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誰がために百合は咲く 前編

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誰がために百合は咲く 前編

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 桟橋からほど近い海面に、一匹のイルカが鼻先を突き出してぷかぷか浮いていた。
 さっきからずっと、周囲をぐるぐると回っては止まり、回っては止まりして、船の様子を伺っているようだった。そこにはいわゆる野生のイルカとは違う挙動──人間的な思考が強く読み取れる。
「確か……こうだったっけ?」
 “レビテート”と“空飛ぶ魔法↑↑”で海面を滑るように渡ってきた桐生 円(きりゅう・まどか)は、そのイルカが見える場所まで近づくと、両手を合わせて頭の上に突き上げ、傍らのパートナーオリヴィア・レベンクロン(おりう゛ぃあ・れべんくろん)を振り返った。
 円は、あらかじめイルカ獣人の部族について調べてきたオリヴィエに、イルカ風の挨拶をレクチャーしてもらっていたのだ。
 挨拶だけではなく、最近の出来事や問題点についても調査・商工会議所のチェック済みである。
「イルカじゃないから、キューキュー鳴けないけどねぇ〜」
「これでやるしかないね。さすがに音波は出せないよ」
「付き合いいいのねぇ」
「歩ちゃんは友達だからね。ベストを尽くせるようにお手伝いしたいんだ」
 円とオリヴィエはイルカに向かっていくと、先程の挨拶をしてみせた。頭の上に手を突き上げ、横に振って、水をかくように両手を開いて胸の前に戻す。
(やぁ、キミがヤーナさんを追いかけてきた子?)
 その一匹のイルカは、円の“テレパシー”に、ぴたりと動きを止めて、顔を見上げた。
(ボクは桐生円、キミの名前は?)
「私はオリヴィアよ」
 それぞれの挨拶に、イルカは身を震わせた──かと思うと、輪郭が解けるように人の姿を取り始めた。精悍な体つきの──裸の上半身が現れる。獣人だ。
「ヤーナを知っているのか?」
 二十歳前と言ったところだろうか。紺色の髪に浅黒い肌の青年は、
「まぁね。ボクたちは例のお茶会のスタッフってところかな。ヤーナさんたちのことをちょっと小耳にはさんで、気になって探しに来たって訳」
「ヤーナはまだ船の中なのか?」
「うん。友達が今ヤーナさんと話してるとこ。なんか色々大変みたいだね」
「そうか……ああ、悪い。俺の名はカイ」
「カイくんだね、よろしく。ああ、これお茶菓子持ってきたんだ。食べる? どうせならもうちょっと落ち着けるとこに行こうよ」
 円は片手に持った、ワックス紙の袋を振ってみせる。
 こうして三人は桟橋の先に座って、お茶会の会場から失敬したクッキーを一緒に食べることになった。
 円とカイは互いに事情を説明し合った。概ねヤーナの話と食い違うところはないが、ひとつ付け加えるなら、彼の父もまたヤーナとの交際を反対しているということだろう。オリヴィアがお姉さんぶる。
「部族がばらばらになると、ヤーナさんにも離れ離れになるし、厄介よねぇ、お姉さんたちが手を考えてみましょう」
「──ねぇもし、今まで住んでた場所で魚が取れるとしたらどうする?」
「ん? そんなことできるのか?」
「方法としては、此方の漁法か地球の漁法を教える事も出来ると思う」
「漁法を重視してるなら。伝統漁業として、行事として残すとか駄目なのかしら? 一定時期に内海のその適した場所にきて、その漁法を行事として文化を保存するのよ」
「ヴァイシャリーや地球の漁法……か」
「ま、現地を調査しないと、何が適しているのか解らないけどね。なんで潮の満ち引きが変わったのかも調査出来るだろうし」
 もし魚が採れるだけで解決するならそれが楽かもね、と円は言った。満ち引きについては、単なる気象異常だったりしたら、別の対策が必要だろうけど。
「キミのお父さん達が譲れないって言ってる所は何処かな? 教えてくれるなら、ボクも協力しやすいと思うんだけど」
「それは……このままだと島が消滅する可能性があることだ。……ヤーナに会わせてくれないか」
 円はオリヴィアに視線を向けるが、彼女は軽く頷いただけだった。オリヴィアはカイの言葉に何の違和感も感じない──“嘘感知”に何の反応もなかった。
「うん、いいよ。それじゃ、やってみようか」
 円は“テレパシー”を歩に送った。



 その頃、イルミンスールから訪れた薔薇十字社探偵局の面々は、桟橋にいた。
 百合を守るのは黒薔薇の魔導師リリ・スノーウォーカー(りり・すのーうぉーかー)と気高き白薔薇の騎士ララ・サーズデイ(らら・さーずでい)、そして黄薔薇の花妖精ユノ・フェティダ(ゆの・ふぇてぃだ)だった。
 その日の朝三人(主にユノが他二人を紹介するかたち)でラズィーヤに挨拶をした後からずっと、船に続くタラップ周辺を警備していた。それぞれ腕章を付けている。
 探偵局が暇なので、アルバイトに来たのだ。
「あ〜っ! ララちゃん、この荷物サインしちゃったの?」
 ユノが、どこかの商店から運ばれてきた木箱を前に、声をあげる。
「ああ、したよ」
「バカバカ、船に運ばせてからサインしなきゃダメじゃない。しょうがないなあ、この荷物はララちゃんが運んでね」
 ユノに言われ、ララは面食らったような顔をした。
「え、私がか?」
「そうよ。この荷物が無くなったら、疑われるのはサインしたララちゃんなんだから」
「ちぇっ……」
 ララはその重い荷物を何とか持ち上げると、船の中へと運んで行った。中身はお茶会の後に配られる、スタッフ用のお土産が入っているはずだ。
 その時、ララと入れ違いにヤーナと百合園の生徒たち、それにフェルナンがタラップを降りてきた。
 リリは顔ぶれに違和感を抱きつつ見送るが、その背中にユノがひっついた。
「事件よ!」
「事件? ただの散歩だと思うのだよ」
「お客さんが、お茶会中なのにわざわざ船を降りたのよ! 絶対何かあるわ!」
 言うや否や、ユノはこっそりと彼女たちの後を追跡し始める。どうすべきか一瞬迷ってから、周囲には海軍が数人見張っているのを確認し、リリはユノを抑える役に回ることに決めた。
「一人で持ち場を離れてはいけないのだよ……うん?」
 後を追っていくと、ヤーナの向かう先、リリとユノの視線の先に、百合園の生徒二人が見慣れぬ男性と共に現れた。
「あれは、船に入り込もうとして追い出されたとかいう獣人ではないか?」



「円ちゃーん!」
 顔がよく見えるようになった距離で、歩が手を振ると、円も手を振り返した。
「来たね。彼女がヤーナさんか……な、って」
 円の言葉が終わる前に、カイハ彼女の横から消えて、ヤーナの前に息を切らせて立っていた。
「ヤーナ!」
「……カイさん、ごめんなさい。父が失礼をして……」
「いいんだ、解ってる。それよりも──ああ、皆さん、ヤーナを連れてきてくれてありがとう」
「ありがとうございます」
 二人視線を交わしあってから、並んで、生徒達に頭を下げる。
「じゃあ、詳しい事情を話してもらおうかな。……最後は族長の裁定が必要だろうけど、ね」
 円に促され、カイは追いかけてきた事情を語り始めた。とはいっても、それはごくごく端的で。一言さえあれば十分だった。
「俺の親父が、本島に残ったみんなも説得しようとしてる。数日中には話をまとめて、移住の話を“原色の海”に持って行くつもりだ」
「そんな……!」
「どういうことなの?」
 問う歩に、ヤーナは青くなって説明した。
「“原色の海”には三つの部族が住んでいます。戦争は起こらないけれど、互いに多少牽制し合っている、そんな関係が続いています。そのうち、青の旗を掲げる部族と、私たちは古くからの取引がありました。海底に棲む、私たちに近い種族です。そこに保護を求めたんだと……」
 保護を求めた、それ自体は問題ではない。だが住むところを追われ、部族がばらばらのままでものごとが進むのは好ましくなかった。
「万一でも人間に支配されるくらいなら、海を移動してでも移るって言い張ってるんだ。族長が帰ってから話すのが筋だろうって言ったんだが、親父も頑固だから、俺の話なんか聞いてない」
「もしそうなったら……もう、会えなく……?」
 ヤーナは顔を手で覆った。カイは安心させるように、ヤーナの頭をなでるが、その表情は僅かに暗かった。
「大丈夫だ、急に決まるわけじゃない」
 これからどうすべきか。一同が考え込んでいると──その耳に、かすかに歌声が届いた。
 聴覚の鋭敏なイルカであるヤーナとカイが、共にお茶会の会場である商船を見上げた。つられて、生徒達もその先を見る。

 ──メインマストの上に、数人の人影があった。
 その先端に立った少女牛皮消 アルコリア(いけま・あるこりあ)は、海風に長い黒髪を靡かせている。
 髪を邪魔そうにかきあげ、眩しそうに目を細めた。
(んぅ、良い天気。日差しは少し強いですが、夏故に致し方なし、ですね)
 そして一度、視線を下方に向ける。パートナー達もそれぞれマストに腰掛け、木で休む小鳥のようだった。シーマ・スプレイグ(しーま・すぷれいぐ)だけは白百合団員の警備員として、ローブと暗器で周囲への警戒を続けている。
(……ふふ、皆さんきっと、皆それぞれの思惑、願い、望み、目的があってこの場に居るんでしょうね。
  自らの願いで、人を否定しない事を選んだ人はどうすればいいのでしょう? 人が人を傷つけるのは、望みが、目的が、理由があるからです。
 一つは、誰かを否定したくないという望み自体を愚かとし、人を否定して生きていく道。一つは、自らの望みを消し去り望みを持たぬことで、自らの望みで人を否定しない道)
 手で作った陰の下で、視線を水平線の彼方へ向けた。
(誰も間違ってなど居ないんですから)
「刃を振るう時も、誰かを殺めた時も、大切な人を抱きしめたときも、ただ一つ変わらなかったその気持ちで……歌いましょうか」
(【幸せの歌】を、私の持てる技量で、ナコちゃんとラズンちゃんと。水平線の彼方まで、蒼空の向うまで、届かせる積りで歌いましょう。 きっと私は気にしすぎて、雁字搦めになって動けなくなってしまったから、踏み潰した蟻の事など知らぬとはき捨てれば進めるだろうけど。できないから、今日は皆の為に歌いますね)
 アルコリアは、息を吸い込むと、歌を風に乗せた。
 同時に、彼女より下方で、ナコト・オールドワン(なこと・おーるどわん)が竪琴の旋律を奏で始めた。
(マイロード・アルコリア様が仰るなら、演奏は喜んでいたしますわ。わたくしにとって、マイロードこそ善、マイロードこそ神、マイロードこそ正しさ。 故に、マイロードの判断であれば、それに従いますわ。例えそれが闘争でなくとも)
 ラズン・カプリッチオ(らずん・かぷりっちお)のメロディーが後を追いかける。
 三人の奏でる音楽が、商船の甲板の上へ、桟橋へ、波間へと漂っていった。


少女は 永遠の幸せの中で嘆き続けている
自分を包む世界は 優しくて 暖かいのに
幸せでない世界を 夢見て  涙している

救われない者がいるから 自分も救われてはいけない
望み叶わぬ者がいるから 自分も望んではいけない

望む力は 前へ進む力
前へ進む事は 地を踏みしめる力


 ラズンは歌いながら、考える。
 一歩二歩と歩いて、踏み潰してしまった相手を、小さな虫と言った者は 悪人なのに、小さくて気付かなかった人は 多くの物語で主人公と呼ばれている。
 進むということは、何かを踏みつけること。それは正しいことかどうか、それが見たい。それを知りたい。
 ここにいる理由があるなら……きっと、そういうこと。