのみだった。
「モレク! イナンナを放せ!」
「俺たちと堂々戦え! 女性を盾にとるなど卑怯な真似はするな!」
「おまえの相手は俺たちだろう!」
 必死に声を上げ、なんとかしてイナンナを解放させようとする彼らに、ようやくモレクの目が向いた。
 少しあきれたような……この状況に、すっかり飽きた目をしていた。
「斬らせてあげたじゃない。なのにまだ戦いたいって……ああそうか。キミたち、そんなにこれがほしいんだ。なら、いいや。もう十分楽しんだし。
 これ、あげるよ。もういらない」
 小瓶を握り締めていたイナンナの手首を強く握る。しびれたイナンナの手から、コロン、と解毒剤が床に落ち、バァルの足元まで転がった。
 あっさりと自分の敗北を認め、薬を渡した彼の姿に愕然となる。
「――まさか、きさま…」
「イナンナが目当てだったのか!?」
 彼女を呼び寄せるため、そのためだけにこんなことをしたというのか!?
「……さあ。どうかな?」
 衝撃のあまり言葉を失ってしまった彼らを謎めいた笑顔で肩越しに見やると、モレクはイナンナを抱き、破れたステンドグラスから坂上教会を離脱した。