校長室
地球に帰らせていただきますっ!
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心の師 ごつごつとした岩場の間を川が流れている。 片側の崖に沿って見上げれば、緑の木々の間に頭上高くにある道を走る車が見え隠れする。 山肌に造られた道路とその下の谷。 何も知らない人が見たら、ただそれだけの風景だけれど。 案外速い川の流れが立てるせせらぎが、姫宮 和希(ひめみや・かずき)を10年ほど前の過去に引き戻した。 お気に入りのピンクのワンピースが嬉しくて、和希は何度もそのレースのフリルがついた裾を触っていた。 赤い靴、白い靴下についた苺の飾り。もう少しで足がバスの床に届きそうで、ちょっと力を入れてつま先を伸ばしてみた、その時。 衝撃が走った。 さっきまでの日常が逆転し、ぐるぐると転がり落ちる。 自分がどうなっているのかも分からない。 ただ滅茶苦茶に揺さぶられ和希は気を失った。 気がついたのは、身体の痛みによってだった。 息を吸うだけでも全身を痛みが走り抜ける。 目はかすんで開けているのが辛い。 「いた……い……よぉ……」 小さな声で呟いて、和希はすすり泣いた。 それまで死なんて考えたことがなかったけれど、自分の身にとんでもないことが起きているのだけは分かった。 心細くて苦しくて。 恐怖に押しつぶされそうになっていた時。 「そこに誰かいるのかっ?」 すぐ近くで声が聞こえた。 「あ……」 すくんだ身体ではそれだけを言うのが精一杯だったけれど、それは無事相手の耳に届いたらしい。 「すぐに助けるから頑張れよ」 物をどける音が耳の近くでうるさいくらいに響いた……と思った次の瞬間、和希の身体に誰かの手が触れた。その手は和希の身体をしっかりと抱えると外に引っ張り出す。 「しっかりしろ!」 叱咤されて和希は朦朧とする頭で肯いた。 「よし、いい子だ」 乱暴に頭を撫でると、その誰かは和希を自分の着ていた服でぐるぐると包んでくれた。最後にすぽっと頭に何かがかぶせられ、ぎらぎらと降り注いでいた太陽がさえぎられた。 「こいつ、頼みます!」 和希の身体はその人から救急隊員へと託された。 「ああ……って待つんだ! 君! 君もひどい怪我をしてるんだ、動いたら危険だ、戻れ!」 その言葉に答える声は聞こえなかった。 無理矢理あけたかすむ目の向こうに、離れて行く背中だけが……見え。次の瞬間、和希は意識を手放した。 次に気がついた時、和希は病院にいた。 白い病室、白い壁。 白い布団の上にはボロボロの学ランと学帽が載せられていた。 和希は後で知ることになる。 事故で生き残ったのが自分1人であったこと。 瀕死の和希を助けくれた人は自らも重傷を負ったはずだが、和希を救急隊員に預けた後、また別の誰かを助けるために姿を消し、その後の生死や足取りは不明なことを。 あの事故以来、その人の漢らしい生き様と自己犠牲の精神を和希は自分の生き方の規範とした。 和希を誰が助けたのか、その名前も詳細も分かっていない。今もなお消息不明だが、和希は彼が生きていると信じている。 あの人に預けられた学ランと学帽に恥じぬ生き方をしていれば、いつかあの人に再会できると思って、ずっと頑張っている。 もしかして、と今年来てみた事故現場には誰の姿もなかった。 花の1本も供えられていないこの場所に、過去の事故を思わせるものは何もない。 「まぁいいさ」 まだまだ自分はあの人に追いつけていないということだろうと、和希は身を返した。 もっともっと頑張って、誰もが一目置く、本当の漢を目指す。 そうすればいつかきっとまた会えるときがくるだろう。 だから、供えの花も祈りの言葉もいらない。 漢の誓いを胸に、和希はその場を立ち去るのだった。