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58


「今日は死んだ人に会える日なのよ。だから兄ぃにも会えるの!」
 と、嬉しそうに柳尾 みわ(やなお・みわ)が言うのに対し、東條 カガチ(とうじょう・かがち)は「へえ」と気の抜けた声で返した。
 ――みーちゃんたらまぁた何処かで何か吹き込まれちゃって。
 生き返るわけでもあるまいし、死んだ人に会えるなんて余程のことがない限り無理じゃないか。
 ……と思っていたら、ナラカの異常気象だとかでパラミタとを繋ぐ門が開いたという。
 余程のことがあったらしい。
 いや世界って不思議。ひとつ頷いて、鼻歌交じりに出かける支度をするみわを見た。えらく張り切ってらっしゃるようで。
 一人で行かせるのもなんだし、みわの兄とやらにも興味があるし。
「みーちゃん、俺も付いてっていい?」
「いいわよ! カガチのことも兄ぃに紹介してあげるっ」
 軽い気持ちで同伴宣言。
 みわも胸を張って頷くから、まあ良い提案をしたのだろう。たぶん。


 さて、カガチが持っていた興味本位の軽い気持ちはそれから一時間もしないうちに崩れることとなった。
「兄ぃー!」
「おまえ、みぃか! えれえでかくなったじゃねえか!」
 なぜなら、みわの『兄ぃ』こと銀次の姿は自分とそっくり瓜二つ。思わずまじまじと彼の顔を見てしまった。
 年の頃は三十前後。伸びた黒髪を後ろでひとつに束ねているところも同じ。月のように光る金色の目も同じ。
「でもしっぽはかわんねえな」
 くっくっと意地悪く笑う薄い唇も。
「しっぽのことはいわないで! どうせ兄ぃみたいなきれーなしっぽじゃないもん……」
「すまんすまん、ははは」
 屈託なく笑うときの顔も、たぶん同じなのだろう。
 違うところは、鼻柱に一文字の傷があるところと、黒い耳と尻尾が生えているあたり?
 ――でも俺、超感覚猫だしねえ……。
 そんなところまでまるっきり同じだなんてこれはもしや、
「俺、生き別れた双子の獣人とか居たのかねえ?」
「あ? なんだあんた、俺の生き別れなのかよ? 道理で似てるはずだわな」
「いやいや、居ないし」
 敢えて口にしてみたボケに、自分でツッコミ。
「兄ぃ、この人はカガチっていうのよ。あたしのパートナーなの!」
「へえ、そうかい。似てるのは外見だけじゃなくってみぃを可愛がるところもなんだなあ」
 ぐりぐりとみわの頭を撫で、銀次が笑った。みわもくすぐったそうに笑う。
「そうだ。今お祭りやってるのよ」
「祭り?」
「うん。兄ぃ、お祭りしってる? 面白くて美味しくてきらきらで楽しいのよ!」
「いいじゃねえかよし、みぃに案内してもらうかあ」
「いいわよ! それじゃこっち!」
 得意げにみわが先導して歩く。その隣を、銀次。一歩下がってカガチは歩く。
 それなりに勝手知ったるこの場所だ。ふらふらとあっちへ行ったりこっちへ行ったりするみわよりも、カガチが案内する方が適任なのだけれど。
 ――せっかくだし。親子水入らずを邪魔したくねえもんなあ。
 そういうわけで、傍観者に徹することにした。
「あ! 兄ぃ、これ知ってる?」
 みわが足を止めたのは、綿菓子の屋台。
「なんだよこれ、食いもんか? 空に浮かんでる雲みてえだけどよ」
「そうよ、食べ物なの。すっごく美味しいのよ。ねえカガチ、買って!」
「はいはい。おいちゃん、綿菓子みっつね」
 こうなることも予想していたからついてきたのだった。
 みわは財布を持っていないし、死んでナラカへ行った存在が金を持っているとも思えない。
 ――というわけで、俺の懐はどんどん減っていくのでした……。
 自作自演のナレーションを心の中に流していたら、屋台の主人が綿菓子を渡してくれた。それをそのままみわと銀次に手渡す。
「へえうめえな、みぃはよく知ってんなぁ」
「でしょ? 兄ぃが気に入ってくれてよかったっ」
 銀次が喜ぶ様子を見て、みわも素直に笑い。
 さらにそれを見ていたカガチが、ほむ、と綿菓子を食みつつ眺める。
 ――いやはやなんだかほっこりするよねえ。
 いつもはツンツンツンデレくらいの割合のみわが、今日に限って――というより、銀次に対しては近年稀に見るデレである。
 無駄に高飛車ぶっているのはいつものことなのだけれど、
「兄ぃ! 次はあっち!」
「なんだありゃ? 変な形してんなぁ」
 全力で甘えているのが見て取れるし。
 これは傍観者も良いものだ、と頷いていたら。
「あれ? 蒼だ」
 はしまきの屋台に向かうみわの足が、ぴたりと止まった。
 視線の先には、彼方 蒼(かなた・そう)の姿。蒼の傍には椎名 真(しいな・まこと)も居た。
「蒼?」
 きょとん、とみわが呼んだ名前を銀次が繰り返す。ややして、「あああの犬のガキか」と自己解決。
 みわはみわで、蒼の姿を見つけてそわそわしている。
 とん、と彼女の背中を押したのは、銀次だった。
「いっといで、みぃ」
「いいの?」
「おうよ。俺はこの双子の兄だか弟だかとぐだぐだ喋ってっから楽しんでこいよ」
「じゃあ、あたし蒼と花火見てくるっ」
 ぱたぱたと蒼の許へと走るみわが、一度くるりと振り返り。
「あとで兄ぃにも紹介してあげる!」
「蒼ってガキを?」
「そうよ! あたしの大事な家来なの!」


 みわが離れていき、カガチは銀次と二人きりになった。
「さぁてと。みぃもいっちまったし同じ顔同士でだべるとすっかね」
「そうさねえ……。向こうは向こうで大人も居るし、任せておいても大丈夫でしょ」
 大の男が二人で何をするかといえば?
「まず酒が無きゃはじまんねえな」
 するりと日本酒を取り出して。
「お? 酒か良いもん持ってんじゃねえか」
 反応を見るや、酒好きなところもそっくりときた。
 ぐい飲みを渡して、
「ささ一献」
 酒を注ぐ。
「っとっとありがてえないただくぜ。ああそのまえに注いでやるよ」
「こりゃどぉも」
 互いに酒を注ぎ合ったなら、軽く掲げて乾杯。
「ところでようあんた耳としっぽ出せんだろ? 出してみろよ」
「ああいいよ。それこそ双子になっちまうけどねぇ」
 言われるがままに耳と尻尾を出したら大爆笑された。
「はは愉快愉快」
 陽気に笑って、酒を酌み交わす。
「みぃはよう捨て子だったんだよ」
 しばらく飲んでから、不意に銀次がぽつりと零した。
「拾ったときは随分上等な布にくるまれててよ。あいつ多分本当にどっかのお姫様かもしんねえ」
「ああ、だからお姫さんって呼んでたんだねぇ?」
「みぃから聞いたのか?」
「みーちゃん、あんたに会えるってなったら話しだして止まらないんだもの。色々教えてもらったさね」
 そうかい、と銀次が笑った。カガチは彼の空になった杯に酒を注ぎ足す。
「でもよお姫さんだとしてもよ、拾っちまったのは俺みたいな盗賊でよ。真っ当な生活させてやれなくて」
 注がれた酒を呷りながら、銀次が話を続けた。
「これ最後の仕事に真っ当に生きようって思ったらコレだ」
 人差し指で、首を掻っ切るような仕草。
「死刑」
「ああ。でまあどうなるもんかと思ったが……あんたが良い奴そうでよかった」
 ふっと笑った時の目は、ひどく優しいものだった。
「ところでよ、あれ」
 不意に声のトーンが変わる。銀次が見ていたのは、みわと蒼の姿だった。仲良く並んでベビーカステラやらあんず飴やらを食べている。
「みぃあいつに惚れてるだろ」
「そうさねぇあれは確実だねえ」
「だよなあ。……ありゃあ良い男になるぜ」
 だよねだよねと頷いて、二人してによによと見守る。
「犬なのはちっと気に入らねえが……みぃには、ちゃんと幸せになってほしいもんな」
「ああ、大丈夫、蒼くんあれで随分しっかりしてるから。二人で迷子になった時だってしっかりみーちゃん連れて戻ってきたんだから」
「そうかい。なら安心だ」
 言って、銀次が立ち上がった。
「そろそろ時間だし帰るとすっか」
「ん? お別れはいいのかい」
「……顔見たら名残惜しくなるだろ? みぃのことよろしくな」
 にっと笑ってひらり手を振った銀次へと、
「おう、任しといてぇ」
 カガチは笑顔で見送った。


 時は少し巻き戻り。
「蒼ー!」
 みわが大きな声で名前を呼ぶと、
「あ! みーちゃーん!!」
 蒼が元気よく手を振ってきた。みわはぱたぱたと駆け寄って近付く。
「蒼、一緒に花火見るわよ」
「はなび? みーちゃんといっしょ?」
「そうよ。嫌とは言わせないんだから」
「いやじゃないよ! みーちゃんといっしょ、みーちゃんといっしょ!」
 蒼の尻尾がぱたぱた動く。嬉しそうである。みわもちょっとだけ、嬉しくなった。もちろん表には出さないけれど。
「じゃあ行くわよ。よく見える場所をとらなくっちゃ!」
「あ、ちょっとまってっ」
 みわを待たせた蒼が、真に近付いて耳元に何か囁いていた。何を言っているのかはわからない。
 ――早く戻ってくればいいのに。
 心の中で呟いて、空を見上げた。と、空砲が鳴る。そろそろ花火が上がるだろう。
「おまたせみーちゃん!」
「ふん。あたしを待たせるなんて、いい度胸して――」
 るわ、と最後まで言い切る前に。
「はいっ」
 ベビーカステラと、あんず飴を渡された。
「みーちゃんのぶんの屋台のおやつかってきたのー!」
 にぱー、と笑顔で言う蒼に。
「……おやつ? あたしに?」
 ちょっぴり、困惑。
「うんっ。みーちゃんのことよろこばせたかったのー」
 はにかんだ蒼に言われたことが妙に気恥ずかしくて、ぷいっとそっぽを向いた。
「と、当然よね。だってあたしはお姫様だもの!」
「みーちゃんひめー。これ、すき?」
「……嫌いじゃないわ。蒼のくせに、やるじゃない」
 ちょっぴり褒めると、わぁいと万歳して喜ばれた。
 ありがとうと言うかどうか迷っているうちに、どぉんとまた、大きな音。
 今度は空砲じゃなかった。夜空に火の花が咲いている。
「ほのおのおはなー!」
「綺麗っ」
 蒼と同時に歓声を上げて、空を見上げた。
 だけど、ここからじゃ遠すぎる。場所が低すぎるのだ。
「あうぅ、もうちょっと高いところから見たいぃ……」
 蒼も同じ意見らしい。
 二人して歯噛みしていると、
「花火か、よしおっちゃんが肩車してあげよう!」
 突然背後から声をかけられた。振り返った先に居たのは、もっふりヘアのつなぎを着た陽気な男。銀次と同い年くらいの彼は、言うが早いか蒼のことを肩に担ぎ上げた。
「ていうかだれよこのおじさん。蒼の知り合い?」
「ううん。おじちゃんだーれぇ?」
 どうやらまるっきり知らない人物らしい。
 不信感を募らせてるみわに、男はあくまでフレンドリーに明るく話しかけてきた。
「かわいいねこちゃんもほら、」
 と手を伸ばしてきたので、
「ちょっとさわらないで! あたしをだれだと思ってるの!」
 ぴしゃりと言って、手を止めさせた。
「え? いや?」
「あんたみたいなへんなおじさん兄ぃに怒ってもらうんだから! ちょっとまってなさいよね!」
 びしっと人差し指を突きつけて、それから一目散に銀次と分かれた場所まで戻る。
「兄ぃー! ……あれ?」
 が、そこに居たのはカガチだけ。
「兄ぃは?」
「もう帰ったよぉ」
「なんだ、帰っちゃったの」
 ちょっとだけ残念だった。ばいばいって、またねって、言ってないのに。
「兄ぃ、今度はいつ会えるかしら」
「……さあねぇ」
 杯を傾けるカガチの顔が、少しだけいつもと違うような気がした。


 みわ曰く『へんなおじさん』であるところの彼、ファン・ダッシは、蒼――というのは真たちがつけた名前であり、彼の本名はユニー・ダッシという――の父親である。
 現世に戻ってきて、蒼を見つけて、ユニーと呼びかけようとしたらみわがやってきて。
 会話を聞いていて理解した。
 ユニーは蒼という名前に変わったこと。
 自分が死んだ日のまま、彼の時は止まってしまっているということ。
 だから、ファンは父親だと名乗ることをやめた。
 混乱させてしまうだろうし、何よりとなりの彼女との仲良し具合を見ていたくなって。
 ――よーし、ちょいとばかりついていっちゃうぞー。
 こっそりとつけることにした。
 並んで話す二人にほっこりしてみたり。
 真からお金を貸してもらって、みわを喜ばせるためにおやつを買いに走ったときはきゅんとしたり。
 それから。
 ――あのぬいぐるみ……。
 蒼がずっと持っているわんこのぬいぐるみを見て、胸がきゅっとした。
 あれは、ずっと前にファンが蒼の誕生日に贈ったものなのだ。
 ――……覚えてないだろうに、大切にしてくれてるんだな。
 気を抜いたら涙腺が緩みそうだ。
 ――これだから歳を取ると嫌だなくそう。
 なんて心中で涙を拭っていると、蒼とみわが空を見上げているではないか。
 なるほど空には大輪の花。
 しかしおちびさん二人にはよく見えていない様子。
 ――ははあ。ここは自分の腕の見せ所だな!
 というわけで。
「花火か、よしおっちゃんが肩車してあげよう!」
 と、蒼を抱き上げた次第なのであった。
 みわが走り去ってからも、蒼は素直にファンに肩車をされたままでいた。我が子ながら警戒心がないなあと思う。
「どうだい。花火見えるか?」
「うんっ、よくみえるよー! おじちゃんありがとぉ」
 笑声が頭上から降ってきた。肩車をしているし、蒼は空を見上げているから表情は窺えないが、きっと満面の笑みなのだろう。
 十分にも満たない時間だっただろうか。ファンが蒼を肩車していたのは。
 ――もう帰る時間か、ナラカに……。
 時計なんて持っていなかったけれど、わかった。
 だって、呼ばれているのがわかるのだもの。
「おっちゃんなー、そろそろ旅に出るよ」
「ほえ?」
 突然の発言に、蒼が素っ頓狂な声を上げた。
「旅ー?」
「そーだ。長い旅だぞー。くたびれちゃうかもしれないなー」
 でも、今日のことを思い出したら、永い時でも腐らずに居られると思うのだ。
 蒼を降ろし、頭を撫でる。……昔撫でた感触と、同じだ。懐かしさに顔が綻ぶ。
「そっかー、またあそんでねぇー!」
 にぱー、と笑って言う蒼に、ファンは笑いかけた。
「おう! でっかく育てよ、小僧!」


 また時間は少し巻き戻り、まだみわやカガチ、銀次が祭り会場に到着する前。
 真は真っ赤な石のループタイを見て、高祖父のことを考えていた。
 今日、死者がナラカから蘇るという話を祖父に話したところ、「勉強になるだろうから色々聞いてきなさい」と言われ、渡されたループタイ。
 タイの持ち主の名は椎名 理
 椎名の家系で一番技術力があり、そして一番食えないであろうという人物。
 ――食えない人というか、変人らしいけど……。
 一体どういう人なのだろう。
 僅かに緊張しながら、時を待った。
 待った。
 じっと待った。
 ――……誰も来ない?
 疑問に思って首を傾げ、ループタイをまじまじと見つめていると。
「くっくっ……」
 隣から、笑い声が聞こえた。
 何だ? と横目で笑った相手を見る。隣には立っていたのは、黒髪短髪の執事服を着た青年だった。
 相手が素知らぬ顔をしていたので、こちらもまた視線をタイに戻し。
「……!?」
 ばっ、と今度は相手を凝視した。
 夏祭りに執事服という異質の出で立ち。
 よくよく見ると、知っている顔に似ていた。
「……もしかして、貴方は」
「ああ、やっと気付いた。このまま門が閉じる時間まで気付かれなかったらどうしようかと思ったよ」
「椎名理……さん?」
「いかにも私が」
 にっこりと笑って言う彼に、脱力した。
 一体いつから隣にいたというのだ。そもそも、気付いていたなら声を掛けてくれればいいのに。今日一日、それも半日の間しか時間はないというのに。
「初めまして。俺は玄孫にあたる椎名真といいます」
 まずは、名乗る。
「ところで……若い、ですね?」
 どう見たって、相手の年齢は二十歳そこそこだ。若くして亡くなったと祖父から聞いていたけれど、まさかこんなに若いとは思わなかった。
「病気で早死にしたからねぇ」
「あと、知り合いに似ています」
「似てる? んー……、……ああ、そういや勘当された弟が居たなぁ。よくからかって遊んでたが、ははは。今は何をしてるのかなぁ」
 ちなみにその頃、似ている相手――椎葉 諒(しいば・りょう)はナラカにて「やたらナラカに人がいねぇ……」とバイト先の人手が足りずてんやわんやだったりしたのだが、真も理も知る由はない。
 それはさておき。 
「俺も執事をしています。技術力は家系の中で一番だったとお聞きします。ぜひお話を――」
 真が本題に入ろうとしたところで、理が手のひらを真に向けて突き付けてきた。
 ストップ。
 無言の圧力に言葉を切ると、理は涼しい顔をして、
「会話は茶を交えてからにしてくれるか?」
「……茶?」
「煎茶がいい。あと煎餅もな」
 欲求を突き付けた。
「煎茶……?」
 戸惑っていると、「蒼ー!」とみわが蒼へと駆け寄ってくるのが見えた。
「蒼、一緒に花火見るわよ」
「はなび? みーちゃんといっしょ?」
「そうよ。嫌とは言わせないんだから」
「いやじゃないよ! みーちゃんといっしょ、みーちゃんといっしょ!」
 と、二人は話を進ませて。
 みーちゃんの保護者はどこだろう、とカガチを探すと、少し離れた場所に二人いた。
 ――……二人?
 全く同じ姿形の二人が、同じように笑って酒を飲んでいる。
「……双子だったのか、カガチ……」
 そんな話は聞いたことがなかったが、まあ問題はそこではない。
「俺たちはここにいるから、決めた時間に戻っておいで」
 ちびっこ二人に気をつけてもらうことが重要だ。
「あのね、あのね、にーちゃ、」
「うん。お金は、使いすぎないようにね」
 小さな財布を蒼に渡して、いってらっしゃいと手を振った。
 楽しそうに歩いていく二人の後をこそこそとついていく人影が見えたような気がした。
 ――?
 その人の顔も、どこかで見たような。
 でももう彼の姿は後ろ姿しか見えないから確認しようがないけれど。
「お茶はー?」
「あ、はいっ」
 そして急かされてしまったので、用意することにした。


 椎名家の教えに、『話を聞けるなら聞き、学べるものは学べ』というものがある。
 ――けど。
 ――マナベルカナコノヒトカラ……。
 思わずカタコトになってしまうほどに、理の答えは素っ頓狂なものが多かった。
 たまに的を射ていることも言うものだから、どこまで信じて本気にしてもいいのか、非常に迷う。判断し難い。
 終いには、
「君は実に茶化しがいがあるねぇ。弟と同じかそれ以上かもしれない」
 などと言われてしまったものだから、ああもう真面目な質問はやめよう、と決めた。
「他に聞きたいことは?」
「えーと、じゃあ……弟さんの勘当理由を聞いても?」
「君。諦めたね?」
「イヤー、ハハハ。ナンノコトヤラ」
「わかりやすい反応だ」
 空笑いをもう一度して、煎茶を飲んだ。
 まあいいけどねと理が言って、
「恋したそうだ」
「え」
「雇い主のお嬢さんとな。それで勘当された挙句に駆け落ち。まさにロマンティーック」
 両手を広げ、大仰な様子で教えてくれたが。
 ――さあこれは本当か、嘘か。
「わが弟ながらあっぱれだった。いや愉快だったなぁ」
「愉快って貴方」
「ところでさっきの犬耳は? 養子でもとったか、その若さで? 執事の勉強はどうするんだ?」
「茶化さないでください、さっきから」
「くけけ冗談だ」
 ――……この人は。
 俺は真面目に聞いているというのに。
 そう思ったことが態度が表れてしまったのだろうか。理が煎茶を飲み干して、立ちあがった。
「呼んでもらった礼をしてやろう」
 かかってきなさい、全力で。
 そう言うように、右手をくいくいと動かした。挑発? 誘い? それとも単なる気まぐれ?
「俺の全力を見せてやるのは一瞬だけだぞ。よーく見てよーく学べ」
 いや。
 ――これは、本気。
「……行きます」
 だから、こちらも全力で。
 結果だけ言うと、真の全力は理に通用しなかった。
 ああ、これが『一番』か。『一番』はこれほどまでに技術力が高いのか。
「まぁよく出来てる方なんじゃないの」
 執事服についた埃を払うような仕草をしながら、理が言う。
「身体大事に長生きしなさい。そうすればいつか私にも追いつけるし、追い抜ける」
「貴方を越えられると?」
「そりゃ君の努力次第さ。当たり前だろ?」
 返す言葉もなく、ああ頑張らないと、と息を吐くと。
「君なら大丈夫。私の孫なのだからね」
 最後の最後で、認めるから。
「……ありがとうございました」
 茶化されたことも、からかわれたことも、突然の煎茶要求という無茶振りも、全部小さなことに思えた。
 感謝の言葉に、理はひらりと手を振って。
 そのまま、かき消えていってしまった。


 今日あったこと。
 それは、各々の心に、必ず何かを残していた。
 それがこの後どういう形となるのかは、彼ら次第。