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リアクション
序章 かすみゆく地に馳せる声
歌声が響いていた。
それはまるで、何かを慈しむような、何かを愛するかのような歌声であった。一つ一つの声色が音色となって音階を歩み、聴く者をどこか遠い優しい場所に誘うかのよう。そんな、静かな歌声が響いていた。
その歌声はこの荒廃したヤンジュスの地にあってこそ、なおのこと美しく思える。
誰一人村人はおらず、残された家屋だけがそこにあったかつての姿を物語る。ただそれも、今となっては廃屋が軒を連ねるばかりであり、余計に哀しみを抱かせるものだが。
メイベル・ポーター(めいべる・ぽーたー)は唇から歌をささやき続けた。
かつては広場であったのだろう……そんな朽ちた噴水の縁に腰をおろし、彼女は歌を続ける。精霊か妖精か、神秘的にも思える彼女の透き通った歌声が、穏やかに広がってゆく。快活な声が彼女にかけられたのは、そのときだった。
「メイベルーっ! 準備ができたよー!」
「あっ……はーいですぅ」
メイベルは、近くの家屋から顔を覗かせていたパートナーのセシリア・ライト(せしりあ・らいと)に呼ばれると、すぐに彼女のもとに向かった。
「うん、上出来かな。これで一応、料理は進められそう」
「セシリアが来ていて本当に良かったですぅ。これで、みんなが帰ってきたときのための食事を用意できますぅ」
メイベルに素直に褒められて、セシリアは照れくさそうに笑った。
彼女たちのいるキッチンは、初めのころとは比べ物にならないほど綺麗に片付けられていた。これもセシリアのおかげである。とにかく、料理をしようと思ったらキッチンを片付けないことには始まらない。幸いにもここには多くの調理用の道具が残っている。勝手に使わせてもらうのは気が引けるが、遠慮していても仕方があるまい。いまは、使えるものは使わせてもらうのが一番だ。
無論――メイベルも片づけを手伝ってはいたのだが、基本的には補助役に過ぎなかった。キッチンはやはりメインで調理する人のこだわりがよく反映される場所である。あらかた片付いたあとはセシリアに任せて噴水で待っていたのだが……思ったよりも早かったようだ。
「ここの人、結構料理には気を使ってたみたいだね。ボクの感覚と結構近いよ。ほら、このお玉の位置とかね」
セシリアは傍にあったお玉をとると、くるくるっと回してみせた。
「じゃあ、セシリアも料理がしやすいということですぅ」
「そーゆーことっ。じゃ、早速……メイベル、鍋をとってくれる?」
「はーい、了解ですぅ」
こうして、彼女たちのクッキングタイムは始まった。
ぐつぐつと音を立てて、大きな鍋の中のスープが煮込まれてゆく。セシリアは傍らで細かに別に材料を切っていたが、そろそろ具合も良い頃かと、お玉に軽くすくったそれを飲んで味を確かめた。
「うん、かんぺきっ」
嬉しそうにほほ笑むセシリアに、メイベルの声が家の背後のほうからかかる。
「セシリア〜、そろそろパンが焼ける頃なのですぅ」
「あ、本当? じゃあ、取り出さないといけないね」
この家は本当に料理が好きな家庭だったのだろう。パンを焼くための竈まであるとは、まったく好都合だった。ただどうやら……村を後にする前は自家製のパンを売っていたようで、竈がキッチンと反対側にあるのは多少難点ではあるが。
パンを取り出しに行こうと、とりあえずスープの鍋を火に当たらぬ場所にどかして、セシリアはキッチンを出た。すると、リビングに当たる場所でいきなり本の塊にぶつかった。
「わわっ……!?」
ガタガタガタッと音を立てて崩れる本。そして、セシリアはそれに思い切り潰された。
「ぬぐ……」
「あらあら……セシリアさん、そこにいると本に潰されてしまいますわ」
「……もう遅いよ」
のんびりとした声をかけてきたのは、なにやらゴミ袋らしきものを抱えるフィリッパ・アヴェーヌ(ふぃりっぱ・あべーぬ)だった。メイベルものんびりとしているが、目の前の彼女のマイペースっぷりは、つくづくそれを越えるものだとセシリアは思う。
セシリアは、なんとか圧しかかっていた本をどかして這い出ることに成功した。すると、その目に飛び込んできたのは、来たときとは比べ物にならないほどに綺麗になった部屋の姿だった。
「うわあぁ……すごい。これ、フィリッパが一人で?」
「いえいえ……もちろん、ヘリシャさんにも手伝ってもらってですの」
「そっか。でも、それにしたってすごいよね。これなら、食事や休憩もできそう」
「ふふ……こちらに全員が入ることはできませんから、当分はわたくしたちのためになると思いますが……」
「それにしたって十分だよ。それに、この家の前の広場は大きいから、そこにテーブルや椅子を置いていけば、みんなの分だって作れるし」
フィリッパはセシリアに褒められて素直に嬉しそうであった。と、セシリアはふと気づく。
「ところで……そのヘリシャは?」
「ただいま戻ったですぅ」
「噂をすれば……ですわね」
にこっとフィリッパが笑った先――玄関から、ヘリシャ・ヴォルテール(へりしゃ・う゛ぉるてーる)がひょっこりと姿を現した。髪と瞳の色以外はメイベルと瓜二つの容姿をしている彼女は、やはりメイベルのようなのんびりとした仕草で首をかしげた。
「あれ……お二人とも、何をなさっているのですぅ?」
「ちょうどヘリシャのことを話してところだったの。あれ……ところで、それって?」
「竈の火を焚くための木材ですぅ。もう、壊れて使えそうにない家具やかろうじて残ってた他の家のものをもらってきたんですぅ」
「…………竈?」
セシリアの目がはっとなった。
竈を開けてパンを取り出すと――わずかに焦げつきがあるものの、なんとか食べられる程度には焼けているようであった。
「もう、呼んでから来るまで、時間がかかりすぎですぅ」
「あはは〜、ごめんごめん。でも、ほら見て。ちょっと焦げてるけど、美味しそうに焼けてるよ」
頬をぷくっと膨らませたメイベルに謝って、セシリアは取り出したパンを見せてみた。一緒にそれを覗きこんだフィリッパとヘリシャも、メイベルとともに感動の声をあげる。
「すごいですぅ……ふっくらと焼けてるですぅっ」
「本当に、美味しそうですわぁ」
テーブルの上にそれを置いて、熱が逃げてゆくのを確認したら、さっそくセシリアは一つずつ彼女たちにそれを渡した。記念すべき一つ目のパンだ。まずはもちろん、味見といこう。
ぱくっとパンを口にした四人。しばらく口を動かしていたが、やがてフィリッパとヘリシャが幸せそうに頬を緩ませた。
「ふっくらもちもちで、とっても美味しいですぅ」
「表面はカリっと、中はもっちもち……幸せですわぁ」
そうして……パンを食べながら幸せをかみ締める二人を、セシリアは少し離れた椅子に腰をおろして、自分もパンを口にしながら幸せそうに眺めていた。そんな彼女の横に、メイベルが座る。
「何を考えていたんですぅ?」
「……こうして、みんなでパンを食べて幸せになれたらいいのになって」
セシリアの言葉に、メイベルはわずかな哀しみの色を瞳に映した。こうしているいまも、戦っている人がいる。傷ついて人がいる。そして、孤独で、どうしようもなく、ただ涙を流すしかない人もいる。
この荒廃した村でも、きっとそれは、揺らぐことのない現実であったのだ。
「……ここに住んでた人も、やっぱりここでパンを焼いたり、料理してたんだろうね……そう考えると、ちょっと寂しいや」
「セシリア……」
誰かのために料理を作るということは、誰かのことを想うということだ。それは、誰よりもセシリアがよく知っている。だからだろうか。ここにあったはずの誰かの想いが、ここにいたはずの誰かの痕跡が、彼女の胸をきつく掴んでくる。
メイベルは、そんな彼女に優しくほほ笑んでみせた。
「……きっと、カナンが自由を取り戻したら、また戻ってきますぅ。だからいまは……私たちでみんなを迎えてあげるですぅ」
「私たちで……?」
セシリアは少し曇りのある見つめた目でつぶやき、それにメイベルは頷いた。
「はいっ。そしてそのときは、歌を歌うのですぅ」
「歌?」
「パンを食べて、歌を歌って……そうしてみんな一緒に過ごせたら、きっと幸せな気持ちになれるですぅ」
「…………」
それはきっと、待っている人の役目だ。
――だから、
「そうだね」
セシリアも帰ってくる人を迎えるために、笑った。
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