リアクション
* * * 「この辺りはマシかな」 周囲の樹木たちに目を配りながら、小鳥遊 美羽(たかなし・みわ)はほっと胸をなでおろした。 バルバトスの攻撃は主に建物に向けられていた。無論、それ以前の飛行型魔族の攻撃があり、無傷というわけにもいかなかったが、カルキノスや淵、それに地上で動いていた真人たちの奮闘のおかげで、中庭や前庭といった所は比較的破壊度が低い。 奥宮にある東カナン一と言われる空中庭園もまた、崩壊はまぬがれているように見えた。 木々のアーチを抜け、池の上の橋を渡る。やがて美羽は、空中庭園の一角に設けられた、ハダド家霊廟へとたどり着いた。 「美羽……来てくれたのか」 柵におおわれた向こう側、彼女の気配に気づいたバァルが振り向く。 会談用の正装から着替えた彼は、よく見る黒の普段着姿だ。めずらしく、帯剣もしていない。 「空中庭園も被害を受けたって聞いたから。でもエリヤ、無事だったんだね。よかった」 倒壊した塔の破片を避けて近寄った美羽は、しゃがんで少し傾いていた天使の像を元に戻す。ぱっぱと砂埃を払い、墓碑の前で手を合わせた。 そんな彼女の丸まった背中を無言で見つめていたバァルは、やがて、ふいと視線を空にずらす。 昨夜起きたことを思えば、皮肉なほどに青い空。 思えば、エリヤが死んだ朝もこんな空だった。人の世の悲劇などおかまいなしに、空は青く、美しい。 「美羽……今日はじめて、ほんの一瞬、わたしはあの子がいなくてよかったと、思った。こんなアガデの姿を……不甲斐ない兄の姿を見せずにすんで、よかったと……。 どこまでも身勝手だな、わたしは」 「そんな! バァル、そんなことないよ!!」 感情は押し殺されていたが、声に含まれた隠しきれない悲痛さを感じ取って、美羽は懸命に反ばくする。 彼女を見返すバァルは、どことなく笑んですらいた。だがそれはあきらめの笑みだった。彼女がそう言ってくれるのは分かっていたと。だが現実はそうなのだと、言わんばかりに。 どうすればこの笑みを打ち消すことができるだろう? あの瞳のかげりを飛ばせる? もどかしい思いで言葉を探す美羽の前、バァルは続ける。 「最後にあの子が目覚めたとき。わたしはあの子に「おまえなしでは幸せになれない」と言った。あの子は「なれる」と答えた。 わたしよりずっと賢い、聡明なあの子の言うことだから、きっとそうなのだろうと……そうなろうと、わたしなりに頑張ってきたのだが……。 幸福になるというのは……案外難しいものだ……」 もう、どうすればそうなれるか、分からない。 こつん、とバァルの額が美羽の肩に当たった。 「少し……こうさせてくれ……」 押しつけられた場所で、温かなにじみが広がっていくのが分かった。 バァルが泣いている。 だがそうと知っても、かける言葉が浮かばなかった。 だから美羽は、こみ上げた涙を懸命に我慢して、かすかに震えているバァルの背に手を回す。そこでこぶしをつくり、熱くなった目からこぼれ落ちそうになる涙を拒否するように、彼女はひたすら空を見上げていた――。 * * * 気持ちを落ち着かせ、部屋へ戻ろうとするバァルをルオシン・アルカナロード(るおしん・あるかなろーど)は外回廊の壁にもたれて待っていた。 遊歩道を歩いてきたバァルが自分に気付いたのを見て、腕組みを解く。 「まだロノウェ達と話し合う気はあるか?」 「――今のわたしにそんなことを訊くな」 「では憎しみで戦うのか、あの魔神たちと同様に」 カッとバァルの面に怒りが走る。 「憎しみの持つ力をあなどり、おまえの警告を退けた、わたしがおろかだと言いたいのか……!」 「そうではない。あれはもう過ぎたことだ。 だがそうやって憎しみに憎しみをぶつけたところで、最後に何が残る? この戦いに参加した魔族をすべて滅ぼせば満足か? 彼らにも親族はいるだろう。今度はその憎しみが人間へとおよぶ。憎しみは憎しみを呼びこそすれ、憎しみを消すことはできない。それとも、完全に滅ぼすまで終わらせないつもりか? あの魔神のように。 憎悪にとらわれ憎しみのために剣を抜くな、バァル。武器はひとを救うため、命を守るためにあることを、おまえは知っているはずだ」 ルオシンは感情を排斥し、あくまで冷静に、理詰めで話を進めようとする。 しかしそれが逆にバァルの自責の念を刺激し、追い詰めていることには気付けていないようだった。 沈黙ののち、バァルは低くつぶやく。 「わたしがどうあろうと、民が許さない。民は報復を求めるだろう」 それに、血の報復を求める気持ちがはたして自分にないのかも、バァルには疑問だった。今、彼の胸を占めているのは凶暴なまでの怒りだ。これほど純粋な怒りを感じたことがあっただろうか。 身内で熱く煮えたぎるそれを、今のところなんとか自制できてはいるが、このまま、どこまで抑えられるか分からない。そしてそれが自制の鎖を切って解き放たれたとき、どんな炎と化すか、バァル自身にも予測がつきかねた。 そんな彼の思いつめた横顔に、ルオシンは厳しい視線を向ける。 普通の者ならそれでいいかもしれない。だが彼は、一国の指導者なのだ。 「東カナンの未来を決めるのはおまえだ。そこへ民を導くのも。 戦いに次ぐ戦い、流される血と涙、連綿と続く墓標……それが東カナンの未来か? 今の凄惨な光景が後世まで続くことが。 憎しみの連鎖に民を巻き込むか、解き放つか、決めるのはおまえだ」 「では彼らを許せと? おまえはこれらをすべてなかったことにしろと言うのか! 彼らのしたことに目をつぶり、忘れて、過去の出来事とし……そしてザナドゥへ行くべきではないと!?」 「いいや。あの地へは行かなくてはならない。だが戦いに行くのではない、我らはあくまでアナト姫を救うために行くのだ。 まだおまえには救わなければならない……取り戻せる存在が残っている」 「――そうだ」 彼女を救い出す。なんとしても。 たとえ、この命にかえても。 顔を上げて歩いて行くバァル。その背に、ルオシンも続いた。 憎悪に飲まれるか、それとも、なお和平を望むか。 人間は今、試されているのかもしれない。 『アガデ会談 了』 担当マスターより▼担当マスター 寺岡 志乃 ▼マスターコメント
こんにちは、またははじめまして、寺岡です。 |
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