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リアクション
●I’m Fine
空をゆく白いものに向かって、神崎 紫苑(かんざき・しおん)は手を伸ばした。
なにか訴えようとしているのか、もう片方の手でぺたぺたと神崎 優(かんざき・ゆう)の胸元を叩いている。
「あれはな、鳩だ」
優は我が子にそう伝える。彼の目は限りなく優しい。
振り袖に着替えた神崎 零(かんざき・れい)に申し出て今日は、優がずっと紫苑を抱いていた。よく晴れたためかずっと紫苑はご機嫌で、気になるものがあるたび目をキラキラさせて「あれはなに?」とでも言いたげに父に顔を向けるのだった。
「紫苑は好奇心旺盛だね」
誰に似たのかしら、と零は笑った。巻き髪にして振り袖で歩く彼女は、結婚前と変わらず美しい。しかしどこか……とりわけ仕草や言葉に、母親然としてきたものが出てきたように優は思った。具体的にどうこういうのは難しいが、少なくとも、昨年の元旦とは確実に違う。
――俺も父親らしくなれただろうか。
優は己に問うてみる。自覚はないものの、それでも去年とは異なる自分のような気がした。
少なくとも、去年の自分は腕に、小さな重みを感じることはなかった。生命の重み……紫苑を。
本殿前の行列は短くなかったが、それでも紫苑は退屈せず、また、眠ることもなく、しきりと目を動かしていた。
賽銭箱の前まで来た。
「そうか……賽銭」
優は左腕に紫苑を預けつつ、慣れぬ仕草でコートのポケットの財布をさぐった。
「いいよ優、私が三人分出しておくから」
「すまん」
実は少々てこずっていたので、すこし安堵した優である。赤子を抱いていると、なにげない行動のひとつひとつに意外な制約がかかる。
「順番に入れるからね。これが優の分、次に紫苑、そして私」
チャリンチャリンと音を立てて、零が賽銭箱に硬貨を投げ込んだ。いずれも新品同様のきれいな硬貨だった。零は特になにも言わないが、事前に用意してあったものだろう。
「これを引っ張るんだ……わからないかな?」
優は本坪鈴(天井からさがっている綱で大型の鈴がとりつけられているもの。いわゆる『ガラガラ』)を手元にたぐりよせて紫苑に握らせようとする。父の意を汲んだか紫苑は、紅葉のような小さな手でつかもうとするも、さすがに握ることはできず綱の表面をなでるだけだ。
「紫苑にはまだ無理かもね。はい、こうやって……」
零がその手をとって、一緒にガラガラと鈴を鳴らした。
その音に驚いたか紫苑は目を丸くしたが、すぐにキャッキャと楽しげな声を出した。
「楽しいみたいね」
「いいことだ」
優は本殿に手を合わせた。
祈ろう。
家族や、いままで絆を結んできた人たちの幸せを。
本殿から離れると零は両手を伸ばした。
「そろそろ替わるよ、紫苑の抱っこ」
「いいのか?」
「もちろん」
「正直いうと助かった。腕が痺れてきて……いや、重いわけじゃないんだが、どうも緊張してしまうと言うか意識しすぎるせいか、変に力が入って強張ってしまって」
父親業というのもなかなか大変だ。
「はい紫苑、お母さんのところに来ようね」
呼びかけながら零は受け取ろうとするも、紫苑は弱い力ながら両腕で優にしがみついた。そればかりか、イヤイヤと首を振るような仕草をしたではないか。
「おっと。これは仕方ないな」
優はふっと笑んでいた。いまので腕の痺れが消えたように思う。
「今日の紫苑は甘えんぼさんだね」
くすくすと笑うと、零は愛娘の頬を人差し指でつついた。
「じゃあ私も甘えちゃお♪」
そしてするりと、彼女は優の腕に自分の腕を絡め寄り添ったのである。
あまり零はこういう甘え方をしてこない。このときも、照れくさいのかいくらか赤面していた。
「参ったな」
と口調ばかりは困った風を装って、優はそのまま歩き出した。
「いい天気だ。しばらく境内を散歩しよう」
紫苑は小さな声で「ぁー」と言った。「賛成」と言ったようにも聞こえる。
「両手に花で優は幸せ者だね」
「からかうなよ」
でも、と彼は言った。
「その通りだな」
――これは帰ったら大変だな。
なんとなく、そんなことまで考えてしまう。
高月 玄秀(たかつき・げんしゅう)は青い空を仰いだ。天気は上々、風もなく参詣日和だろう。
だが、どうにも釈然としないものがあった。
「空京神社ねえ……なんで自前の神社があるのに他所の神社に来なければならないのか。僕にはさっぱりだ」
思わず、ぼやく。
彼には、ニルヴァーナのアラディーヤに阿羅耶神社という拠点があるのだ。無理もないだろう。
「いいじゃない。たまにはこういうのも、ね」
ティアン・メイ(てぃあん・めい)は言いつつ、実に久々となる空京神社を見渡した。
久々というのであればそもそも、この地自体が久々だ。
「空京に来るのも久しぶりね……以前来たのはもう三年くらい前だったかしら」
同意するでもなくしないでもなく、玄秀は軽く首をすくめた。それから、前から近づいてきた親子連れに道を譲る。あちらはこちらに気がついていないだろう。なぜって、二人は揃ってニルヴァーナマントで気配を消しているのだから。
――慣れたとはいえこういうとき辛いな、お尋ね者というのは。
色々あって放校処分、悪い意味で名の知れた二人である。といっても、依頼もないのに破壊活動やら要人襲撃をしたりはしない。ただ、元旦の夜にティアンがねだって、こうして出てきただけのことだ。
「隅で見物でもするとするか。本殿まで参詣する必要もないだろう」
歩き出した玄秀だが、ティアンがついてこないことに気がつき、どうしたと声をかけた。
「別に。ちょっとぼんやりしてただけ」
書かれたものを棒読みしているような口調で応じると、ティアンは玉砂利を避けながら彼につづく。
自分で言った『三年くらい前』という言葉が、彼女にある種の感慨を生じさせていた。
数日つけて放置した日記帳を、何年かぶりに見つけてような気持ちだ。
三年ほど昔……まだティアンが理想と正義感に燃えていて、騎士になるのを目指していた頃。彼女は地球に帰る玄秀について空京にきたことがあった。
――あの頃は無邪気に自分の未来を信じていたし、玄秀は可愛い弟のような存在だと思っていた。
懐かしくないといえば嘘になる。「あの日に帰りたいか」と訊かれたら、気分によっては「ええ」と答えるかもしれない。
だがすべては過去の話だ。
現在を否定することはできない。すべきではない。したくもない。
――あの頃の私と、今の私は違う。
紆余曲折の後、ティアンは決意したのだ。玄秀だけを信じ、玄秀のためだけに生きようと。
運命に強いられたものではない。
――自分で選んだの。私は、この人生を。
依頼とはいえ悪事にも手を染める自分に、痛む良心を隠し切れないこともある。ときおりすべてを投げ捨てて彼に愛してもらわないと自分を保てない……そんな弱さを、すでにティアンは己の中に認めていた。
後悔は、ない。テロリスト、犯罪者、冷血無比……どんな汚名でも甘んじて受けよう。
――玄秀、あなたのそばにいられるのなら。
「どうかしたか」
ティアンの心に生じた波を、すでに玄秀は読み取っている。それくらい、彼は彼女のことは熟知していた。ティアンのことならばなんだってわかっているつもりだ。その心も、躰も、秘しおきたいところまですべて。効率よく利用するには『手駒』のことは知りつくしておく必要がある――そんな風に考えていたから。
しかし、ティアンが自覚しているように、玄秀もまた、変化した自己を自覚していた。
世間的な『情が移った』という言い方は当てはまらないかもしれない。それでも、かつてただの手駒とみなし、籠絡するためだけに純潔を奪った彼女のことを、現在の玄秀は大切な存在と認識している。あえてそれを口に出したり、態度で示すことはないのだけれど。
「……不安なの」
玄秀はこたえず、ただ目でティアンに先を促した。
彼女の言葉は震えていた。初めて彼が、彼女を抱いたとき以上に。
「ねえ、いつまでこんなことを……。怖いのよ。いつかあなたがいなくなってしまうんじゃないかって。
もう私には、あなた以外なにもないのに……」
「……言いたいことはわかる。だが、裏の世界に身を置いていないと討てない相手もいる。僕は奴を倒したいんだ」
玄秀はできるだけ、冷淡に聞こえないよう気をつけて話した。
だが自分でも、その試みは巧くいっていないと分かっていた。
「だから、なにも保証はできないな。今までもそうだった。これからも同じだ。ただ……」
玄秀は両腕を拡げた。
「僕はずっと、ティアのそばにいる」
無言でティアンはそこに飛び込んだ。強く、玄秀の背を抱きしめる。しがみつくように。
彼女の肩を覆う彼の腕は優しい。力が入っていない、という言い方もできるかもしれないが。
――これで不安がいくらかでも、拭えればいいのだが。
大切な存在だ。離すまい――とは考える。しかし同時に、愛しているのではないとも思う。そもそも、恋情というものが玄秀にはどうしても理解できなかった。
――こんなことすら計算ずくなのか。度し難いな……僕は……。
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