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リアクション
「うーん……」
かつてのローマ教皇と、伝説の芸術家の解説に聞き飽きた茉莉は、少し離れたところでダミアンとともに芸術作品を見ていた。
「ぜんぜん絵なんぞ見ていないであろう」
ダミアンが、茉莉の横顔を見て、指摘した。
「ん……ちょっとね……」
茉莉は、そんなダミアンの顔すら見ない。深刻なことを考えているようだ。
「……先ほどからずっと、その作品を見てらっしゃいますが、お気に召したのですかな」
そんな茉莉たちに、声をかける者がいた。
まるで魔法使いのようなフードをかぶっているが、覗き込むとやさしそうな老人が微笑んでいた。
ここに、このような姿でいるということは、洗礼を受けたカトリック教徒なのだろうと茉莉は理解した。
「ああ。これを見ていたんじゃなくて、考え事をしてて」
どこまでも正直な茉莉である。ダミアンに対して言ったことと同じことを答えた。
「あなたの瞳から、迷いを感じます。それは単なる日常の迷いではない、大きな問題ですね」
老人は、そう断言した。
茉莉は、あまりにも正確に自分の心を言い当てられたものだから警戒したが、老人の表情にやわらかい悲しみが浮かんでいるのを見て、直感的に「このおじいさんは信じられる」と思った。
「あたしは、戦争しなくちゃいけないの」
茉莉自身、どうしてその老人に、この話を始めたのかは分からない。
「戦闘で仲間が死んだり、あるいは敵を殺したりしなくちゃならない」
老人の瞳はまっすぐに茉莉を見つめている。
話を続けなさい、という意味だろう。
ダミアンは、自分が口を挟むところではないと理解しているようで、ひとことも発しない。
「それが……正しいのかどうか、正直分からなくなっちゃった。何か心のよりどころがほしくって、それでバチカンに来てみたの」
「どうして、心のよりどころがほしいと思ったときに、ここバチカンに来ることにしたのですか。寺院や教会は、他にもあるでしょう」
「惹きつけられた、としか言いようがないわ」
それを聞くと老人は、ふっと微笑んでうなずいた。
その微笑みは、茉莉がこれまでに見たどんな微笑みよりもあたたかく、優しかった。
「それでは、洗礼を受けられるがよろしい」
「……洗礼?」
「主は、あなたが望む安らぎを与えてくださいます。そして主は、あなたを拒みません」
茉莉の心は、その言葉によって既に癒されているような気がした。
じんわりとあたたかい何かが、胸からわき上がる。
「……洗礼を受ける」
茉莉は決意した。
「では、わたくしがここで略式洗礼をして差し上げます」
茉莉は、このおじいさんはそんなにエライのだろうかと思いつつ、この決心が揺らぐのがいやだったので、その言葉に甘えることにした。
「それは、我も受けてもよいものであろうか」
ようやく、ダミアンが声を発した。
「え? いいの?」
まさかダミアンまでもが洗礼を望むとは思わず、茉莉は驚いた。
「ふ。別にアンチキリストというわけでもないのだよ」
ダミアンは、茉莉の心配を笑い飛ばした。
「では、お二人で」
茉莉とダミアンがうなずくと、老人は胸から聖水の瓶を取り出した。
「洗礼名は……まずはあなた」
老人は、茉莉の顔をじっと見た。
「ああ、あなたのお顔を見ていたら、主のお告げがあった気がします。洗礼名は、ベルナデッタでいかがでしょうか」
ベルナデッタ。その名前は、茉莉の心に共鳴した。
「人のために尽くした女性の名です。あなたの迷いを断ち切ることに力を貸してくれるでしょう」
茉莉はうなずいた、
「そして、あなた」
次いでダミアンの顔を見つめた。
「……ふふ。あなたが洗礼を受けるというのですか」
別にダミアンが自ら「悪魔である」と名乗ったわけではないのだが、老人は見破ったのだろうか。
「駄目であろうか」
ダミアンが確認する。
「いいえ。こちらの正しき道に戻ろうとする者を、拒みはしません」
改めて老人はダミアンを見つめる。
「あなたの洗礼名は……アウグスティヌス」
よい響きだ、とダミアンは感じた。
「アウグスティヌスは異教徒を父に持ち、自身も異教から回心したのです。あなたにふさわしい名だと思います」
ダミアンも茉莉も、とても反対する気持ちになれなかった。
すんなりと納得できてしまうくらいふさわしい名だと思ったのだ。
そして、儀式は始まった。
しばらく戻ってこない茉莉たちを心配して、レオナルドはミヒャエルたちにも協力してもらい、美術館を探し回っていた。
やがて、茉莉とダミアンが並んで歩いてくるのを見つけた。
その後ろから、フードをかぶった老人もついてくる。
ようやく、バチカン班は再集合できたのだった。
「あまり心配させないでほしい。何をしていたのだ?」
レオナルドの問いに、茉莉とダミアンは晴れ晴れとした顔で、声を揃えて答えた。
「カトリックの洗礼を受けていた」
「……は?」
フリーズするレオナルド。
「えーと、ベルナデッタです」
「アウグスティヌスです」
さっそく洗礼名を、わざとらしく丁寧に名乗る二人。
「それは素晴らしいっ!」
両手を広げて歓迎するのはやっぱりロドリーゴである。
「はい、聖下はちょっと静かにしてようねぇ」
イルが空気を読んで、ロドリーゴの口をふさいだ。
「洗礼……を、う、受けちゃったのであるか?」
「うん」
「いや、だって魔女と悪魔が……」
「受け入れてもらったし」
ぽかーん。もはやレオナルドに、反応する気力は残っていなかった。
「では、わたくしはこれで失礼します」
茉莉たちに洗礼を与えた老人は、観光客たちに丁寧に頭を下げた。
「あの、ありがとう」
茉莉が礼を言うと、老人はにっこり笑って首を横に振った。礼はいらない、という意味なのだろう。
「皆さんに祝福がありますように」
そう言って、反対方向に歩き始めた老人は、ふと足を止めて振り返った。
「うちのマヌエルが迷惑をかけていて、すみませんね」
それだけ言い残すと、老人は立ち去った。
「えっ……!」
老人の口から、意外な人物名が飛び出し、全員固まってしまった。
ただ一人を除いて。
「もごもご、もごっ!」
イルに口をふさがれたままのロドリーゴが、何か言いたそうにもがいている。
そこで仕方なく、イルはようやく手を離した。
「ぜえぜえ……あ、あの者は行ってしまったか」
既に老人の姿はなかった。
「あれが誰だか知ってるの?」
茉莉はロドリーゴに尋ねた。そういえばこの人、ここの関係者だったっけと今さら思い出したのである。
「あれは、我が後継者。当代の神の代理人」
「それってつまり……」
「現ローマ教皇!」
全員は、ただ老人が立ち去った方向をじっと見つめていた。
いつまでも。
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