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【六 千対百万】

 だが、002隊の面々の困惑などまるで知った風も無く、エメラルドアイズに乗っ取られ、実体化した美晴の脳波、即ち人間とウィルスの複合オブジェクティブは、容赦の欠片も見せずに襲いかかってきた。
 真っ先に標的となったのは、一番近くに居る加夜であった。
「み、美晴さん!」
 それでも加夜は敢えて戦闘態勢を取ろうとはせず、エメラルドアイズの中の美晴に、声を嗄らして呼びかけようとした。いくら相手がエメラルドアイズだと分かってはいても、それでも手を出せない優しさが、加夜にはあった。
「危ない!」
 間一髪のところで、トマスが加夜を真横からタックル気味に押し倒し、今にも迫らんとするエメラルドアイズの必殺の手刀から逃れさせた。
 もうあと一瞬遅かったら、加夜の顔面は真っ二つに叩き割られていたかも知れない……だが、かわした筈の一撃は、意外なところにダメージを残していた。
「ぐぅっ……これは!」
 慌てて加夜の上に覆いかぶさっている状態から起き上がってみたものの、左の脇腹に激痛が走った。
 見ると、教導団の軍服が左脇から腰の辺りにかけて、ぱっくりと割れている。その下の皮膚はといえば、肋骨が見える程の深手を負って、熱い血の濁流が次々と漏れ出してきていた。
 トマスは確かに、加夜を救い、自身もエメラルドアイズの手刀の軌道上から逃れた筈である。なのに、これ程の一撃を喰らっているというのは、一体どういうことであろう。
「おい、トマス、大丈夫か!」
 慌ててテノーリオが駆け寄ってきてトマスの傍らにしゃがみ込み、傷口を見る。もうあと1センチ深ければ、内臓に達しているのではないかとさえ思える程の、深い傷であった。
「どういう……ことだ? 僕は確かに、かわした筈……」
「いいえ、かわせてませんよ」
 半ば呆然と呻くトマスに、エージェント・ローデスの声が冷淡に響く。
 その間もエメラルドアイズは、他の002隊の面々に襲いかかり、そこかしこで悲鳴や怒号が渦巻くという惨状が展開されていた。
 誰もが、エメラルドアイズの攻撃を辛うじてかわすのが精一杯なのだが、かわしたと思っても、何故かトマスのように重い一撃を喰らっているのが大半なのである。
 このどうしようもない状況に、002隊の間には少しずつパニックが起こり始めていた。

「かわし切れていないというのは、つまりどういうことですか?」
 子敬が珍しく険しい表情でエージェント・ローデスに詰め寄った。どうにも納得がいかないのである。少なくとも子敬が見た限りでは、トマスは確かにエメラルドアイズの手刀をかわしたように見えたのだから。
 これに対し、エージェント・ローデスはサングラスに目許を隠した、相変わらずの無表情な色をトマス達に向けて静かに答える。
「かわしたように見えたのは、エメラルドアイズの残像がミスター・ファーニナルの脇腹付近に留まっているのを見ただけです。実際にはもうあの瞬間には、エメラルドアイズの攻撃は命中していました」
「ざ、残像ですって!?」
 トマスの脇腹を応急手当しながら、ミカエラが半ば悲鳴に近い叫びをあげた。残像、ということは、こちらの感覚がまるでエメラルドアイズの速度についていっていないことを示しているのだ。
 まさかそんな馬鹿な、という思いが、その場の全員の間に広がった。少なくとも自分達はコントラクターなのだ。超人的感覚を身につけたコントラクターでさえ捕捉出来ないスピードなど、考えられない。
 だが、現実は違った。
「マーダーブレインのように強力なクロック制御プロセスを持つオブジェクティブの反応速度は、フィクショナル内でのログと波形から推測すると、マイクロ秒単位にはなるでしょう。対してコントラクターの反応速度は、ソニックブレードへの対応実験から割り出した机上の計算ではありますが、どんなに感覚を研ぎ澄ましたとしてもミリ秒単位を切るか切らないかというところが限度であろうと推測されます」
 単純な計算である。
 ソニックブレードの放つ音速の衝撃波を1メートルという至近距離でかわそうとする場合を考えてみると、音速、つまり秒速345メートルで1メートル移動する動作に置き換えて計算すれば、
  1m÷345m/秒=0.00289秒(2.89ミリ秒)
 と、こういう値になる。
 一瞬の集中力で、ひとりのコントラクターが発揮出来る速度はミリ秒単位という結論になるのは、この計算によるのである。
「つまり奴らと我々とでは、最悪値として千倍の反応速度差があることになります。尤もこれは、電脳空間内での最速値と現実世界での机上計算値という比較ですから、あまり参考にはならないでしょうし、更に動体速度ともなれば、反応速度よりは遥かに遅くなりますから、本当にただの豆知識程度に考えた方が宜しいかと存じますが」
 ミリ秒とは千分の一秒であり、マイクロ秒とは百万分の一秒である。その速度差は歴然としているといわねばならない。
 しかしエージェント・ローデス自身も認めているように、これはあくまでも理論上の計算である。実際はそこまで極端に速度差があるとは思えない。事実、攻撃に入るまでのエメラルドアイズの動きは、しっかり見えているのだから。
「なるほどね……もともと電脳空間で生まれた連中だから、そもそもの時間単位が僕達とはまるで異なる、って訳か」
 トマスは悔しくはあったが、納得もした。
 マイクロ秒という速度は、デジタル制御やマイクロチップの世界では別段、驚く程の速さではない。寧ろ、平均的といっても差し支えない速さである。現在ではナノ秒(十億分の一秒)という速度も実現されつつあるぐらいなのだ。
 だが、有限である肉体を持つほとんどのコントラクターにとっては、この千倍の速度差は憂慮に値する。
 エメラルドアイズの攻撃速度に無理に反応しようとすると、まず肉体が耐えられなくなる。恐らくは、筋肉断裂や疲労骨折が先に生じ、まともな戦いにならないだろう。
 であれば、反応ではなく、読みで勝負する以外にあるまい。

「えぇい鬱陶しい! こうなれば、ちょっとやそっとの速さでは逃げ切れん範囲で焼き払ってくれる!」
 業を煮やした信長が、第六天魔王発動の態勢に入ったが、その信長を、忍が慌てて止めた。
「だ、駄目だ、信長! 今はまだ、それは拙い!」
「何が拙いというんじゃ!?」
 忍の制止が余程気に入らなかったのか、信長は鬼のような形相で吼えた。だが忍はあくまでも冷静である。彼は尚も血飛沫の中に居るエメラルドアイズを指差していった。
「あそこに居るのは、三沢美晴でもあるんだ! 今ここで倒してしまったら、彼女の脳波がどうなるか、分からないんだぞ!」
 忍の分析は当を得ていた。
 今回の一件は、そもそもログアウト出来なくなっている美晴を救い出すのが、目的のひとつとなっている。その美晴を自分達の手で葬ってしまっては、本末転倒というものであろう。
 その理屈が理解出来ぬ信長ではない。この場に限っては、忍の制止に従って第六天魔王の発動を抑えるしかなかった。
 奥歯をぎりりと噛み鳴らす信長と、緊張に強張った忍の前で、エメラルドアイズは次なる標的に迫ろうとしていた。
「きゃあぁ!」
 ファニの消え入るような悲鳴が響く。エメラルドアイズの手刀は、非戦闘員であろうがなかろうが、容赦無く矛先を向けてくるのである。
「くそっ! 間に合うか!?」
 エヴァルトがドラゴンアーツ特有の強大な破壊力を込めた蹴りを、今にもファニに迫ろうとするエメラルドアイズに叩き込むも、予想通りその一撃は空を切り、蹴り足が空転したと思った次の瞬間には、エヴァルトの体躯は大きく弾き飛ばされていた。
 それでも何とか宙空で転身し、着地したのだから大したものである。尤も、腹部に走る鈍痛は、ちょっとやそっとでは回復しそうにはなかったが。
「くっ……どんなに威力があっても、当たらなければ意味が無い、か」
 いささか自嘲気味に口元を歪めるエヴァルトだが、その唇の端からは僅かに血筋が漏れ落ちる。内臓に受けたダメージは、決して小さくは無かったのだ。
 エメラルドアイズの次なる標的は、シズルだった。
「き、来ます、師母殿!」
「……下がりなさい、シズル」
 シズルを庇う位置へと、つかさが滑らかな所作で前に出る。するとその左右に、マクスウェルとクドが素早く身を寄せてきて、つかさと並行の位置を取って壁を作る形となった。
「相手が相手だし、ひとりじゃ無理だ……加勢するよ」
「ま、こういう時ぐらい見栄はっとかないと、お兄さん役立たずだって思われるしねぇ」
 マクスウェルにしろクドにしろ、平静そのものの口調とは裏腹に、全身から噴き出る闘争心はシズルなどの比ではない。
 流石につかさも、左右をこういう頼もしい連中に固められると、心強く感じるものであった。
 そんな三人に、エメラルドアイズはまさに一瞬と呼ぶべき速度で距離を詰めてきた。
 ……が、どういう訳か、そこで動きが止まってしまった。

 最初に異変を感じ取ったのは、加夜だった。
「もしかして……美晴さん!?」
 慌ててシズル達のところへ駆け寄ってきて、エメラルドアイズに乗っ取られている美晴の面に視線を飛ばしてみる。すると、つい今の今まで能面の如き無表情さで血飛沫の嵐を撒き散らしていたのがまるで嘘のように、その表情は苦悶と怒りに満ちた、激しい色へと染まっていた。
「……今だ……早く、いってくれ……」
 全身を硬直させ、激しく奥歯を噛み締めて立ちすくむその姿は、まさしく美晴当人であった。瞳のエメラルドの色合いが、僅かに薄まっているように見えるのは、気のせいだろうか。
「そう長くは……持たねぇよ……後生だから、早く……」
 美晴の言葉にいち早く反応したのは、つかさだった。彼女は得物を素早く仕舞うと、シズルに振り向いて、ひとこと。
「いきますよ、シズル」
「えっ、でも、師母殿……美晴さんをこのまま放っていくのですか!?」
 だが、つかさの面に迷いの色は無かった。
「美晴様のご尽力を無に帰することこそ、無体」
「……ま、ここはこのお嬢さん、いやお師匠さんかな? に、従う方が正しいさね」
 クドは小さく肩を竦めると、その場を離脱せんと足早に斜面を駆け上り始めた。他の面々も、大なり小なり打撃を受けてはいるが、斜面を走る程度の体力は残されている。
「美晴さん……ぜぇーったい! このピンクレンズマンが助け出してあげるからねぇ!」
 いささか後ろ髪を引かれる思いながらも、あゆみは敢えて大声で宣言することで、自身を納得させているようであった。
 その傍らでは、美晴とは直接面識は無いものの、自らの意志の力を駆使して自分達を助けようとするその姿には、リアトリスは幾分感銘を受けた様子で、斜面を駆け上りながら、何度も後ろを振り返っていた。
「辛いだろうけど、頑張って……僕達が何とかしてみせるから……!」
 リアトリスだけでなく、加夜、或いはエヴァルトといった面々も、エメラルドアイズを抑え込んで佇み、全身を凝固させている美晴の苦しげな後姿を、その目に焼きつけていった。