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ルペルカリア祭 恋人たちにユノの祝福を

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ルペルカリア祭 恋人たちにユノの祝福を

リアクション

 カコンッと静かな庭園に鹿威しの音が響く。昔ながらといった古い日本の趣ある雰囲気のこのエリアでは、ルース・メルヴィン(るーす・めるう゛ぃん)ナナ・マキャフリー(なな・まきゃふりー)が向かい合って静かにブーケを作っていた。オランダでの幸せそうな結婚式を見た後、2人でゆっくり話し合いたくて、静かなこのエリアを選んだ。
 良く言えば落ち着きのある、悪く言えば若者から見れば古くさい印象があるのか、西洋風の建物が多い中で物珍しさに立ち寄る人はいても、この雰囲気を楽しみたい恋人達は誰も落ち着いた人ばかりで、騒がしい人など5分と見て回らずに去っていくので平穏だった。
「ナナ、どうでしたか? 結婚式は」
 感情表現が薄く表情を中々読み取れない彼女には、こうして尋ねないと理解してあげられないことが歯痒く思うが、それでも微笑んでくれることは増えたと思う。
 縁側のあるこの部屋では、彼女の飼い猫が丸くなって眠っている。彼女だけでなく、その家族であるミケにも結婚式の雰囲気を味わってほしくて連れてきてもらったのだが、こうして2人で向かい合っているとつまらなくなってしまったのかお昼寝中だ。
「……幸せそう、ということは伝わりました。ルース様も憧れますか?」
 じっと見つめ返されて、呼び名を間違えてしまったことに気付く。
「ルース様……ではなく、ルースさん、ですね。中々慣れないのです」
 恋人とは特別な呼び方をすると教えてくれたけれど、今日が初めて恋人と過ごす特別な時間。気付いてくれたことが嬉しいのか、ルースは焦ることはないと優しく微笑んでくれる。
「ナナ、ブーケを一緒に作ると幸せになれるらしいですよ。きっと幸せになりましょうね?」
 頭を撫でてくれる手は大きくて、その温もりをずっと感じられればいいなと小さく微笑み返す。
(ルースさんは、こうやってナナに笑い方を教えて下さいました。共に笑ってくれるとも……)
 ブーケの花はお互いに選びあって、もうすぐ形になりそうだ。そのときは伝えられるだろうか、この祈りは届くだろうか。
「ブーケには幸せを呼ぶ力があると、聞いたことがあるのです。なのでナナはルースさんの幸せを祈るのです」
 最後のリボンを結んで、ルースにブーケを手渡す。普段は中々想いを伝えることは出来ないが、今日はちゃんと伝わるだろうか。
「では、オレの分も受け取って頂けますか? この中に1つだけ、オレの誓いがあるんです」
 全体的にはナナのイメージに合わせて柔らかいイメージの花を選んだけれど、どうしても外せない花があった。それは、花言葉に「変わらぬ愛・誠実」の意味を持つ桔梗。一度、自分のせいで全て失ってしまったからこそ、今度は決してそんな事はしないと固く誓いを込めてブーケに加えた。
「ルースさんの誓いが、ここに……?」
 その花言葉の意味は分からないけれど、真っ直ぐな視線に安心出来るナナは大切な宝物のように優しくルースのブーケを抱きしめた。
「次は、それに似合うドレスに着替えてみましょうか。もちろん、ミケもね」
 呼びかけられたことでピクリと耳を動かしてまだ眠るミケに2人で苦笑する。ドレスを着て、腕を組んで歩いてみて。そうやって自分が幸せだという気持ちをもっと伝えられたらいいなとナナは微笑む。自分の幸せが、大切なルースの幸せになると信じて――。
 隣の部屋では菅野 葉月(すがの・はづき)ミーナ・コーミア(みーな・こーみあ)が静かにブーケをテーピングし始めているところだった。花を切りそろえているときはまだ余裕があったからか会話も弾んだが、ワイヤーに続いてテーピングと集中力のいる作業になって、自然と口数が減ってしまい、静かというよりもほんの少し暗い空気が立ち込み始めているかもしれない。
(ワタシは、もっと葉月と話したいんだけどな)
 黙々と作業する葉月の顔をちらりと見て、彼女は自分のことをどう思っているのだろうかとふと思う。こうして付いてきてくれる、ということは少なくとも嫌われていないと思う……多分。自身がないのは、改めて考えると無理矢理誘ってしまったような気がするからだ。
 思えば、全てアプローチは自分から。パートナーの契約だって告白同然で迫り、ずっとアプローチをし続けているというのに2人の仲は進展するどころか反応自体がよろしくない。
(……ワタシがあまりにしつこいから、渋々付き合ってくれているのかな)
 普段は口数の多いミーナも、半年以上続くこの関係が心配になってきたのだろう。黙っていると考えたくないことまで考えてしまう。ふと振り返った先にあるガラス障子は、磨りガラスの模様が入っているのでハッキリと隣の様子は見えないけれど、幸せそうな2人にここへ強引に誘った理由を思い出す。
「葉月! ブーケって花を束ねるだけじゃないんだね。難しくない?」
 まずは本題を振る舞えにこの空気を払拭しよう。そう思って止まった会話を再開するように声をかける。けれど、作業に集中しているというより物思いに耽っていたようで、少し反応が遅れた。
「あ、あぁ。そうですね、力仕事ですし……ミーナは疲れていませんか?」
(……びっくりしました。まさかミーナのことを考えているときに声をかけられるなんて)
 この静かな時間はやはり想いの確認をするには良い機会で、このエリアに来るまで見かけた恋人たち、そしてミーナからの積極的な愛情表現……それに対して、自分は彼女に失礼な態度をしていたのではないかと考え込んでいた。
「ミーナは、つまらなくないですか? 僕といて」
「どうして? 葉月と一緒にいられるのに、嬉しくないわけないよ」
 元気に笑う彼女を見ると、胸がチクリと痛む。いつでも真っ直ぐに気持ちを伝えてくれるのに、自分からは友達以上恋人未満というような関係で接していた気がする。もっと他の恋人達のように過ごしたいのではないかと思うと、曖昧な気持ちのままいることはミーナにとって失礼なのではとさえ思う。
「ありがとう、そして……すみません。まだしばらくは、ミーナの優しさに甘えてしまうかもしれません」
 自分の気持ちはどこに向くべきものなのか。その答えさえ出せればもっとミーナに優しく出来るだろうか、それともハッキリとした答えは傷つけてしまうのだろうか。今すぐに答えは出せそうにないけれど、そんな自分でも一緒にいてほしいだなんて言えるわけもなく。
「……大丈夫だよっ! ワタシは葉月といられたら、それで幸せだもんっ」
 本当は、ハッキリとした答えを聞きたかった。不安に思わなくて済むような安心する言葉が聞きたいと思ったけれど、押しかけた自分のことを葉月は真剣に考えてくれている。それは、凄く幸せなことじゃないだろうか。
 なんとも思われてないわけじゃない。それがわかっただけでもミーナにとっては意味のある日で、葉月はもう少し彼女のことを考えないといけないなと、暫く眠れぬ夜が続きそうだと苦笑するのだった。
 ベネルクスと呼ばれる小国のひとつである、ルクセンブルクの町並みを表現したこのエリアでも、ドレスの試着会が行われていたようだ。
 学舎が違って中々会う機会に恵まれない佐々木 弥十郎(ささき・やじゅうろう)水神 樹(みなかみ・いつき)は、このバレンタインにデートが出来ることを喜びセンスアップ体験を行うことにした。つきあい始めて数ヶ月が経ったものの、2人の初々しさは健在で見ているこっちが恥ずかしくなるようだ。
 何着か姿見で合わせて候補を決めると、待ち合わせ場所だけ決めて試着室へ向かうために別れる。最終的に彼女は何を選ぶだろうか、どんなメイクをされるのだろうかと楽しみでもあれば気恥ずかしくもあって、弥十郎は着替える前からそわそわし始めていた。
 そうしていると、既に着替え終わったクライス・クリンプト(くらいす・くりんぷと)が向かいからやってきた。彼もまた学舎の違う如月 空(きさらぎ・そら)との初デートに気合いを入れており、一緒に選んだドレスに着替えている間に驚かそうと、手早くタキシードに着替えたのだ。
「試着室、今なら2部屋ほど空いていましたよ。……あなたもデートですか?」
 あなたも、と言うことで自分もそうなのだという認識をしてしまい、少し恥ずかしいことを聞いてしまった気分になるクライスと同じように、弥十郎も幸せそうな照れ笑いを浮かべる。こんなことで照れているから、模擬結婚式の参加権を勝ち取れなかったのだと思うが、もし勝ち取っていたのなら、この初々しいカップルはどんな式を挙げたのだろうか。
「えっと、同じ薔薇学生の方ですよね? 良ければ着替え終わった後のお相手をお願いしてもいいですか?」
 女性は着飾るのに時間がかかりますから、と付け足して笑う弥十郎にクライスは喜んで誘いを受ける。1人で待っていると緊張に押しつぶされるかもしれないと心配していた彼にとって、それは嬉しいお誘いだったのだ。
 そんな風に次々と男性陣が着替え終わっているかと思えばそうでもない。朱 黎明(しゅ・れいめい)は着替えこそ終わったものの、中々試着室から出ることが出来なかった。ナリュキ・オジョカン(なりゅき・おじょかん)とのデートに立ち寄ったのだが、そろそろ自分の気持ちと向き合うべきか否かと考えこみ、カメラマン役を名乗り出てくれた桐生 ひな(きりゅう・ひな)が外で待っていることもあり、ここを出るのは勇気がいることだった。
(1番愛しているのは迷わず妻だと言い切れる。……じゃあなぜ、私はナリュキとこんなところに?)
 自分で自分の気持ちがわからない。先日少年達に恋愛講座をしていたとは思えないくらいに、黎明は悩んでいた。
 女性陣はと言えば、男性用の試着室より広めは個室で着替えも手伝ってくれるメイクさんと語らいながら美しく仕上げられていく。自分の魅力を最大限に活かす方法、気になる部分を隠す方法。女性なら誰もが知りたいと思う部分をレクチャーしながら過ごすメイクアップは、とても楽しい物だろう。同時に、一緒に来たあの人はどんな言葉をくれるだろうかなんて胸をときめかすことが出来るのは、準備に一生懸命で相手を待つ時間が少ないからかもしれない。
 その頃、男性陣は動物園の熊のごとく落ち着き無い様子で廊下をウロウロ徘徊していた。
「小父様たち、少しは落ち着いたらどうですか?」
 最初は楽しく語らっていた男性陣を邪魔しないようにと邸宅内の美術品などを眺めていたひなだが、次第に言葉が少なくなりそわそわし出す男性陣には呆れた溜め息も漏れてしまう。待っていることしか出来ないというのは確かに緊張するかもしれないが、もう少しどっしりと構えていられないものだろうか。
「……よしっ! 空さんはもうすぐ着替え終わるだろうし、僕は迎えに行って来ます」
 こうと決めたら強いらしく、ピンと背筋を張って歩き出す。その顔にはさっきまでの緊張した様子はどこにもなく、男の子らしくエスコートしようと意欲溢れるものだった。
「あれ、クライスくん……?」
 その頃、彼が迎えに行くより一足早く着替えを済ませていた空は、2人でドレスを眺めていた部屋にクライスを探しに来ていた。目を輝かせる空に着替えを促していた彼がこっそりタキシードに着替えていることなど知らない空は、部屋にある鏡の前でまじまじとドレス姿の自分を見た。
 純白のふんわりした膝丈くらいのワンピースドレス。子供っぽい自分には、大人びたデザインよりもこれくらいが丁度良いのかもしれないが、その純白さにウエディングドレスなんだということを意識すれば、お姫様か何かになったようで少し気恥ずかしい。
「空さん、お待たせしましたっ!」
 バタバタと廊下を走る音が聞こえたと思ったら、クライスが勢いよく入ってきた。更衣室の方まで迎えに行き、すれ違いになったことを気付いた彼は、ほんの少しでも彼女を待たせないようにと必死に走ってきたのだろう。あまりに真剣な顔で、しかもタキシードなんて着ているから、先程考えていたことも相まって自分を迎えに来てくれた王子様のようだと空は思った。
「わぁっ! クライスくんも着替えたんだね」
 三つ編みを解いて下ろされた髪と綺麗にメイクされた顔に、クライスはすぐに言葉が出なかった。2人で選んだドレスに、見間違うはずのない大好きな彼女の顔。別人のようとは言わないけれど、新たな魅力を漂わす彼女に相応しい褒め言葉を思いつかなかったからだ。
「…………凄く、綺麗ですよ。……っと、そうだ。折角だから、写真を撮ってもらいませんか?」
「ありがとう! クライスくんもかっこいいよ、王子様みたいだね!」
 自分はやっとの思いで絞り出した言葉なのに、空は簡単に褒めてくれる。そして、少し甘えるように腕へ抱きついてくるものだから、近づいた距離にクライスはドキドキしっぱなしだった。
「写真撮りに行くなら、そこまでこうして歩かない? 本物の結婚式みたいに」
「は、はい。僕で宜しければ、謹んでエスコートさせて頂きます」
 きっと彼女は、何か意味を込めて言ったんじゃない。ただ結婚式に憧れる普通の女の子として、真似事がしたいだけなのだ。落ち着かせるように自分に言い聞かして、クライスは緊張をひた隠しにしたままゆっくりと廊下を歩み進める。
「でも、本当に似合ってるね。わたしもタキシード着てみたいな〜」
「あ、いいですねー。それも似合いそうです」
 きっと彼女なら、どんな衣装でも可愛く着こなしてしまうのだろう。長い髪を後ろで1つに束ねて着こなしている姿を想像していると、耳を疑うような言葉が聞こえてきた。
「じゃあクライスくん、写真を撮ったら交代! 次はドレスだね!」
「……って、え、僕も?」
 女性が男性の服を着るのはさほど珍しいことでは無い気がするけれど、男性が女性の服を着るのは珍しいというか風当たりも強い気がする。そんなことよりも、今日の初デートはカッコよく……と考えていたクライスにとって予想外の展開だった。
「きっとクライスくんも似合うんだろうね。そっちの写真も楽しみだな」
 邪気のない顔で言われれば蔑ろにすることも出来なくて、きっと自分は着てしまうのだろう。出来上がった写真はさすがに彼女との思い出の品となるのだから破り捨てるわけにはいかないが、誰にも見られぬよう封印しなければとクライスは思う。
「でもさ、こういうの体験すると、早く本物がやりたくなるね」
 幸せそうに笑う彼女になんとなく期待をしてしまうクライスだが、その幸せもウェディングドレスを着るという衝撃には勝てなかったらしく、深い意味があったのかどうか確認することなくデートは終わってしまうのだった。
 そして、廊下の窓から庭園を眺めている弥十郎を見付け、樹は恥ずかしながらも心持ち大きな歩幅で近寄った。
「あの……お待たせ、しました……」
 おずおずとかけられた声に振り返れば、ドレス姿の樹。制服でもデートの時に見る機会が多い和服でもないそれはとても印象的だった。
「いえっ! そんなに待っていませんよ、同じように花嫁を待つ方とお話出来たので」
 花嫁と呼ばれるとは思わなくて、でも否定したくはなくて顔を真っ赤にしたまま俯いていると、ゴンッと大きな音がした。
「あの、弥十郎さん?」
「ああ、いえ。ちょっと樹さんに見とれてしまって、花瓶にぶつかってしまったみたいで……」
 本当は、その花瓶が置いてある台の角に足の小指をぶつけてしまったのだけれど、痛い気持ちを抑えて花瓶が落ちないように支えてみた。彼が心配になりながらも、樹はそこまで褒めてもらえるのなら着てみてよかったな、と笑みを零す。
(本当の式は、きっと和装になるだろうし……って、何を考えてるのよ! それは体験するときに決めてた希望で、本当の式なんて!)
 模擬結婚式の話を、もし当選したならと話し合っていたときのことを思い出して恥ずかしくなる。そう、模擬だからと話していたはずで本当の結婚式だなんてまだ早い。けれど、付き合う期間が長くなってそんな話をするようになって、もし、もしと頭の中では結婚式の様子を思い描いてしまい、この考えが伝わって欲しいような恥ずかしいような気持ちで顔を隠した。
「もったいない、折角だからよく見せて?」
 左手を取って可愛らしいリボンを薬指に結ぶ弥十郎に何をしているんだろうと見つめていると、まじまじと見られていたことに恥ずかしくなって誤魔化すように笑って見せた。
「花嫁さんに婚約指輪も渡せないけど……せめて、今日1日はこれが代わりになればいいなって」
 グローブの上から結んだそれを整えるように指をなぞり、こっそりと2本結んでいたうちの1本を指から抜いてみる。これで、彼女を驚かすようなプレゼントが出来るはずだ。可愛く結ばれたリボンに照れ笑いを浮かべて、そんな日が来ればいいなと漠然と思う。けれど、そんな物がなくたって自分が彼を思う気持ちは変わりない。
「こうやって、弥十郎さんと一緒にいられることが幸せです。いつか、こういう綺麗な衣装を着て式ができたら……」
 言いかけて、またすぐに口元を抑えてしまう。そんな可愛いお願いならいくらでも言ってほしいのに、恥ずかしいのかいつも隠してしまう手をとって、もう顔は塞がせないと弥十郎はしっかりと両手を握りしめた。
「じゃあ、式は和装でお色直しはドレスで決まりかな?」
「弥十郎さんっ、そんな……嬉しいですけど、欲張りじゃないですか?」
 いつかは来る未来だと思っていることを、もうすぐ来ることのように話す弥十郎に模擬結婚式だと話していたことが現実味を帯びてくる。まだそれを改めて考えるには恥ずかしくて、樹は少しはぐらかすように遠回しに断ろうとするが、どこか期待している自分には断り切れずに疑問系で聞き返す形になってしまった。
「控えめな樹さんも素敵だよ。でも、少しくらい欲張りになってくれないと、ワタシだけが欲張りになってしまう」
 じっと見つめられ、彼が何を望んでいるのだろうと思考を巡らせる。つい控えめなデザインのドレスを選んでいた自分に、可愛い物も着たいという心を見透かしたのか自分が見たいからという理由で可愛いデザインを勧めてくれた。このあとウォーキングなどを体験して結婚式の気分を味わう約束はすでにしているし、欲張りになるだなんて何がしたいのだろう。
「……樹さん、キスしていいですか?」
「…………えっ!?」
 まさか、そんなことをわざわざ確認されるだなんて思わず、樹は顔を赤らめる。彼が珍しく大胆なのは、樹を待つ間緊張をほぐすために甘い物をと彼女のために用意していたホットチョコレートを1口飲んだから。保温の出来る水筒で持ってきた手作りのそれは、アイリッシュミストをほんの少し加えて甘みを出しており、少なかったはずのアルコールが手伝っているようだ。
「あの、ダメというわけではないですけど……その」
 ちらりとまわりに視線を泳がせても、試着室に繋がるこの廊下にはそこまで人はいなくって、遠目にみえた2つの人影も重なるのが見えますます樹は顔を赤くさせてしまう。
「これはクリスマス一緒にいられなかった分」
 人目が気になっている彼女を隠すように、壁とカーテンの間に閉じ込めて額に口づけを落とす。嫌ではない分ロクに抵抗が出来なくて、樹は観念したように瞳を閉じた。
「……これはお正月我慢した分」
 伏せられた瞳に、思わず唇へ吸い寄せられそうになってしまうけれど、少し思いとどまって頬に口づけを落とす。そこは、もうチークのせいには出来ない程赤くなっていて、もしかしたら今の自分も同じような色をしているのだろうかと思うと、急に自分の頬も熱くなったような気がした。
「そしてこれが……樹に捧げる一滴」
 軽く触れた唇は甘くて、先程飲んだホットチョコレートのせいなのか、それとも大切な相手だからなのかはわからない。
 初めて触れた唇から離れても、告白したときのようにドキドキする胸の高鳴りは消えなくて、これに慣れてしまう日なんて来ないんじゃないかと思う。顔を見合わせ照れくさそうに笑う2人は、顔の赤みが引くまで窓の外を静かに眺めて過ごすのだった。
 模擬結婚式が出来ない代わりに、全会場用のドレスを着てやると意気込むナリュキの手を引いて、黎明は教会を訪れた。こうして正装してこのような場所に立つのは2度目、嫌でも昔を振り返ってしまう。どこか遠い目をする彼の傷を知っているナリュキは、無理矢理引き戻すことなく自分には何が出来るだろうかと考える。辛い過去を持っているのは彼だけじゃない、自分だって辛い過去を持っている。もっとも、彼のように持ち続けることは出来なくて、捨ててしまった物だけれど。
「……いやー、自然光を取り込む作りはいいね。ナリュキの魅力が十分発揮されるよ」
 何事も無かったかのようにおちゃらけて見せ、大きな胸が強調されたドレスを着た彼女を褒め称える。彼女が輝いて見えるのは、髪も肌も白くて窓から差し込む日差しを浴びているからだとどこか自分の中で言い訳をしている。素直に綺麗だと口にしてはいけないかのように。
 その態度が、痛いほど彼は誰が大切なのかを物語っているのがわかって、ナリュキはスカートを握りしめる。好きだから気付いてしまう、彼のサイン。これ以上踏み込んではいけないのかもしれない、でも伝えたい想い。意を決して、ナリュキは黎明を見上げた。
「……のう、黎明。妾では代わりにならぬかもしれぬが……心のスキマを埋める事は出来ぬかの」
 随分と幼い外見をしてそんなことを言うものだから、黎明は取り繕っていた顔を崩してしまいそうになる。彼女が好意を寄せてくれていることは、なんとなく気付いていたし、自分も気に入ってるはずなんだ。けれど、妻が何よりも大切だと答えられることも確かで、どう答えればいいのか分からず、頭を冷やすように参列者が座る椅子へ腰掛けた。
「隙間、か。辛いとは思う、でも幸せだった時間を上書きしたいわけじゃない」
 どちらが大切かと聞かれたなら、もちろん妻だ。けれど、大切な人はと聞かれたら……もしかしたら、1人に選べないのかも知れない。それは、妻を裏切ることになるのか、ナリュキを利用しているのか。どちらにしろ、自分が最低な男であることは変わりないだろう。
「心全てを欲しいとは言わぬ。ただ、欠けてしまった物があるのなら、妾に埋めさせてもらえぬじゃろうか」
「ナリュキは、代わりでいいのかい?」
 1番に見て欲しいと言えないのが分かっているから、代わりでいいと口にした。けれど本当は自分を見て笑ってほしいと思うし、自分が幸せにしてあげたいとも思う。もし黎明の傍にいることが、ずっと代わりになることだとしたら自分は堪えられるだろうか。
「……傍に居たい。その気持ちに偽りはないにゃ」
 膝をついた彼女が、自分の膝にリングボックスを乗せる。そこまで思い詰めているのかと箱を開ければ、そこには指輪ではなく彼女の髪縛り用リボン。どういう意味かと問うために上げた顔は、やっと自分を見てくれたと微笑むナリュキに口付けをされてしまう。それは何かを誓うようで、ちらつく影に肩を押し返して誤魔化すように黎明は笑った。
「ははっ、まさかナリュキからしてもらえるとはね。これはお返しをしないと」
 言うが早いかリングボックスをしっかり持ったまま彼女を横抱きにしてみる。当然、急に浮かび上がった体に驚きを隠せず小さな悲鳴を上げる彼女を、まるで悪戯をした子供をこらしめるようにくるくると一緒にまわってみせる。
「れ、黎明っ! どういうつもりじゃ!」
「それはこっちのセリフだろう? 全く、代わりでいいなんて悪い男に軽々しく言うんじゃない」
 もし自分がそれに甘えてしまっていたら、ナリュキはナリュキでなくなってしまう。彼女を見て、話していても心は妻に向かっているだなんて、ひどい話もあったものだ。
 体力の少ない黎明は、回ることにつかれたのかナリュキを抱えたまま再び椅子に座り、ポツリと心の内を吐露する。
「でも……ありがとう。ナリュキには私の――」
 そう見せかけて、思いとどまるように口を閉じて微笑んだ。弱いところを見せてもいいだなんて言えば、本当に彼女を利用してしまうんじゃないかと思ったから。
「妾が、なんなのじゃ?」
「大切な人だよ。今はまだ、ナリュキとは違う意味になってしまうけれどね」
 誰かの代わりに愛するというのは、双方にとって裏切りだろう。片方がそれで良いと言ったとしても、もう片方には確認することは出来なくて、自分自身も納得することが出来ない。
 いつか、妻と同じくらいにナリュキを大切だと思える日が来るのなら。彼女が代わりでいいなどと自分を気遣うことはなくなるのかもしれない。今はまだ大切の意味が違うけれど、大切にしてあげたいから下手なことを言うのは止そう。黎明は、彼なりの優しさでナリュキを包むのだった。