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intermedio 貴族達の幕間劇 (前編)

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第8章 舞台裏の想い


「──僕をご存知だとは! 光栄です、マダム・アレッシア・バルトリ。もし宜しければ、その手に口づけする栄誉に浴させていただけますか」
「どうぞ」
 一人の男がアレッシアに跪き、白い手の甲にキスを捧げる。
 小柄な体に茶色の髪を古風に分けてなでつけた男だ。
「せっかくいらしてくださったのですもの、こちらでお話を聞かせていただけます?」
「ずるいわアレッシアさん、私もご一緒させてくださいません?」
 今、彼の周囲は、ちょっとしたサロンのようだった。
 年配のご婦人方が、甲斐甲斐しくお茶やお酒やお菓子やお花を彼に運んでくる。話題は音楽、そしてオペラの話。
 大久保 泰輔(おおくぼ・たいすけ)はすっかり事件のことなど忘れている彼の肩を小さく突いて、
「なあ、オペラの話しに来たんやないやろ? ……ん? ううん、そうやったっけ?」
 自分でも疑問になったのだろう。考え込んでしまう。
 もともと泰輔らがここに来ることになったのは、彼がどうしてもオペラが観たいと言うからであって、その意味で言えば全く間違ってはいないのだが……。
「これほどの方たちが音楽を楽しみにいらっしゃったのですもの。やはり、フランツさんがおっしゃるように、オペラというのは素敵なものなのでしょうね……」
 しみじみとしたレイチェル・ロートランド(れいちぇる・ろーとらんと)の言葉に、もう一人頷く小柄な男讃岐院 顕仁(さぬきいん・あきひと)がいる。
「そうだな。ただでさえ力を持つ言霊を、歌いながら芝居に組み上げるとは、きっと素晴らしいなにかの魔力をもつものなのであろうな、オペラとは」
 二人の言葉に、彼は振り返る。満面の笑みだ。
「もちろんだよ! 音楽家としての魂がうずくよ。どんなオペラに仕上がるのか楽しみだ。演出されかたなんかで変わってくるからね、オペラは。そしてアレッシアさんはその芸術の守護者なんだよ」
 初めて会う──いや、うわさに聞くだけの人物にこれほどまで褒められるのは、どういうことなのか。
「まさか、二人まで今日の目的を忘れたんやないやろな?」
 小声の泰輔に、顕仁が応じる。
「うむ。我ほどのオペラ初心者は予習しておいた方が良いとの勧めを受けたからな。物語の筋は予習してある」
「おいおい、あきひ……」
「話題を知らねば何が真で嘘かも分かるまい。歌と名がつくものであれば、神も真実も細部に宿るのであろう」
 そして醜聞も時に人を、命を奪わずとも破滅させるものだ……、などと言う。
「そのように考えているのであったな」
「そうや。脅迫状の『人生最後の日』っていうんが、殺人とは限らへん。絶望のどん底に突き落とすゆうもんかもしれへんからな」
 レイチェルが静かに、私は原因が寵愛の奪い合いではないかと思うのですが、と前置きをして、
「何かあれば私に伝えてください。女性の方が、桜井校長や百合園の生徒さんと連絡を取り合っても目立たないでしょう? 私も、伺ってきます」
「……もしレイチェルの言うようなことが原因やったら、フランツはいい囮やけどな」
 三人、彼に目を向ける。
 彼は英霊フランツ・シューベルト(ふらんつ・しゅーべると)。別名歌曲の王。ただの音楽家だと名乗ったが、アレッシアは彼の名も顔も知っていた。
「んじゃ、ちーとばかし聞いてみよか」
 彼の動きを察して、フランツは泰輔に場所を空けて、アレッシアに紹介した。
「大久保さんですわね。貴方も音楽家の方ですか?」
「ただの勤労学生です、マダム」
 フランツに教わった礼儀作法をまねて手を胸に、頭を下げる。
「まぁ、それは……ご立派ですわね」
「学問でも芸術でも極めるには先立つものが必要ですね。アレッシアさんは、音楽家の良き理解者と伺ってますよ。才能のある音楽家達は、アレッシアさんに曲を披露するのを競っているでしょうね」
「……そのことでしたら、私はあくまで音楽の忠実な僕と申し上げておきますわ」
「そうですわよ、アレッシアさんは自分が見込んだ方にしか援助をしませんわ。ディーノさんはとても素敵な歌手ですから、口さがないことを言う方もいらっしゃいますけれどね。それに歌手たちが貴族の庇護を求めるのは、どの芸術であろうと、付き物ですわ」
 ふくよかな貴婦人が、彼女の肩を持つように言う。アレッシアは困ったような微笑を浮かべた。それから、指示語だらけの返答をする。
「あのことでしたら、そのような事情が、あのようなことまでする動機になるとは思えない状況ですから、大丈夫です」
 芸術家同士でアレッシアを奪い合った結果、恨みに思った人間が、彼女に殺害予告をする。そこまでのドロドロした状況ではないようである。
「泰輔、あれを」
 ふいに、招待客の男女の動きに注目していた顕仁が、こそっとパートナーに囁いた。
 彼が見ている方向には、アレッシアの夫アウグストがいる。
 彼は目線をある女性に向けていた。二人は意味ありげに視線を交わし合うと、それぞれ場を離れる。初めに女性が、次にアウグストが。時間差をつけて。
 彼らは、さりげなく歩いていく。ある一点に向けて。そして同じ扉に姿を消した。
「──あの奥は、空き部屋のはずだが」
 パートナーの言葉に泰輔は頷いた。
 時計を見れば、午後六時半を回っていた。もうすぐオペラの開幕時間だ。
 オペラの上演中は寝てしまわないか不安だったが、考え事のせいでそんな心配は不要になったようだ。

「これでよし」
 教導団員トマス・ファーニナル(とます・ふぁーになる)は、舞台裏隣、背景などを準備してある大道具部屋にいた。
 観劇は楽しい。でも、舞台裏から見るオペラもまた格別だ。
 舞台は二幕。出番を待つセットは内容同様、大きく分けてバルトリ家の中、屋外しかない。
 劇場でやるわけでもない一日だけのささやかなオペラ。舞台を覆い尽くすほどの大道具はない。遠目に見れば美しい道具類に衣装は、間近で見ても本当に精巧な幾つかのものと、そうでない大多数のもの。それでも、遠近法などを駆使されていて、美術的な観点での見どころは多い。
 それから役者達。舞台で映えるのは、大げさなほど派手なメイク。暗がりで会ったらびっくりしそうなお化けっぷりのメイクもあるのだが、伝わってくるのは、彼らの緊張により勝る、楽しそうな感情だ。
 嬉しそうなトマスを見て、工具類を運んでいたパートナーテノーリオ・メイベア(てのーりお・めいべあ)は声をかける。
「お前も酔狂だなぁ。オペラが好きならあっちで見てりゃいいだろうに、裏方の仕事だなんてよ」
 いいじゃないか、とトマスは楽しそうに調子っぱすれの鼻歌を歌っている。テノーリオは工具を指定の場所に置くと、
「オペラもうまくいくといいな。……ま、人の目出度い誕生日を台無しにしようなんて考える阿呆は、見つけたらこの俺がとっちめてやるよ」
 トマスは本当に今日のオペラを気に入ったらしい。通りがかりの役者に声をかける。
「イギリスのグラインドボーンは、オペラ好きの奥方の為に、やはり熱狂的なファンの旦那様が用意して始まった歌劇場だけど、ここは奥方を慕った芸術家たちが用意する舞台なんですね、すごいなぁ。たった1日だけの上演とは、すごく勿体無い! けれど毎年、最高の贈り物だ、これは」
「みんな奥様には深く感謝をしてますからね。一年に一回だけのご恩返しですよ」
 一緒に働いてみて分かったが、アレッシアは彼らの多くに本当に好かれているようだった。というのも、彼女がスポンサーとして、横暴な権力を行使しないかららしい。
「自分の好きなオペラだけやらせたり、あいつとあいつは一緒に舞台に立つなとか、ひいきの役者にだけ主役を回したりとか、そういうのがないんですよ」
 と、もう一人、従者の衣装を着た中年男が口を挟む。
「俺もあの人の援助がなかったら最近まではろくに食うこともできなかったんですがね、こんなおっさんにも見どころがあると決めたら、助けてくれるんですよ。おかげでぼちぼち名前が売れ始めてきました」
「正直なところ、ディーノの援助を打ち切ったというのは、彼がろくでもないことをやらかしたんじゃないかって思ってる役者も多いんですよ。もっとも、彼も奥様には大分お世話になっていましたし、そんなろくでもないことをやるような人間ではないんですけどね」
「そうだな。バルトリさんの援助を誰よりも感謝していたのはあいつだからな」

 今日は、アレッシアへの感謝を捧げる日だ。
 その楽しい雰囲気は、舞台上手に設けられたプロンプター・ボックス──乱暴に言えば、役者が演技をど忘れした時にヘルプを出すカンペ係が入っている場所──にいるミカエラ・ウォーレンシュタット(みかえら・うぉーれんしゅたっと)にも届いていた。
「裏方もいいものでしょう?」
 メガネをかけたプロンプターのシャンバラ人に聞かれ、彼女は頷く。
「このオペラなら私も何度も聴いたことがありますわ、携帯用音楽プレーヤーで、ですけど。せっかくの生ですから、客席の方で聞きたいのは山々ですが……役者の方の熱を感じられるのもいいものですね」
 ミカエラは言われるままに彼の座る席のクッションを分厚いものに取り換えながら応える。彼女は最終版の台本を片手に、プロンプターへのお手伝いをしつつ、役者の不審な行動を見張っていたのだった。
 今のところ、舞台の上で不審な動きはない。あらかじめ仲間と決めておいた暗号など、使わなければよいのだが。
 確認の為に魯粛 子敬(ろしゅく・しけい)に手を振って見せると、両手がふさがっていた彼はそれを持ったままポーズを取って見せた。
「何をやってるんだい?」
 隣を行く小道具係に尋ねられ、子敬はこほんと咳払い。何でもありませんよと言って、頭の上にあげたヴェロニカの造花を、胸のあたりで抱えなおした。さっきから運び続けているこの造花は、芝居で大量に使われる。
「それにしても見事なものですね」
 舞台上では、「当主が用意した造花」と、「生花」の二種類とが存在するが、当然のように、どちらも造花だ。その微妙な色合いの違いは、小道具係がつくり出したものだった。
「だろう。本物が咲く最後のシーン、あれは遂には愛し合うことになった二人を示す大事な小道具だからね。政略結婚は当時も今も変わらないから、貴族の方々には喜ばれる話なんだよ」
(政略結婚は珍しい話ではありませんが、当事者にとってはつらい話になりますね。では、アウグスト様とアレッシア様のご夫婦仲はどうだったのでしょう)
 彼が見たところ、アウグストとアレッシアは、共にいるときは仲睦まじい夫婦にしか見えなかった。けれど、オペラの準備もあるからか、アレッシアは夫の側にはほとんどいない。そして夫もまた、妻にはあまり親切には見えない。
「もしや当代の当主様も……?」
「そうだよ。有名な話さ。奥様は、急に亡くなられた長兄の代わりに当主の地位を継ぐことになったバルトリ家の次男を助けるためだけに、嫁いで来られたのさ。周囲の期待にそってうまくやってこられている」

 一方舞台袖。
 ここから見えるオーケストラ・ピットには、既に十数人ほどの人間が集まっていた。
「……どうかしら?」
 彼らの一人が奏でる旋律と共に歌い終えた崩城 亜璃珠(くずしろ・ありす)は、アレッシア・バルトリに艶やかな視線を送った。尤も、彼女が“そう”なのはいつものことだったが。
 アレッシアの拍手は悪い手応えではない。
「良かったわ。歌がお好きなのね。でも──」
「でも?」
「残念だけれど、今日舞台に立つのは、今日の為に練習に練習を重ねてきた役者ばかりなのよ。そして今まで血のにじむような努力をしてきた方達。それに舞台に必要なのは個人の力量だけではなく、調和も必要なの」
「舞台に立ちたいって言ったのは、何も目立ちたいわけじゃないのよ」
 亜璃珠は肩をすくめる。
「予備の衣装を着て、舞台端のコーラスに混ぜてもらうだけでもいいの。歌うふりだけでもいいわ。何ならカーテンの影だっていい。……これは、あなたを護衛するためなんだから」
 彼女がアレッシアを守ろうと思ったのは、気まぐれに近いものがあった。ただ噂が本当なら、あまり他人事にも思えないと思っただけだ。
「それに、舞台で異変が起こった場合にも、すぐに対処できるでしょ?」
 趣味もあるけどね、とこれは口に出さず。
「劇の内容も調べてきたし……」
「──分かったわ」
 折れたのはアレッシアだった。
「私のことを思ってそこまでしてくださるのに、無下にはできませんものね。衣装はクロエさんに頼んでいただけるかしら」
「ありがとう。やるからには最善を尽くすわ」