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リアクション
●prologue
そいつは、父親ではなかった。
法律上はどうなのか知らない。だが、母親と一緒に住んでいるのが『父親』の条件だとすれば、それすら守られていないことになる。
なぜなら母親は、ほとんど家に帰ってこなかったから。
彼女はそいつを父親と認めてはいなかったが、そいつは親のつもりだったらしい。だから親の『権利』として、徹底的に彼女を虐待した。彼女はいつも理由もなく殴られ、蹴られ、髪をつかまれて引きずり回された。柱に顔面を打ち付けられ、頭から水に窒息寸前までつけられ、熱湯を浴びせかけられた。だから彼女はいつもアザだらけだった。彼女の腫れ上がった顔を見て目をそむける大人は多かったが、幸せな連中だなと彼女は思っていた。服を脱がせれば、もっと酷いことになっているということまで知らずに済んでいるのだから。
母親は外に男がいた。そのことを隠そうともしていなかった。母親が家に顔を見せるペースが、週に一度程度から月一度程度に変化するまでそれほど長い時間はかからず、やがてそれも、あるときを境にぷっつりと絶えてしまった。風の噂では、母親は外国に移り住んでしまったらしい。その地で大きなお屋敷の女主人になったとも、男に捨てられて惨めに死んだとも言われている。どちらかといえば、後者のほうが彼女の好みだ。
十一歳のときだった。その夜、安酒の匂いをぷんぷんさせながら、自称父親は彼女を床に押さえつけ、着ているものを乱暴に剥ぎ取った。そして脂臭い腕で、蛇のように彼女の肌をまさぐりはじめたのだった。いつもの仕置きとは違う――そう思った瞬間、彼女の心をこれまでにない種類の恐怖が支配した。ジーンズのポケットに忍ばせていた飛びだしナイフを使うときがとうとう来たのだと、彼女は知った。
「お父さん――」
少女のか細い声で、クランジΛ(ラムダ)は我に返った。思い出したくない過去、人間であった頃の醜い記憶を振り払うように言う。
「また言ったね。その言葉を」
ラムダは、サクラの花びらのような色をした髪を手で梳いた。外側にカールした髪がぴんと跳ねた。薄暗い室内でも、その髪にはつややかな光沢が宿っている。血と汗で汚れきったタニアの黒髪とは対称的だった。ラムダは座っていた机からするりと滑り降りると、顔を、キスできるほどの距離にタニアに寄せた。
「家族がいて羨ましいなー。タニアちゃん、いいこと教えてあげよっか?」硝子を爪で引っ掻くような声で、イヒヒヒとラムダは笑った。「それ、ボクが世界で一番嫌いな言葉なんだよ」
握り拳を作ると、塵殺寺院の機晶姫はタニアの鼻を正面から殴りつけた。ノーモーションの素人じみた殴り方ではあるものの、人間にとってはフルスイングしたバットを顔で受けるに等しい。
ぐしゃりと軟骨が砕ける触感が、ラムダの手に伝わってきた。
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