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第4章 開宴


 時計の鐘が五時を告げようとする頃、バルトリ家は慌しさの頂点を迎えていた。
「料理は?」
「できてます!」
 汗を流しつつ、コックの一人が応える。テーブルには料理もお酒もお湯もたっぷり用意され、冷たいもの、暖かいもの、それぞれに出番を迎えている。
 執事はひとつ頷くと、足を玄関ホールへ続く回廊に向けた。そして控えている、テールコートの使用人に尋ねる。
「会場の準備は?」
「完了しました」
「よし」
 執事は頷いて懐中時計を一瞥、合図を送る。
「では、始めよう」
 その声に、時計の鐘の音が重なり、玄関の扉が開かれた。
 ──夕方、パーティの始まりである。

 大広間は、夕暮れだというのに、蝋燭とランプの明かりが、シャンデリアに壁に調度に輝き、昼間のような明るさだ。
 一人の淑女が人の波と声のさざ波の中を漂っていた。その手を取るのは機晶姫──といっても男性型であったが──の従者である。
「足元にお気を付け下さい」
 従者なら、仕草は勿論、艶やかな黒いタキシードは、お嬢様の輝きを引き立たせるべく。
「ありがとう」
 海の深い色を思わせるドレスに身を包んだテスラ・マグメル(てすら・まぐめる)は、緑色がかった眼鏡の下で、マナ・マクリルナーン(まな・まくりるなーん)に微笑する。
「本日のマナはテスラお嬢様の従者。何なりとお申し付けくださいませ。……舞台の上にまではお供できかねますが」
「舞台に上がることなんてあると思いますか?」
「このマナの鞄、メイク、衣装、常に揃えております」
 今日の事件の舞台は、けれどオペラが上演される舞台の上にあるのではない。主役は当主役のディーノでも、まだ見ぬヴェロニカ役のソプラノ歌手でもない。
 テスラは主役、いや中心人物──客を出迎えるアレッシア・バルトリの元へと歩いて行った。
「この度は招待頂きありがとうございます。私自身も、是非この場で披露できれば幸いでしたが、なにぶん若輩ですのでご容赦下さいませ」
「お越しいただいて嬉しいですわ」
 アレッシアは品の良い笑みを浮かべ、音楽家を出迎えた。
「今日は楽しんでいかれてくださいね。機会があれば是非マグメルさんの音も、聞いてみたいものですわ」
「ええ、いつでもお伺いいたしましょう。何しろ私は温室たる家を離れ、市井に生きておりますから」
 テスラの実家は音楽を生業とし、彼女もまた幼少から音楽活動を続けてきた。今日招かれたのはその縁である。
「……辛いこともありますが、今は毎日を新しい発見と共に在ります。それは、私が望む第一の音楽(もの)と共に在るからです」
「そうですわ、芸術は人類のかけがえのない財産であり、良き友ですわね」
「勿論、家を出ることに何かしら口さがない者が噂を立てることもありますが、誰がどう思うからどこで何をするかではなく、私がどう在るかが第一です」
 テスラは伺うようにアレッシアを見る。彼女が本当に示したいことは、音楽ではなく……恋愛だった。
 彼女は疑っている。アレッシアが狂言自殺を図り、歌手と逃亡するのではないか、と。もしそうであれば、彼女はどのような態度に出るだろうか。貞淑であろうか、或いは。
 アレッシアはテスラの意図に気付いたのか、気付かないのか、微笑みを浮かべたまま声の調子も変えず、
「素晴らしいですわね。芸術を志す方は皆、それぞれの理想の音を心に秘めていらっしゃると聞きますわ。私はその方たちの音を聞くために、ささいな手助けをすることしかできませんもの。憧れますわ。……そうですわ、あの方も同じく音をその身で奏でられる方ですのよ。ご紹介いたしましょう」
 アレッシアがひらりと手で示したのは、深い海の色とは対照的な赤の花。裾の広がったロングドレスの女性ルナティエール・玲姫・セレティ(るなてぃえーるれき・せれてぃ)だ。ポニーテールに結った白い髪にも赤い薔薇を挿している。
「ええ、わたくしもそう思っていたところでしたの」
 ルナティエールは客と談笑していたが、パートナーセディ・クロス・ユグドラド(せでぃくろす・ゆぐどらど)の視線を感じ振り向く。セディはグラスを少し持ち上げて、壁際に誘った。
「……失礼いたしますわ」
「そろそろ頭の上の猫も重たくなっただろう」
 セディは壁に背を預けると、周囲には聞こえないほどの小声でささやいた。
「ん、まぁな。女優業もすっかり休んでたし、こーいう場はまた演技とは違うしさ……。ああ、舞台は楽しみにしてんだぜ」
 途中でテーブルから取ってきた、甘いデザートグラスをセディに渡しながら、ルナティエールは苦笑する。そして笑いを収め、
「それに。いい機会だからさ、話しておこうかと思って。セディ。帝国の件で、最近ずっと密かに悩んでるだろ?」
「……そうか。我が姫にはわかっていたのだな」
「わかるに決まってる。……もう夫婦にまでなったんだぞ?」
 ルナティエールは、その白い頬を赤く染めて顔をそらした。彼女の恥じらいを可愛らしく思いながら、セディは静かに話し始めた。
「そうだな。これは二人に関わることだ。話しておこう。我がユグドラド家は、ユグドラシルにあやかる名が示す通り、元々はエリュシオン帝国の家柄だ。政治的な事情からこのシャンバラへ一家亡命することになったがな」
 帝国の?……とのルナティエールの意外そうな反応に、セディは頷く。
「それも五代昔の話……それでも帝国の血がこの身に流れていることには変わりない。そんな身で帝国と相対してよいのか。それに……いわばかつての同胞、なのに私は今の帝国の姿を知らない。昔のことしかわからない。今はどうなっているのか、どう対すればいいのか。……どうしてもわからないのだ」
 ルナティエールは、強く美しい笑顔を夫に向けた。
「だったらさ。帝国へ行こう! 帝国へ行って、ユグドラシルを見て。きちんと見極めてこよう。本当に俺達が戦うべき相手なのか。そうだとしたら、本当に相対出来るのか。……セディが何で悩んでるのかはわかってたから、俺もずっと考えてた。行こう、セディ。お前の先祖の国にさ」
「そうか。……済まない」
「気にすんなよ。だって、俺達は夫婦なんだから、さ」

「あら、アレッシアさんの側にいらっしゃるお嬢さん、あの方のドレスはオルコット氏のデザインかしら?」
「素敵ですわね。流石百合園の生徒さんですわ」
 ご婦人方の視線を集めているのは、東シャンバラのロイヤルガードの一人、秋月 葵(あきづき・あおい)だった。
 ヴァイシャリーの新進デザイナー・オルコット氏にデザインしてもらった、鮮やかな青いドレス。長いツインテールには蒼いリボン。右手に光るアクセサリーは光精の指輪。パーティだから当然手には武器もない。
 オペラ鑑賞に来た生徒だけど、パーティだからドレスでお祝いします、といった風の愛らしさを会場にふりまき楽しんでいるように見えながら、アレッシアが動けば葵も動く。一定の距離を保ちつつ、離れないように。
(脅迫状か……動機から言ってなんとなく怪しいのはディーノだけど、なんか違う気がする。ディーノの新しいスポンサーっていうのも気になるけど……来てないのかな?)
 アレッシアは入口で夫のアウグストと共に、移動しながら招待客への挨拶を済ませていたが、その中に“新しいスポンサー”とはっきり名乗った人物はいなかった。ディーノの方は、開宴してから今まで、パーティ会場には足を踏み入れていない。……これは、ほかのオペラ関係者も同じであったが。
「近ごろは大荒野も波乱続きで、物資を運ぶのも一苦労な世の中ですからねぇ。そうそう、このような名家ですら脅迫事件とは物騒な……アレッシア氏も災難ですねぇ」
 葵とは顔見知りのミルディア・ディスティン(みるでぃあ・でぃすてぃん)も、動機の線が気になったようだ。ご婦人に混じって話を聞き出そうとしている。
(災難って言えば、あたしもこんなことに巻き込まれるなんて思ってもみなかったなぁ)
 ミルディアの父のお得意先様がこの家だったのは偶然だった。社会勉強で行って来いと放り込まれてみたら、噂に聞く脅迫状の家がここだったなんて。
 だったらもうちょっと動きやすい恰好で来ればよかったな、とミルディアはちょっとだけ後悔した。普段飛び回っているような彼女が踏んでしまいそうな長さのドレスを着て、なびかせてる髪をまとめてパールのピンを沢山挿して飾っているのは、社交界のたしなみに合わせているからだった。せめて下にレギンスでも履いてくれば良かったのに。
「まぁ、脅迫事件……ですの? そんな恐ろしい!」
 ミルディアの目の前にいるご婦人は、彼女の言葉に口元を扇で覆って目を文字通り丸くした。
 脅迫状の件は、アレッシア自身が相談したのはクロエだけ。
 屋敷の部外者で知っているのは、今日桜井静香が引率する、護衛の者たちだけだ。
「私もそういった話しを小耳に挟んだだけなんですけどね。アレッシア氏を恨みに思うような人でもいるんでしょうか?」
「そうですわねぇ……そりゃあ、アレッシアさん自身には特に落ち度はありませんけれど、普通の女性とは違いますし……いてもおかしくありませんわ」
「と、言いますと?」
 ご婦人は声を潜め、
「だってあの方はそれはもう、バルトリ家にとって一番大事と言って良い方ですもの。あの方を花嫁に迎えた先代は先見の明がありましたわね。だって、結婚相手でなかったら、アウグストさんの代でこの家は……あら」
 そこでご婦人は声を切った。丁度、噂の主アウグスト・バルトリがミルディア達の方に向かってきたからだ。
 しかし、それを遮るように一組の男女が現れ、少女の方がアウグストに口を開いた。
アルバティナ・ユリナリア(あるばてぃな・ゆりなりあ)と申します。姉の代理で参りました。せっかくこちらより御招待をいただいたのですが、残念なことにこのところ体調に優れぬところがありまして……いえ、御心配いただくほどでは」
 アウグストは眉をひそめた。名に聞き覚えがなかったからだ。
 客として入れる以上招待状は出されていたはずだが、実際、何故アルバティナの手に招待状が渡ったか事情は定かでない。
 アルバティナ曰く、彼女の姉が貴族の夫人ということだたが、悪魔が地上に現れることができるようになったのはつい最近のことだ。その悪魔が正体をひた隠すにせよ明かすにせよ、夫人として迎えられる貴族が、果たして正当な──爵位を金で買っただとか──な血筋であるかも疑わしく、悪魔の妻を持つ貴族にバルトリ家が招待状を送るとも思えない。
 が、アウグストはそのような事情には思い当らない。姉からの代理の連絡を受けるどころか、いや、今日の来客リストに載る名の全てをも把握していない。
「ですが、こうした華やかな場に些細とはいえ穴を空けるのも申し訳が立たないと申しまして、こうして私がうかがわせていただくことになった次第です」
 そしてもう一つ、彼がそんな無礼な表情を見せたのには理由があった。彼女の右手小指に嵌められた指輪に繋げられた鎖が、スカートの中にまで伸びているからだった。
「あら、私の顔に何かついてます?」
「……いえ」
 アウグストの表情にも、さもありなんと納得したのは、彼女をエスコートするヨハン・サンアンジュ(よはん・さんあんじゅ)だ。どうもアウグストは“ものぐさ”の同類らしい。
 ヨハンも、アルバティナが笹咲来 紗昏(さささくら・さくら)を同じくパートナーとする者でなければ、そしてオペラが上演されなければ来ることなどなかったろう。
 挨拶もそこそこに、ミルディアが話していたご婦人方の方へと歩みを進めて話に混じっていた。
 良いところのお坊ちゃんといった風貌のヨハンに、ゴシップ好きのご婦人は同類と見たらしい。
「今日の主役の、ええ、ディーノ様の歌声はかねてからお聞きしたいとは思っていたのですがなかなか機会がなく……。こうしてこちらに足運びできましたのは喜ばしい限りです。なんでもディーノ様とこちらとは御縁が深いとか……」
「あらご存知ありませんの。大きな声では言えませんけれど、ついこの間、支援は取りやめになったそうですわ」
「支援を打ち切られたと! しかし……、こちらの御不興を買ったにしてはこうして役を演じられているのはまたどうしてでしょう?」
「それは存じませんわ。不思議ですわね」
「では、こちらほど格式のある方の次に御支援なされているというのは、どなたなのでしょう?」
「私もまだ見たことはありませんの。でも、若い貴族のご婦人とのことですわよ。少なくとも、あのアレッシアさんよりも彼にとっては魅力的なのでしょうね?」
 思わせぶりにおしゃべりをする彼女らが、果たして事実をどこまで知っているのかは疑わしい。
 けれど、彼らは少なくとも“三角関係”があったと見ているようだ。
「三角を形作るには三つ頂点が必要だな。だけど、それが夫と夫人とテノール歌手──とも限らない、よな」
「そう思うかい? そして、これが事件のきっかけだと?」
 壁際でおしゃべりを観察していたエース・ラグランツ(えーす・らぐらんつ)は、隣にたたずむメシエ・ヒューヴェリアル(めしえ・ひゅーう゛ぇりある)に頷いた。
 メシエもそうだね、と頷き返す。
「貴族社会では結婚してからが恋の季節の始まりだ、と言っても過言ではないからねぇ。それに才能ある人々との関わりは人生を豊かにするよ。恋愛は悪いことでもないんだ……けれどそれが事件の根底にあるのなら、放っておくわけにもいかないね」
「ああ。それで話が戻るんだけどさ、俺が見るに、当主は夫人を束縛するタイプじゃなさそうだ。推測が当たっているか、聞きに行こうか。頼むな、貴族さん」
「いいでしょう、エース。壁のシミなんて呼称は相応しくありませんからね」
「壁の花はお嬢さんだけに使う呼称だからね。もし薔薇がそれを名乗っていいのなら、名ごと小雲雀さん達に捧げに行くとしようか」
 芝居がかった言い回しで、エースは手土産に持参した花束の中から、一本を抜き取った。
 そして二人、デザートのグラスを手におしゃべりに忙しい、若いお嬢さん方に花を捧げた。親しくなりたい様子を見せてオペラの話題でもふれば、彼女達は端正な顔立ちの彼らにあっと言う間に口を開いてしまう。
「ディーノ? あら、あの方は沢山のファンをお持ちなのよ。援助をしたいという方は今は山ほどいらっしゃるわ。ディーノさんが無名のころからお世話をしていたのはアレッシアさんだから、と断られていて、皆さんも遠慮していたのよ。お二人はとても仲が良かったわ。でも」
「新しい援助者が現れたのですね」
「そうなの、あの方よ。素敵な女性でしょう? 見慣れない方ですから、ご挨拶に伺った時、ええ、ディーノさんとお話ししているのを見てしまいましたの。といっても、まるで雰囲気が……そう、囁くような。恋人のようでしたわ」
 巻き毛の少女がちらりと目線を向けた先には、一人のシャンバラ人女性が佇んでいた。
 年の頃は二十歳前後。ディーノと年齢がさほど変わらないように見える。豪奢なドレスを身にまとい、羽振りはずいぶん良さそうだ。
 だが、少々下品だな、とメシエは内心でつぶやく。あれは、生粋の貴族なのだろうか?
「お名前は……ビー……カルヴァロ……そう、ビアンカ・カヴァルロさんですわ。貴族のご令嬢だそうですわ」
「それではご婦人は……援助を打ち切られたのですか? それともディーノさんから……?」
「そこまでは伺ってませんの。でも、アレッシアさんたら、あれから少しずつ元気がなくなっているようで……そうなの、皆さんで心配していたのよ。勿論アレッシアさんはディーノさんとそういう……」
「男女の?」
「ええ、男女の関係……ではありませんでしたけど、少しは興味がおありのようでしたし。あれだけ自分が目をかけられて育てられた方が、急に自分が聞いたこともないお名前の、他の方になびいてしまわれたのですもの」
「そうですわね、あの方パーティでも見かけませんもの」
 と、これはたれ目の女性。
「あら、グラスが空ですわ。何かお持ちしましょうか」
 エースとメシエはかしましいお嬢さん方に取り囲まれて、しばし世間話に付き合わされるのだった。