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リアクション
『追跡・1』
「今日ばかりは、最初にはっきり言っておくぞ」
ひんやりとした壁に背を預け、軽く目を閉じながら、リア・ヴェリー(りあ・べりー)が強い口調で言った。
リアが背を預けた壁の向こうからは、宿泊客たちがパーティに興じる、楽しげな声が響いてきている。
リアは閉じていた目をゆっくりと開き、一度、真っ赤な夕日に目を細めてから、傍らの明智 珠輝(あけち・たまき)を見た。
「僕は今日、何としてでも『片思いのブラッドルビー』を借り受ける。たとえ、多少強引な方法になっても、だ」
「ほほう、なるほど?」
珠輝は楽しげに微笑んで、パーティ会場から拝借してきたシャンメリーのグラスを一つ、リアに手渡した。
「遅れたら張り倒すし、邪魔したら張り倒すし、協力しなくても張り倒す」
「ほほう? それはまた、なんと……――魅力的な」
珠輝の言葉を無視して、リアはシャンメリーを一息にあおった。
「んっ……さて、作戦通りやるぞ珠輝。限界まで獣化しろ、四つん這いになれ」
「おお……」
ぞくぞく、と珠輝は頬を赤らめて、肩を震わせた。
「なんだよ」
「いえいえ。ただ、今回のリアさんは何だかSっ気が強くていらっしゃる。とっても素敵ですよ」
「まったく褒められている気がしないな」
「はて、それはおかしいですね」
いたずらっぽく首をかしげた珠輝の頭に、ぴょこんと、純白の三角耳が突き出した。
顔の輪郭を縁取る艶やかな黒髪から、だんだんと色が抜けていく。動向が縦に裂いたように鋭くなり、肌の露出した部分がビロードのように輝く、白い産毛に覆われていく。
背中が、人間にはありえないほど猫背になってきたところで、珠輝はもはや前足に変わった両手を、床についた。
「ふむ。やっぱり元が人間じゃ、藤咲さんのようにはいかないな」
獣化しきった珠輝は、四足歩行に適したそのしなやかなシルエットこそ獣のようだったが、肌はごく短い毛に覆われているだけだし、顔の輪郭も人間の状態とたいして変わってはいなかった。身にまとっていた衣服も、骨格が多少変化したことできつくなったりゆるくなったりした部分ができたものの、きちんと破けもせずに着られている。
「まあ、嗅覚と速度がきちんと強化されてれば問題ないか。珠輝、しばらくその状態で頼む」
「ええ、もちろんですリアさん。今の私のことは、ぜひイヌとお呼びください」
「どう見ても猫科だろうが」
珠輝は、白虎というよりは猫っぽい動きで、ぶるぶると身震いした。
「うーん、しかしなんですね。この状態だと、少しばかり衣服が邪魔ですね」
「別に脱ぎたきゃ脱いでもいいぞ。ただし脱いだまま獣化を解いたら、そのまま寒空に放り出してやるけどな」
「なんとリアさん。どこでそんな高度なプレイを覚えたんですか?」
「プレイゆーな! 教育的指導だ!」
リアが、珠輝の三角耳をぎゅっと掴んで引っ張った、その時だった。
かたんっ、と乾いた音がして、今まで誰もいなかった二階の廊下に、小さな人影が現れた。
純白の着物に、真紅の帯をしめた後姿。獣化した珠輝の髪に負けないくらい、まっ白な長髪が、夕日を受けて微かに赤く輝いていた。
「……あいつだ」
着物の女性が左手の小指につけている、血色のルビーをはめ込んだリングを、リアは睨むように見据えた。
女性……ミラは、白髪をさらりとなびかせて振り向くと、ルビーに負けない血色の瞳でリアを見た。
「気づかれたな。背中に乗せろ珠輝、全速力だ」
「なんと、リアさんから「乗せろ」なんて言っていただける日が来るなんて」
「ごたくはいいからとっとと走れ、こンのピンク脳――ッ!!」
リアが声を張り上げたのと同時に、ミラが視線を前に戻して歩き始めた。
珠輝が四足にぐっと力をこめて、矢のように駆けだした。リアはあわててその首根っこにしがみつく。
獲物を狙う肉食獣そのものの俊足で、珠輝が瞬時にミラの背中に肉薄する。
リアが、ミラの背中に向かって目一杯に手を伸ばして、
珠輝の足が止まった。前足が、床板を踏みぬいたのだ。
「ああ。そこの隠し通路、閉めるのを忘れていました」
急に前足をとられたせいで、珠輝の後ろ脚が跳ねあがる。
「うっ……わっ!?」
リアは珠輝の背から放り出され、ミラの頭上を飛び越える、
「ああ。ピンクの髪のあなた。ガラスに気をつけてくださいましね」
「――え?」
リアの目の前に、花束を生けた繊細な花瓶が迫っていた。
※
――がしゃんっ。
とガラスの割れる音に、リカイン・フェルマータ(りかいん・ふぇるまーた)は首をすくめた。
「あっちゃー……痛そう」
「我らとて、下手に手を出せばただでは済まなそうだな」
キュー・ディスティン(きゅー・でぃすてぃん)の唸るような声に、リカインは神妙に頷いた。
「うん。慎重に行きましょう。幸い、向こうは服装的に走って逃げることはできないから、じっくり追いつめられるわ」
ぴょこん、と頭から黒くて丸っこいアライグマの耳を生やしながら、リカインは言った。
「キュー、華花、アシッドミスト用意。空気の流れを視覚化して、周囲の罠や隠し扉を探るわよ」
「了解、だぞ」
リカインの傍らで、童子 華花(どうじ・はな)がいたずらをたくらむ子供のようににやりと笑った。
――と。
「いたぞ! あそこだ!」
吠えるような声と共に、燕尾服やメイド服に身を包んだ月楼館のスタッフたちが足音も荒く駆けてきた。
あっという間に廊下を埋め尽くしたスタッフたちが、リカインの視界からミラの背中を覆い隠す。
「……ッ!」
舌打ちしたリカインの隣で、キューがため息を吐いた。
「ひとまず仕切り直しだな、これは」
※
集結したスタッフたちに退路をふさがれてなお、ミラは動じることなくぽてぽて廊下を進んでいく。
「これだけの人数に追われて顔色一つ変えないとは、なかなかの自信でありますな」
大洞 剛太郎(おおほら・ごうたろう)が丸太のような腕を組んで、ミラの後姿を見据えて言った。
ミラは顔色を変えないどころか、その童女のように頼りない歩調すらまるで変えないまま、あろうことか微かな声で歌まで歌い始めた。砂漠を行くラクダよりずっとのんびりした歩みで、ミラは終わりの見えている廊下を進んでいく。
「自信と言うか、余裕と言うか、気にも留められていないようですが……」
コーディリア・ブラウン(こーでぃりあ・ぶらうん)が、剛太郎の大きな背中に隠れながら、ぽつぽつと言った。
「油断するなよ君たち。俺たちはこいつの恐ろしさを、嫌というほど思い知ってるんだ」
燕尾服を着たスタッフの一人にそう言われ、剛太郎は胡散臭そうに目を細めた。
「全員、油断するな! 怪我くらいさせる気で飛びかかれ!」
燕尾服のスタッフの号令の下、三十人を超えるスタッフたちが、ミラの華奢な背中に向かって突進した。
「おい、いくらなんでもそんな遠慮なしじゃ、怪我を――……」
剛太郎の慌てたような制止の声が終わる前に、メイド服姿の女性スタッフが背後からミラへと飛びかかった。
「もらったわっ!」
「――ふあ」
ミラが、不意にあくびをした。
ぽてぽてとのんびり、しかし確実に動いていた足が急に止まり、そのかかとが、女性スタッフのスカートを見事に踏みつけた。
「――えっ!?」
ミラに飛びかかった女性スタッフは、踏まれたスカートに引き戻されるように、ぺたんと地面に尻もちをつく。
「――……夕方では、まだ眠うございますね」
ミラに突撃を仕掛けようとしていた三人のスタッフが、突然尻もちをついた女性スタッフに躓いてもつれるように倒れ、一本道の廊下をふさぐ。
それ以後は、もうドミノ倒しの如く、三十人のスタッフたちはだれ一人としてミラに触れられないまま、団子になって倒れ伏した。
「偶然、でありますか……?」
もつれ合って倒れたスタッフたちを、一歩引いた位置で眺めながら、剛太郎がひきつった声で言った。
「偶然にしては……戦果をあげ過ぎている気がします……」
ぽつぽつと言うコーディリアに、剛太郎は真っ黒い角刈りの頭をガシガシとかいて見せた。
「しかしわざとやったとなれば、背中に目がついているとしか考えられんであります……よし」
剛太郎は大きく息を吐き、鋭く吸って、ぐっと身をかがめた。
「ここは、自分で身をもって試すのが一番でありますな」
「……剛太郎さま。お気をつけて」
心配そうに見上げるコーディリアに頷いて、剛太郎はミラの少女にしか見えない背中を見据えた。
「これでも戦闘職種。そこいらの一般人と一緒にされては、困るであります!」
掛け声と共に、剛太郎は飛び出した。巨大な弾丸のように突進した剛太郎の視界から、ふっと、突然ミラの姿が消えうせた。
「なんっ……!?」
剛太郎は突進の速度を必死に殺しながら、素早く視線を周囲に巡らせた。
「ああ、わたくしがスカートを踏みつけてしまったのですね……お怪我はありませんか?」
のんびりした声は、剛太郎の足元から聞こえた。ミラが、最初に倒れた女性スタッフの傍らにしゃがみこんでいたのだった。
相手に突然しゃがまれると、まるで目の前から消えたように錯覚する。身長差があればなおさらだ。
剛太郎は、ぐっと足を踏ん張って突進の速度を殺しにかかった。
――が。
「なにっ……!?」
まるで狙いすましたように剛太郎の足元にしゃがみこんでいたミラに躓いて、大きな身体がまるで重力を無視したように一回転して、すっ転ぶ。
「ぐあっ!」
背中から廊下に落ち、意識を失った剛太郎を、ミラはゆっくりと振り返る。
「あら、大丈夫でございますか? 足元には、お気をつけくださいましね」
ミラは立ち上がりながら、剛太郎にむかって柔らかく微笑んだ。
呆然と見据えるコーディリアに、ミラは軽く会釈をして、手近な壁に手をついた。
何の変哲もない壁が、ミラの細い指が軽く押しただけでくるりと回転して、魔法のように道を開けた。ミラは、回転ドアの先に広がる暗闇へと、事もなげに足を踏み入れてゆく。
ぱたんっ、と回転ドアが壁に戻った、その乾いた音で、コーディリアはびくっと肩を跳ねさせた。
「いまのは、一体……あっ、剛太郎様! 大丈夫ですか!?」
ミラが去り、静まりかえった廊下で、悲鳴のようなコーディリアの言葉が、ひときわ鋭く響き渡った。
※
清泉 北都(いずみ・ほくと)は、ミラが消えたあたりの壁にそっと近づき、こつこつと叩いた。
「隠し扉……ですか?」
傍らに歩み寄ってきたクナイ・アヤシ(くない・あやし)に、北都は頷いた。
「巧妙に隠されてるねえ。指輪を取り返すのは、どうやら一筋縄ではいかなそうだよ」
北都の言葉に、クナイは神妙に頷いた。
「先ほどの逃亡劇も……やはり、ミラ様は狙ってやったのでしょうか」
クナイが、倒れ伏したスタッフや剛太郎の方をちらと振り返った。
「……それは、たぶん違うんじゃないかなぁ」
北都は、ぽりぽりと頬をかいた。
「禁猟区には何の反応もなかったし、罠には詳しいつもりなんだけど、あらかじめ何か仕掛けたり、しかけた場所に誘導するような動きはなかったから……」
「では……」
「僕の見立てでは、たぶん、あれは偶発的な事故の連続、なんだと思う。ミラさんはなぜだか、自分を追いかけて来る相手に対して、ものすごい強運を発揮してるんだ」
「強運……強運……それは、厄介ですね」
うーん、と、北都は唸るように頷いた。
「厄介だねぇ。なにせ対処のしようがない。うーん、困ったなあ……。面倒なことは嫌いなんだけどなぁ……あれは面倒な相手だなぁ……」
悩む北都をまっすぐ見据えて、クナイは首をかしげて見せた。
「引き続き、ミラ様を追いますか?」
「うん、リングを取り戻すのは諦めないよ。オーナーさんと約束したし、なにより、他人に迷惑かけてる人を放ってはおけないしね。……けど、ミラさんを追いかけるたびにさっきみたいなことになるんなら……正直、真正面から追いかけたくないなあ……」
こつこつ、こつこつ、と北都は、隠し扉のある壁を叩きだした。
「では、追いかけるのはやめますか?」
「どういうこと?」
こつこつ、と壁を叩く音が止まった。
「追いかけてダメなら、向こうから来てもらえばいいんです」
「あ。なるほど、到達地点を予測して待ち伏せ」
「そう言うことです」
クナイは北都の言葉に、満足げに頷いた。
「そうだね、そうしよう。たしか、ブラッドルビーは月の光を受けて発動するんだったね」
「ええ」
「じゃあ屋上だ。ロビーに届く程度の月光で目的が果たせるなら、ミラさんはもうとっくにやってるはずだからね、おそらく、一番月に近いところへくるよ」
「なるほど」
クナイの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「屋上なら、月も綺麗で一石二鳥ですからね」
きょとん、と北都はクナイに向かって首をかしげた。
「一石二鳥? ミラさんを待ち伏せできるのと……あとは?」
「あっ……いいえ」
クナイはあわてた様子でかぶりを振った。
「何でもありません。はは。ちょっとした言い間違いですよ」
「ふうん? そうなの?」
「ええ、そうです」
「そう?」
まだ釈然としない様子で、けれど北都は曖昧に頷いた。
「じゃあ、屋上に……あれ?」
そこで、ふと何かに気が付いたように、北都はあたりを見回した。
「そういえば、ソーマは?」
「ああ、ソーマは邪魔なので……えっと、ソーマは、また迷っているんじゃないですか? 屋上へ着いたら、私が連絡しておきますよ」
「ふうん?」
やはり釈然としない様子で首をかしげた北都は、クナイにぐいぐいと促されて、やっと、屋上へとつながる階段へ向かって歩き始めた。
※
「いっ……つつつ」
うめきながら、リアはゆっくりと身体を起こした。
頭からかぶった花瓶の水が、淡いピンクの髪から滴り落ちる。
「くっそ……まんまとやられた……」
「ええ、やられましたねえ」
自分の耳元で珠輝の声が聞こえて、リアはびくりと硬直した。
リアを後ろから抱きすくめるように受け止めていた珠輝は、獣化した前足の肉球で、りあのほっぺたをふにふにと触った。
「怪我はありませんか? 割れたガラスからは、守れたと思ったのですが」
「うっ……うっさい、知るか!」
リアは珠輝の腕の中でじたばたともがき、立ちあがった。
髪から滴をしたたらせながら、リアは自分の体を触って確認した。怪我どころか、割れたガラスの欠片すら、ついてはいなかった。
リアは最後に、珠輝の肉球が触れていた頬に、そっと自分の手を乗せて、
「……――ちっ」
舌打ちした。
リアはくるりと振り返り、割れた花瓶の上に尻もちをついたままの珠輝に手を差し出す。
「ほら。さっさと起きろ」
白い産毛に覆われた手首を引っ張って、リアは珠輝をガラス片のから退かせた。
四本脚で立った珠輝の背中から、リアは丁寧に、輝くガラス片を取り除き始めた。
「ああ、いいですよリアさん、危ないですから」
「このままじゃお前が危ないだろ。もともと僕のへまをかばった結果だし……」
珠輝の衣服に付いたガラス片を払いながら、リアはしばし言いよどみ、それから、深く息を吸って、言う。
「その……ありがとうな。助かった」
リアの耳が、じわりと赤く染まった。
「ふふふ……いいえ、たいしたことじゃありません。それよりどうしましょうか。ミラさんを捕まえるのにも失敗してしまいましたし、いっそこれから二人で」
「失敗? まだたったの一回、逃げられただけじゃないか」
珠輝がきょとんとして、リアの顔を覗き込んだ。濡れて張り付いた前髪の奥から真摯な瞳が珠輝を見据えた。
「言ったろ。何としてでもリングを借り受ける……って。この程度で、諦める気なんかないさ」
「ほほう、燃えてらっしゃる」
「あたりまえだろ。ほとんどお前のせいなんだ。最後まで付き合えよな」
「はて? 私のせい、ですか?」
ぱしっ、とリアは片手で自分の口を覆った。
「どうなさいました?」
張り付いた髪の奥で、頬がみるみる真っ赤に染まり、リアはふいっと顔を背けた。
「なっ……なんでもない! 忘れろ!」
「はて、今日のリアさんはなんだかおかしいですよ? さっきシャンメリーを持ってきたと思ったのですが、もしかしてシャンパンと間違えていたでしょうか?」
「うっさい! 何でもないっつったら何でもないんだ! それ以上余計なこと言ってみろ、ガムテープでその産毛とガラス片を、まとめて引っぺがしてやるからな!」
「おお、それはなかなか激しい愛ですね」
「うっさい! 愛なわけあるか!」
ぎゅっと、リアは珠輝の衣服をきつく掴んだ。
「愛なはず、ないんだ……絶対」
誰かに言い聞かせるようなリアの声は、微かに震えていた。
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