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第一章


 西地区へ足を踏み入れた聡。
 研究所やその研究施設が集まり、大企業オフィス街が乱立しているこの地帯。それ故か天学生徒があまり寄り付かない街並。
「確かこの辺りのはずだけど……」
 地図を頼りに目的のレストランを探していると、
「あの……」
 突然、路地から細々とした声を掛けられた。
「うおっ!? ビックリしたぜ……」
 建物の影で暗いうえ、醸し出す雰囲気が陰気で存在に気付けなかった。更にサロペ一枚という格好が、幸薄そうな哀れみまでも感じさせている。
 そんな出で立ちの鈴木 麦子(すずき・むぎこ)はポケットから小さな箱を取り出して聡に詰め寄る。
「マッチ、買ってください」
「は?」
「家には病弱な母とお腹を空かせた弟たちがいて、売れないとお家に帰れないんです」
 どこかで聞いた事のある設定である。アレは冬の街頭だけれども。
 そんなことを思っていると、どこからかくぐもった低音が響く。
「ご、ごめんなさい。昨日から何も食べていなくて……」
 恥ずかしそうに俯く麦子のお腹は「ぐぅ」と主張を続ける。
 頬の赤く染まった女の子に上目遣いで見つめられると、何かしてやりたいと思ってしまう聡。
 懸命な読者ならお気づきだろう。罠ははすでに張られているのである。
「今から用があるからな……しょうがねぇ」
 懐から幾ばくかの小銭を取り出すと、
「これで代金に足りるか? 大したものは買えないけれど、少しは足しにしてくれ」
「あ、ありがとうございます! これでご飯が食べれます!」
 嬉しさで顔が綻ぶ麦子。
 温かいご飯。今日は卵が安かったかもしれない。豪勢に卵かけご飯にしようかと想像が膨らむ。
「あ、マッチを渡さなくちゃ」
 妄想から帰ってきた時にはもう、聡はその場を去っていた。そしてまた気付く。
「……計画のことを忘れていました」
 でも、麦子は別段気にせず、
「それよりもご飯です。さあ、スーパーに向かいましょう」
 タイムセールへと駆け出した。


 レストラン『海空』。
「ここがそうか」
 看板を確認し、いざ扉を開こうとした聡の前でカウベルと声が響く。
「鏡見てみろよブサイク」
「ひどいっ! 今までの言葉は嘘だったの!?」
「本気になるわけないだろ男女」
 いきなり別れ話が勃発している。
 言い争っているのはビジネスマン風の東條 カガチ(とうじょう・かがち)東條 葵(とうじょう・あおい)。葵はマリー・ロビン・アナスタシア(まりーろびん・あなすたしあ)が憑依して表に出ている状態。ここはアナスタシアと呼称した方がいいだろう。
「それじゃあな。俺は仕事があらぁ」
「ちょっと、まだ話は終わっていないわ!」
 聡の横を通り抜けるカガチ。アナスタシアの伸ばした手は空を切る。
 勢いあまってその場にくずおれ、
「もう! 知らないわ!」
 涙目で叫んだ。
「すごい場面に遭遇したぜ……」
 目の前で繰り広げられるドラマ。妙なタイミングに居合わせてしまった。
「……キミ、一人なの?」
 寂しげな瞳を聡に向ける。
「俺?」
「アタシも今、一人になっちゃったとこ……少しお話しない?」
「いや、今から待ち合わせが……」
 返答を聞かず、アナスタシアは話を進める。
「男ってひどいわ。キミも見ていたでしょ? あの人の好みに合わせて可愛くしようとしたのに……酷い振られ方だわ」
 自虐的に笑い、
「キミもアタシのこと、大きいしごついし声も低いしって思ってるんでしょ?」
 見た目は金髪紫目の美女。ただし、自分より高い身長に低めの声。
 お姉系と言ったほうがしっくりくるのだけれど、それを言ってしまうのはデリカシーに欠ける。だから聡はこう答えた。
「俺はそんなこと思わないぜ」
 その台詞を聞き、アナスタシアの脳内に巡る葵の助言。
(ここである。ここで押しの一手なのだよ)
「それじゃ、アタシとデートして」
 縋る様に手を取り、少し引き寄せ胸元へ。
「ちょっと、お姉さん!?」
 初心にも戸惑う聡。
 葵は必死に笑いを堪え、去ったはずのカガチも店の影に隠れてによによ眺めている。
 このままいくと戦場に立つことなく戦いが終わってしまう。
 だが、そんな危惧は今の聡には杞憂だった。
 掴まれた手に力を入れてアナスタシアを立たせると、
「ごめん、お姉さん。今から大事な用があるんだ」
 真面目な目をして語る。
「それは俺だけじゃなくて、俺に期待してくれた皆の気持ちに答えることでもあるんだ。だから、悪いけど……」
 頭を下げ、先程の転倒で怪我をしていないか尋ねる。
「……困らせてごめんね、もういいわ」
 アナスタシアは付いたほこりを軽く払うと、
「お話聞いてくれてありがとう。キミ優しいのね」
「俺は別に何もしていないぜ?」
「ううん。その言葉だけでも優しすぎるわ」
 少しだけ未練を滲ませ、
「それじゃ、キミも頑張ってね」
 ふらついた足取りで去るアナスタシア。
 聡はその行方を少しだけ見て、扉に手を掛けた。
 入店を確認すると、カガチはアナスタシアと合流して労いの言葉をかけた。
「迫真の演技だったねぇ」
「でも、ダメだったわ」
 頭を振るアナスタシア。
「身を引くところまでは完璧だったんだけど、動いてくれなかったわ」
「まだまだ序盤だしねぇ。ここで躓いてちゃあ、お話にもならねぇし。この後どうなるか、楽しみだねぇ」
「そうね。アタシたちは外から見物させてもらいましょ」


 入店すると黒髪短髪のウェイターが寄ってくる。変装したフェルクレールト・フリューゲル(ふぇるくれーると・ふりゅーげる)だ。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
「予約してあると思うんだ」
「少々お待ちください……山葉聡様でよろしいでしょうか?」
「ああ」
「お席をご用意してあります。こちらへどうぞ」
 手で行き先を指し示し先導する。
 席までの道すがら、聡は思ったことを口にした。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「何でしょうか?」
「最近この辺りって、こんな感じなのか?」
 物乞いに痴話喧嘩。
 どうも変な場面に遭遇しすぎな気がしないでもない。
「概ねこのような感じですけれど」
「そうか……」
 何を言っているの? といった顔で返されてしまうとこれ以上は黙るしかない聡。とりあえず、もう少し西地区の現状を把握しておくべきかと頭の角に置いておく。
「こちらのお席になります。それではごゆっくりどうぞ」
「ああ、ありがとう」
 フェルクレールトは一礼をしてその場を去る。
 その足で入り口まで行き、『OPEN』と下げられている札を外し『RESERVED』へと掛け直した。