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リアクション
●I Saw the Light / Can We Still Be Friends
夜月 鴉(やづき・からす)は夜空を眺めていた。
「天の河なんて初めて見るな……」
意識していなければ、これほどのものがすぐそばにあることを見落としてしまう。
まさしく光る河だった。小さなダイヤモンドの粒を、ざっと流したような輝き。
何千年何万年と、人類の頭上にあった星々。
おそらく天の河は、この地上から人間がいなくなってもその輝きを変えないだろう。
「……」
鴉は無意識のうちに手を伸ばして、天の河を掴もうとしていた。
「どうしたの?」
ユベール トゥーナ(ゆべーる・とぅーな)が問うた。心配している眼差しだ。
「私も、訊いていいですか?」
アグリ・アイフェス(あぐり・あいふぇす)が促すと、鴉はぽつりと言葉を口にしたのだった。
「昔の話だ……つまらない話かもしれない」
知りたいのか、本当に? と念を押すように言う。
「知りたいわ」
トゥーナが言い、アグリも頷いたので、仕方ない、と言った口調で鴉は語った。
唯一、白羽 凪(しろばね・なぎ)だけは話に加わろうとはしなかった。
薄暗い街だった。
薄暗い、という以上の表現が出てこない。
産業は廃れ、失業者に溢れ、犯罪は茶飯事、空はいつもどんよりと曇って、日の差すことなど滅多にない。あったとして、太陽の方がこの町を街を見ることを拒否するかのように、現れるやいな、鉛色した雲の間に逃げ込んでしまう――そんな街で、夜月鴉は育った。
彼は孤児だった。いつから孤児だったのかは覚えていない。
物心ついたときにはもう、鴉は犯罪に手を染めていた。彼が覚えている一番古い記憶は、老婆からひったくった鞄を抱え、裸足で油の浮いた水溜まりに飛び込み、汚れた水を跳ねさせていた自分である。
当然、夜月鴉という名前も本名では、ない。
そもそも本名など覚えていない。
彼はまるで鴉のように、闇に溶け込むことができた。暗闇に怖じず、目隠しをされたような状態でも、全力疾走することが出来た。月のない夜のほうが盗みが上手かった。そんなところからついた半分あだ名のような名前であった。
孤児の鴉にとって、生きるすべは犯罪しかなかった。
同じような境遇の子どもと数名、徒党を組んで窃盗、恐喝、詐欺、なんでもやった。
生きるために盗んだ。
人を、殺しさえした。
殺しに手を染めた日のことは忘れられない。今でも夢に見る。
いつものように雑貨屋で集団窃盗し、店から脱出する途中で、仲間がへまをやって警報機を鳴らした。
レジの金に手を出そうとしたのだ。
そういう部分には警報機が仕掛けられているから手を出すなと、鴉は常々その少女に言っていた。
警備員が来た。鴉を含む五人は盗んだ食料を捨て身軽になり、散り散りになって逃げた。
なんとか逃れ、再集合して顔ぶれを確認したとき、鴉は、例の少女が戻っていないことを知った。
少女は最近、入ったばかりの新入りだ。
しろうと同様の行動をとったのは、まだ彼女が、この世界に入って間もないせいもある。
仲間たちはやめろと言ったが、鴉は単身、少女を捜しに戻った。
随分探したが見つけることができず、引き返そうとしたとき、かすかな悲鳴を鴉は聞いた。
路地裏の行き止まりに、あの少女がいた。
三人の警備員に追いつめられていた。警棒で激しく殴られたのだろう。頭から出血し、腕の一本は折れているようであった。
警備員の一人が下卑た笑い声を発した。他の二人が、慣れた手つきで少女を、顔が下になるようにして煉瓦道に押しつけた。
次の瞬間には少女の服が引きちぎられ、夜目にも白い――まだ、街の汚れに染まっていない――裸身がさらされた。
男たちの一人が自分のベルトに手を伸ばしたとき、鴉は無我夢中で飛び出していた。
ベルトを外そうとしていた男は咄嗟の反応が取れない。その男の腰から警棒を奪い取ると、鴉はこれを振り上げた。
そいつの頭を叩き割った。よく熟れた果実を、叩き潰したときのような感触と音がした。
そこからの記憶が、やや曖昧だ。
我に返ると、鴉は三人目の口に逆にした警棒を突き込み、押し込んで窒息させようとしているところだった。
間もなくそいつは、窒息して事切れた。
振り返ると、男の死体はあと二つあった。
このとき、下着だけになった少女が、元は服だったボロ布をひっつかんで立ち上がった。
彼女は、叫んだ。激しく興奮した鴉の耳には、少女の金切り声ははっきりと届かなかった。
――ただ、彼女がこちらを指さし、その口が「ひ・と・ご・ろ・し」と動いていることだけはわかった。
鴉はその場から逃げた。
掃き溜めのようなどぶ川のそばまで逃れ息が切れ、両手を地面について座り込んだとき、彼は街を出ようと決めた。
そのとき鴉は、分厚い光化学スモッグに覆われた空、一番星ですらも見えるか見えないかの夜空を見上げ、うっすらとまたたく星に向かって手を伸ばしたのだった。
つい、さっきのように。
まるで他人事のように話す鴉の言葉を、トゥーナは黙って聞いた。
アグリは、途中からずっと下を向いていた。
凪はやはりなにも言わなかった。凪は鴉の昔話を知っているのだ。
なぜなら、凪は、鴉とともに育ったのだから。あの夜、窃盗に入った五人の中の一人だったのだから。
新入りを助ける、と言い残して現場に戻っていった鴉のことを、凪は止めることができなかった。
逡巡したが、結局、凪も鴉を探しに戻った。
凪が見つけたのは、両手を血で真っ赤に染め、川辺に呆然と立ち尽くし、ただ、空に手を伸ばしている鴉の姿だった。
この街から出て行く、と鴉は言った。
なら、ついて行く、と凪は言った。
あれは何年前のことだったろうか。夏だったことだけは覚えている。
「つまらない話だったろ?」
書かれたものを読んでいるだけのような口調で告げると、鴉は立ち去ろうとした。
どこかに行って独りになろうというのだろう――そのことは、トゥーナにはわかっていた。
いや、彼女だけではなく。アグリも、凪も、わかっていた。
しかし歩き始めた鴉の背を、トゥーナが抱きとめていた。
「嫌なことを話させてしまって……ごめん」
「なぜ謝る? 俺は、事実を話しただけだ。トゥーナに咎はない」
「あたしには鴉の過去を消し去ってあげることはできない……凪みたいに、共通体験として分かち合うこともできない……でも」
トゥーナは彼の背に、顔をうずめて言った。
「でも、いまの鴉を、元気づけることはできるわ。あなたには私たちがいる……あなたは一人じゃない、って」
鴉は、うなだれたように背を丸めた。
「戻ろう。戻って、四人で星を見よう」
「……そうする」
鴉はまるで子どものように、トゥーナに手を引かれて戻った。
トゥーナの手をアグリが、アグリの手を凪が、そして凪の手を、鴉が取った。
四人はこうして輪になった。
そして星空を見上げた。
鴉の目に、涙の後があるのにアグリは気づいた。
けれど彼女はそれを指摘せず、優しい眼差しを向けるのみだった。