リアクション
Your life ends here. 「……これ、って……」 点滅する蛍光灯の下、赤いクレヨンか何かで書きなぐられた壁の文字に指を伸ばして、コハク・ソーロッド(こはく・そーろっど)はつぶやいた。触れようとした寸前、小鳥遊 美羽(たかなし・みわ)が後ろで悲鳴をあげる。 「うそ! うそうそうそっ! ここ、もしかしてあの病院なの!?」 「美羽」 駆けつけるコハクにも気づかず、美羽は目を見開いて自分が来ている患者用の白い寝間着を上からパタパタたたき出した。 「やだ! 何、この寝間着……いつの間にこんなの……。これって、これって……また私、来ちゃったの!? また殺され――」 「美羽、おちついて」 結婚したばかりの若妻美羽を抱き寄せて、その頭を胸に抱き込みながらコハクは言い聞かせる。 「もしそうだとしても、僕も一緒にいるよ」 そして目をもう一度、背後の壁に書かれた文字に走らせた。 以前来たとき、あんな文字はあっただろうか? 思い出せなかった。だがあのときだって病院内をくまなく探索したわけではなかったし、地下階には足を踏み入れたことさえなかった……。 (美羽にはあんなの見せられないな) ふっと嘆息をつく。 「……ごめん、コハク。すっかり取り乱しちゃった」 コハクの心臓の音を聞くことで動揺を静めることができたのか、やがて美羽が顔を上げた。 「恥ずかしい」 へへっと笑ったあと、ほんのり赤く染まったほおを隠すようにうつむく。そんな美羽の両肩をとり、コハクは勇気づけるように励ました。 「そんなことない、美羽。だれだってこんなことになったら取り乱して当たり前だよ」 「コハクも?」 「うん。怖いよ。すごく怖い」 それを耳にした瞬間、美羽は思わず叫んでいた。 「私、一緒にいるから! いつも一緒だからね!」 「うん。がんばろう」 そのとき、ぱたぱたとスリッパでリノリウムの床を蹴るような軽い音が「非常口」との小さな文字がぼうっと浮かび上がるだけの暗い廊下の向こうからしてきて、2人はぎくりと身を固くした。互いの袖をぎゅっと握りあった姿のまま、そちらを見守る。 「くっそー、またここかよ!」 まずボサボサの赤い髪が見えて、その次にやはり同じ白い寝間着を着た男の全身が見えた。 チカチカとせわしなく点滅する蛍光灯のあかりの圏内に入って、高柳 陣(たかやなぎ・じん)はようやく足を止め、ひと息ついて振り返る。 「おいユピリア。ちゃんとついて来てるか?」 「ええ」 一歩遅れて光のなかへ現れたのは、陣のパートナーのユピリア・クォーレ(ゆぴりあ・くぉーれ)だった。2人とも、美羽たちと同じくこの病院を訪れるのは2度目とあって、何が危険で何が安全かは熟知していた。端の蛍光灯からロビーの中央の蛍光灯と、互いが影響しあうことでより強くなっている光の下へと――それでも十分という言葉にはほど遠い明るさだったが――移動し、油断のならない目を周囲の暗がりへと向けている。 「高柳さん」 「よぉコハク。美羽も一緒か」 4人とも同じ蒼空学園生で、たびたび顔を合わせてきていた。この異常事、それでも見知った顔を見ることができて、4人はわずかながらホッと――いや、ホッとしたのは3人だけだ。美羽はサッと2人から目をそらし、コハクの後ろへ逃げ込む。 「美羽? どうかしたの?」 「……わ、分かんない。ただなんとなく……落ち着かなくて……」 困惑している美羽の様子には気づかず、あいさつを終えたユピリアと陣は再び周囲に目を向けていた。 「ここってやっぱり、あのときと同じ病院よね? 見覚えないけど、シチュエーション同じだし。このダサい寝間着もまんま一緒。 今度は何があったのかしら。また私たち、事故ったの?」 「さぁな。だとしても、全然覚えてねえ。 ……くっそ。もう二度と来たくなんかなかったんだが、こうなっちゃあしかたねえ。一刻も早く脱出――」 「逃げ道なんかどこにもないわ!!」 突然大声を発して、奥の長椅子の間からだれかが立ち上がった。 「ここで私たち、また殺されるのよ! そうよ、あの不気味な大男、デスマスクに首をねじ切られて――!」 「さゆみ、落ち着いてください」 以前自分の身に起きた出来事を思い出して、ヒステリックになっている婚約者綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)をどうにかしてなだめようとアデリーヌ・シャントルイユ(あでりーぬ・しゃんとるいゆ)が手を伸ばして触れる。 「大丈夫です。そんなことにはなりません。わたくしがあなたを守ってみせます。大丈夫ですわ、さゆみ」 髪を梳かしたり、ほおに触れたり。接触することであなたはここに1人でないと伝え、理解を得ようとする。さゆみの体から震えが消え、がちがちと鳴っていた歯の音が静まりだして、それはうまくいくかに思えたのだが。しかし次の瞬間、その努力も水泡に帰した。 「そうです。ですからみんなで一緒に――」 それまで頭を抱えてうずくまっていたさゆみをアデリーヌと一緒になだめていたセルマ・アリス(せるま・ありす)が立ち上がったのを見て、さゆみは「ひっ」と引きつった声をあげて後ろに一歩退いた。 「さゆみさん?」 あきらかに自分を見ておびえている様子のさゆみに、セルマはとまどう。 さゆみ自身、自分のしてしまった反応にとまどっているのか、両手を見下ろしたあと、セルマを視界に入れないよう目線を下に向けたまま言った。 「とにかく、こんな所にはいられないわ。ほかから丸見えじゃないの」 「さゆみ?」 前後の長椅子をがたがたいわせながら出ると、さゆみはぐるっと周囲を見渡して、右手の方の壁にひと固まりで置かれてある小型消火器の1つを持ち上げた。 消火器が1か所にこんなに固まっているのはおかしいが、壁に固定されていないことからして、運び込まれたばかりなのかもしれない。違うかもしれないが、そんなことは今はどうでもいいことだ。 「これは武器になるわね。ちょっと重いし、かさばるけど、でも鈍器としたら優秀そう」 「どうしたんです? さゆみ」 「アディ、さあ行くわよ」 「どこへ行くんです?」 「どこでもいいわよ! ここより安全なら!」 「そんな……。でも、皆さんと一緒に出口を探した方がよくは――」 「何を言ってるのよ! 死にたいの!? アディ!!」さゆみは金切り声を上げる。「そうしたければ、あなただけそうしたらいいわ!!」 とにかく少しでも安全な場所を探して隠れなくては――恐怖に凝り固まったさゆみの心はすっかりその考えに固定され、ほかのことを考える余地がなくなってしまっていた。 「アディ以外の人と一緒だなんて、冗談じゃないわ。前もそうやって動いて、結局ああなったじゃないの」 ぶつぶつ独り言をつぶやきながら、さゆみは歩き出す。 「待ってください、さゆみ。わたくしも一緒に参りますわ」 「……俺のせいかな」 右手の通路へ消えていく2人の姿を心配そうに見送るセルマに、反対側の長椅子に腰かけていたリンゼイ・アリス(りんぜい・ありす)が冷静な声で指摘する。 「おびえた女性を前に、不用意に動くべきではなかったかもしれませんね」 「かなぁ」 (でもあの様子だと、それだけでもなかったような気がするんだけど) セルマは小首を傾げたが、もういなくなってしまった相手についてそれ以上考えてもしかたない、と見切りをつけた。いつもならそうでもないが、今回ばかりはほかを考えている余裕がない。それに、追いかけて連れ戻そうにも、あの様子だとむしろさらに意固地にさせてしまうだけだろう。 セルマはロビーを見渡した。 「ここにいるのは俺とリンと高柳さん、ユピリアさん、それにコハクさんに小鳥遊……さん、だけかな」 コハクの後ろの人影を確認しようと首を伸ばす。セルマに名前を呼ばれて思わず顔を上げた美羽は、視線が合った直後にサッとまたコハクの後ろに隠れてしまった。 全く普段の彼女らしくない。 「小鳥遊さん?」 「僕たちもいるでふ」 セルマの声にかぶさって声がした。ぴょん、と身長40センチ、頭にムラサキツメクサを生やした花妖精のリイム・クローバー(りいむ・くろーばー)が長椅子の背もたれに飛び上がって、みんなに自分の存在を知らせる。セルマたちの視線が自分の方を向いたのを見て、後ろの長椅子を振り返った。 「ねっ? リーダー」 「ああ……」 そこには十文字 宵一(じゅうもんじ・よいいち)が仰向けになってぐったりと長椅子に寝転がっていた。いかにも具合が悪そうだ。 「どうしたんです?」 「分からん……。ただ、気分が悪い」 「どこもけがはしていないようですね」 ざっと視診したセルマは彼に龍玉の癒しをかけてみた。術が発動したことにホッとしたものの、宵一の具合が好転している様子はない。 「大丈夫だ。すまない、ありがとう」 宵一の方がセルマを気遣って身を起こし、長椅子に腰かけた。 「本当に大丈夫でふか? リーダー」 足元から心配げに見上げてくるリイムの頭をぽんとたたく。 「ああ、大丈夫だ。 それより、早くここから移動した方がいい。今のところ現れる気配はないが、やつは神出鬼没だ」 やはり前回この病院に迷い込んだ経験を持つ宵一は、そのときの記憶をよみがえらせていた。そしてその意はリイム、リンゼイ以外の5人には明確に伝わったようで、互いに視線を合わせるとこくっとうなずいた。 「セル。セルたちはこんなおかしな場所に来たことがあるのですか?」 「うん。やつらはあかりがあると近寄ってこれないんだ。だから、今のところロビーのこの一角は安全だけど、この様子だとここの蛍光灯も心もとないしね。いつ切れてそれっきりになるか……。 今のうちに手に入る物を集めておこう」 「全員で動くより、手分けした方が早いな。あとでここで落ち合うことにするか。 行くぞ、ユピリア。俺たちはこっちだ」 「あ、待って陣っ!」 ユピリアはついて来るものと信じて疑っていないのか、陣は確認もせずさっき来た廊下の方へ歩き出した。走って来たときは真っ暗だったが、今はロビーのように蛍光灯が点滅している。 さっさと歩いて行く陣のあとを追って、ユピリアは角を曲がって行った。 「僕たちも行こう」 「って、どこへですか?」 「そうだな……」 セルマはエレベーター前の壁にかかった病院の平面図に近寄った。 「とりあえず、あかりになる物がほしいから、確実にありそうな1階の警備室へ行こう。そこの階段から行けて近いし。もしここで手に入らなくても、備品倉庫にならきっと在庫としてあると思うから」 「そうですね」 「あの、僕たちも一緒していいですか?」 会話する2人に、ためらいがちにコハクが後ろから声をかけた。 「うん。いいよ、一緒に行こう」 美羽が後ろからコハクの袖をツンツン引っ張る。 「なに? 美羽」 「……あれ……。消火器。持って行った方がいいと思う……」 ぼそぼそと覇気なくしゃべる声は、ロビーがしんと静まっていることもあってセルマやリンゼイたちにも十分聞こえていた。 「あ、じゃあ持って行きましょうか、念のために」 まるで2人がそこにいないかのように自分にだけ向かってしゃべる美羽に、コハクは2人に気を使いつつ提案をする。もう完全に彼女の様子がおかしいことにセルマは気付いていたが、あえてそこには触れず「そうしよう」とだけ答えて壁の消火器を取ると、4人は北の細い通路を曲がって、階段のある奥へと向かった。 「リーダー、僕たちは行かないでふか?」 はじめ、リイムは自分たちも彼らと一緒に行くのだと思った。しかし動こうとしない宵一に気付いて足を止め、不思議がって見上げる。宵一は4人の消えた曲がり角をじっと見つめていた。 「う、む……」 宵一自身、わけが分からなかった。しかし曲がり角から見えているうす暗い闇を見るだけで頭がぐらぐらして背筋を冷や汗が伝う。行かなくてはと思うのだが、足が床に貼りついてしまったように動いてくれない。 ここに来て、リイムもうすうすと宵一の変調が何であるか気づきだした。しかし、まさか本人に向かって言えようか?「リーダー、まさか暗闇が怖いんでふか?」などと。小さな子どもと同じだと、ばかにしているようではないか。リイムにそう思われていると考えただけで、宵一が激しくショックを受けるのは目に見えていた。 (しかたないでふね。ここは僕がリーダーをそれとなく助けるのでふ!) 「でも考えてみたら、6人もいらないでふよね。高柳さんも全員で動くのは非効率だと言ってたでふし。僕らはほかの所を探索するでふ」 「あ、ああ。そうだな」 「さあリーダー、僕らはどこへ行くでふか?」 出来たパートナーのリイムは彼の暗所恐怖症に気付いていることはおくびにも出さず、宵一を立てつつ、彼の進める方向へ並んで一緒に歩いて行った。 彼ら10人の姿がこの場から消えて少し経ったあと。一番奥の長椅子の影からむくりと起き上がる人影があった。 「……もう大丈夫。だれもいなくなったわ、霜月」 クコ・赤嶺(くこ・あかみね)はそう言うとまたその場にしゃがみ込んで、うずくまったままの赤嶺 霜月(あかみね・そうげつ)の背中をそれまでのようになでさすった。 「もうここにいるのは私とあなただけよ」 「あ……あ……。すみません……クコ……」 腹の奥から絞り出したような苦しげな声で、霜月はどうにかそれだけを紡ぐ。それでも先までよりずっとマシになっているとクコは思った。ほかの者たちの声が聞こえている間じゅう、霜月は一音も声が出せない状態だったのだから。 己で抱き締めても止まらないほどぶるぶると震え、浅い息を繰り返し、額に玉の汗を吹き出していた。どう見ても尋常ではない。 (このロビーへ着いたときは普通だったのに……) 白衣の男の元から逃げ出して早々に、霜月とクコはメスを振り回す医者と出くわして襲われるという体験をしていた。白衣の男のこともあって、十二分に警戒しながら距離をとって声をかけたため、どうにか振り切ってここまで逃げることができたが……。 『どう見てもあいつ、頭がイカレてたわね! どうかしてるわ、あの白衣のやつといい、あの医者といい、気が狂ってるとしか思えない!』 毒づくクコの横で、霜月は油断なく警戒の視線を周囲に走らせていた。つい、いつもの癖で腰に手をやって、そこに愛刀の感触がないことに眉を寄せる。 『ここはどこなんでしょうか』 『さあ。病院のように見えるけど、どうだか。あやしいわね。あんなやつらがうろついてるようじゃあ』 そもそもこんな場所、ツァンダにあったかしら? 首をひねってそれからもぶつぶつとつぶやいていたが、どれも推測の域を出ないことばかりだった。 そうこうしているうち、さゆみとアデリーヌが現れた。同じように逃げてくる彼女たちの姿にクコはここにいるのが自分たちだけでないと分かってホッとしたのだが、霜月は正反対の反応を示した。 激しい拒絶反応。彼らの姿を見なくても、その存在を感じるだけで恐怖におののき、呼吸困難に陥った。あげく 『刀……刀さえあれば……こんな所……』 と、現実を拒否し、ひざを抱いてうずくまり壁に向かってぶつぶつつぶやき始めたのだった。 夫のこの変わりようにクコは愕然となり、できるだけこれ以上霜月を刺激しないよう、次々と現れだした彼らからも息を潜めて隠れていたのだった。 「とりあえず、横になる?」 「いえ……大丈夫です」 「全然大丈夫には見えないわよ? お願いだから休んで!」 ふらふらと歩き出した霜月の前に回り込んで、クコは訴えた。しかし霜月は流れた汗のあとが残る顔で、にこりと笑って見せるとその手をやんわりと押し戻した。 「本当に大丈夫なんです……。ここに、自分たちだけだからでしょうか……」 かといって、ここにいつまでもいるわけにはいかなかった。いつまた同じ症状を引き起こすか知れず、あの白衣の男や気の狂った医者のこともある。 (この際、自分はだめでも、せめてクコだけでも助けなくては……) いまだ回復の途中にあって、頭陀袋のように感じられる己の頭と体を叱咤し、霜月はよろめきながらも現在位置から最も近い、南の通路へ歩き出した。 おぼつかない足取りに、どう見ても休んだ方がいいのに休むことを拒絶してまで動こうとしているのはなぜか、クコは嫌というほど理解できて――彼はどんなときも守る人だから――、止められないことに歯噛みする。 「待って霜月!」 少しでも彼が楽になれるように。クコはとなりにつくと、肩を貸して一緒に歩いたのだった。 |
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