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第7章 われてもすえに


 初めての道は、長く遠く感じる。それが急いでいるなら、なおさらに。
「わっ!」
「きゃっ! ……ごめんなさい」
 角を曲がった時、三叉路から飛び出した人物にぶつかりそうになって、鳥丘 ヨル(とりおか・よる)七瀬 歩(ななせ・あゆむ)は、お互いに悲鳴をあげた。
「歩ねーちゃん、だいじょーぶ? ……あ、百合園の後輩さんだ」
 歩の後ろを歩いていた七瀬 巡(ななせ・めぐる)が駆け寄って、歩の肩越しにヨルの顔を見つける。
 ヨルはぼさぼさの頭を手でなでつけると、
「ごめんごめん、ちょっと急いでたんだ。人探しの途中でさ」
「人探しって、もしかして……琴理さん?」
 ヨルが行こうとしたその道は、高級住宅街にある小さな丘に続いていた。両側に広葉樹が植樹されたその道は、今は落ち葉で黄色と赤の二色に染まっており、その先は小さな別荘地になっていた。それは歩達の行こうとしていた道でもある。
「そうそう、えーと、村上琴理(むらかみ・ことり)。お嬢様なんだってね。ボクならプチ家出に慣れてるんだけどねー。突然お嬢様が家出だったらびっくりしちゃうよね……って、ボクも一応お嬢様か、アハハ」
 それを矯正する為に入れられたんだったよね、とヨルは思い出して苦笑いしてから、
「うん、直接会ったこともないんだけど百合園の仲間だし……んーと、フェルナンだっけ、あのニーチャンがさびしそうで、ほっとけなかったんだよね。あっちもこっちも心配じゃ倒れちゃいそうだよ」
 それで今度は、ヨルはパーティ会場から抜け出してきたのだった。「琴理は大丈夫だから信じて待ってな、ニーチャン」と言ってきたとき、余り表情を変えない(大抵微笑を浮かべている)彼が嬉しそうに見えた。
「じゃあ、一緒に行こっか。お友達も、探すのを手伝ってくれてるの」
 歩とヨルは連れ立って、別荘地へと入っていった。
 琴理の家は立ち並ぶ別荘のうちの一軒だ。百合園のお嬢様の何割かがそうであるように、彼女はパラミタに別荘を持ち、そこから百合園女学院に通っている。
 いかにも「洋館」といった風、チャコールグレーの煉瓦造りに白い窓枠の建物は、大正時代の財閥のお屋敷のようだ。
 チャイムを鳴らすとメイドらしき人の返答があり、ほどなくして扉が開いた。
 足元まであるロングのメイド服にフリルエプロンをつけた彼女は、シャンバラ人らしい。
「琴理お嬢様のご学友の方でいらっしゃいますね。お嬢様は今、ご病気でお会いできないのです。せっかくおいでいただいたのですから、お茶を……」
「その話なら、パートナーのフェルナンから聞いてるよ。失踪したんだよね?」
 ヨルのストレートな物言いに、メイドは面食らったようだが──そう言ってほしかったのだろう。彼女は素直にはい、と頷いた。
「じゃあ、病気の方はもう大丈夫なんですね。良かった。でも……学校休んでどこに行ってるんです?」
「どこに行ったかとか、理由とか、手がかりになるようなこと知らない? 必要なら、聞いた話は誰にも言わないって約束する。校長に誓ってもいいよ」
「それは……申し訳ありません。お嬢様に、ご友人には言わないように、と申しつかっておりますので……」
 本意ではないのだろう。彼女の言葉には強さがなかった。
 歩は唇に指を当てて、ちょっと考えた後、
「うーん、こういう考え方はどうでしょう? あたしはここに初めて来たから、メイドさんはあたしが琴里さんのお友達だって知らなかった。それなら、お友達に伝えないでっていう約束は破らなくて良いんじゃないでしょうか」
 へ理屈なのはわかっているけれど。でも、ここで引きさがったら何もできない。
 メイドはしばらく黙って葛藤したようだったが、真剣な彼女たちの表情に、そうですね……、と口を開いた。
「闇龍が現れ、ヴァイシャリーを襲ったとき……、契約者の皆さんのおかげで、殆どの人は助かりました。被害は、軽い怪我をした人や、壊れた建物が少しあるくらいで、それも今は復興しています。……ですが壊れた建物の中に、あるお店があったんです」
 それは老夫婦が経営している画材店で、琴理も時折訪れる店だった。
 老夫婦は後を継ぐものもないそこを、いずれ閉める予定だった。琴理もそれを聞いて心の準備をしていたという。
 けれど、その時期は予想外に早く来てしまったのだ。老夫婦には、闇龍の襲撃を受けて壊れた店を建て直すほどの資金の余裕はなかったから。
「お嬢様はそのことに責任を感じていらっしゃるようなのです。鏖殺寺院との戦い、闇龍の出現──それらは地球とパラミタが接触し、地球人がパラミタに入り込んだのにも原因がある、と」
 責任を感じる必要などないのに、とメイドは言った。
「これ以上のことは、お嬢様から直接伺ってください。お店の場所はこちらです」
 メイドは観光マップを取ってくると、付録の地図に印をつけた。

「……そうですの、もう閉店されていてお店は空になっていましたわ。ええ、でも……ご近所の方に引っ越し先をお伺いしましたのよ。住所は……はい、では、そちらで合流いたしましょう」
 神倶鎚 エレン(かぐづち・えれん)は歩に返答して携帯を閉じると、パートナーアトラ・テュランヌス(あとら・てゅらんぬす)エレア・エイリアス(えれあ・えいりあす)に、そういうことですわ、と振り返った。
「そうですわね〜。たぶん〜、琴理様は〜、そちらで間違いないと思いますわ〜」
 写真片手に聞き込みを行っていたエレアは、エレンに頷く。写真には“ソートグラィー”で念写した琴理の姿が映っていた。
「何度か〜、お買い物をする〜琴理様の〜姿が〜、見かけられて〜いるそうですわ〜。それに〜、時々〜一緒に〜男の方が〜いらしたとか〜」
「それでそれで、その男はどんなだった?」
 アトラが、彼女に戯れる狼に騎狼、パラミタ猪をなだめながら、間延びしたエレアをせかす。
「背が〜高くて〜、金髪を〜肩でリボンで結わいた〜」
「フェルナンさんですわね」
 エレンがエレアの言葉を引き取る。
「エレンねえ、早く行きましょう! 近くまで行けば、ボクやイノシシの鼻できっと見つかりますよ。見ててくださいね!」
「頼りにしてますわよ、アトラ」
「ん〜、琴理様は〜、何も〜出来なかったって〜いう思いから〜、力を〜求めたのかしら〜? それとも〜、単に〜老夫婦さんに〜何かして上げたいと〜思ったのかしら〜?」
「それはご本人に伺いましょう。さ、行きますわよ」

 村上琴理は、とぼとぼと道を歩いていた。その顔には疲労の色が隠せない。しかしそれよりも後悔と悔しさの方が濃く現れている。
 その小さな家の扉の前に立つと、彼女は首を振った。失意と一緒に疲労を振り払う。
 分厚い扉──この借家は、元々は礼拝堂であったという──のノッカーを叩いて、老夫人が顔を見せた時には、彼女は微笑を浮かべていた。日頃の訓練の賜物だった。
 ……が、その顔は一瞬にして驚きに変わる。
「こんにちはー。おじゃましてますー」
 ダイニングの古いテーブルを囲んでいたのは、彼女の友人たちだった。
「何で、ここに……っ」
「ちょっとびっくりさせたいかもー、って思ったんだー」
 歩はマグカップをテーブルに置くと、お尻を動かして長椅子を詰めた。
「はい、ここどうぞー」
「私達の情報収集能力を侮っていらっしゃったの? ヴァイシャリーのことなら、大分詳しくなりましたのよ」
 エレンがくすりと笑い、ヨルが発見した旨をフェルナンの携帯にメールを打ち終え、ぱちんと携帯を閉じ、
「フェルナンには知らせたくないような、友達を心配させてまで一人でやりたいことって何なのかな。あ、ボクは琴理と友達じゃないから、断られても勝手に付いてって共犯者になるからね?」
「あ……あの……」
 琴理は踵を返そうとしたが、その腕を扉を閉めた老婦人が取る。
「琴理ちゃん、せっかくお友達がいらしてくださったんですから、お話ししていきなさいな。ショートブレッドが焼けたところなのよ」
 老婦人が微笑んで、キッチンに立つ。エプロンをつけた歩がポットから、お茶をカップに注いだ。
 オーブンから取り出されたあつあつのショートブレッドが切り分けられると、老婦人はおじいさんに持っていくから、と席を外してしまう。
 それが気を遣ってのものだと琴理は知って、そして家主に挨拶もせず家を出るわけにもいかず、琴理はますます逃げ出すタイミングを失った。
「あのね、琴理ねーちゃん。事情があるのかもしれないけど、皆に頼りなよ」
 沈黙を続ける琴理に向けて口を開いたのは巡だった。
「……」
「うーんとね、歩ねーちゃんは何も言ってくれなかったことがちょっと嫌だったんだって」
「……ごめんなさい」
 琴理は、うな垂れて視線を膝に落とした。「お嬢様」で、時々取り澄まして。そんな印象はもう彼女には微塵もなかった。取り繕う必要もないと判断したからだが、それは友人が自分を心配してくれていたことが、意外で、申し訳なかったからだ。
「だけど、私……ひとりで、解決するべきことだと思ったから。それに、ヴァイシャリーは事件も起こっているみたいだったし……」
「まあ、夫人の護衛や犯人探しのほうはいくらでも人はいそうですしね。真珠ちゃんが繊細な問題を穏やかに解決する鍵となるかもと、お迎えに来ちゃいましたわ」
 エレンの言葉に、琴理はまた黙る。
「ですから、皆さんで琴理さんの方の問題を、解決してしまいましょう。こちらのことは……事情はある程度聞きましたわ。ここの老夫婦が経営していた画材店を壊され、店をたたんでしまったこと。老夫婦もヴァイシャリーを離れて故郷に帰るつもりでいること。それから……そのお店には、フェルナンさんが小さいころから通っていたんですってね?」
「はい」
 パートナーであるフェルナンの趣味は、絵を描くこと。何かと忙しくして、時間が取れないのが悩みだったが、数少ない息抜きのひとつだった。
 琴理はそのことをよく知っている。
「彼は、こちらのご夫婦が経営するお店の画材を好んで使っていたの。中でも、特に美しい青色の絵の具があって。こちらのご主人の作られたものだったんです。だからお店が閉まったときに、ずいぶん落ち込んでいて。
 閉店後は同じような色の出る絵の具を探したけれど、結局見つからなかったの。
 それで、こちらのご夫婦の家を探して、絵の具を作ってもらうために、材料を探しに……」
 琴理は、イルミンスールの森やヴァイシャリー湖に出かけて、絵の具の材料を集めていたのだった。
「私達地球人が、この状況を招いたなんて、私に責任があるなんて、おごってると思うけど。でも……私は、彼が地球に来た時、助けてもらったから。だから、一緒にパラミタで、私自身の為に、彼のためにも私ができることをしようと思ったの」
 彼女はポツリポツリと話し始めた。
 地球の百合園に通っていた頃、はじめての恋をしたこと。
 けれど、その相手は「お嬢様」なら誰だってよかったのを、知ったこと。
 初めて会ったフェルナンが、その場に居合わせて、惨めな自分から助けてくれたこと。
 その時、自分は「お嬢様」であることを開き直って、武器にしたいと思ったこと……。
 ……琴理は、手のひらを水を掬うように合わせた。
「でも、ささやかな、掌にはいるだけの幸せを守ることもできなかった」
 馬鹿よね、と彼女は寂しげに呟いた。
「琴理ねーちゃん。……ボクたちに頼ってって言わないで、ボクたちを助けてって言ったら、呼んでくれた?」
 琴理は視線を上げて、巡を見る。ちょっとだけ、彼女の目尻は上がっていた。それから、下がって。
「……あ……」
「一人じゃないんだよ」
「…………うん。ありがとう」
 くしくしと。琴理は目をこすった。泣いているように見えた。

「そうですわ、これは聞いておきませんと。ねぇ、琴理さんやフェルナンさんのことですから、真珠ちゃんがなぜバルトリ家からあんな賭博場に連れてこられていたのか、その辺りの事情も調査済みなんじゃありませんの?」
「はい、手間取りましたが、おおよその事情は」
 琴理は立ち直ったのだろう、はっきりと頷くと、ポケットの中からうさぎの着ぐるみを着たゆるスターを取り出した。
「上流階級の間で、ゆるスターを飼うことが流行っているのはご存知ですよね。真珠は、その中でも純白で美しさで名高いゆるスターだったんです。飼い主はすぐにわかりました──アレッシア・バルトリさんです。ですが、ある時期から連れているのを見た人がいなくなったようです」
「おそらく、賭博場に流れたから、ですわね」
「元々、アレッシアさんも友人からいただいたゆるスターで、大事にされていたそうなんです。ですが、それを売却したのは……夫アウグスト氏でした。ヴァイシャリー軍が押収した顧客名簿の中に、その名前があったそうなんです」
「借金のカタというわけですわね。夫人が大事にされていることをご存じだったでしょうに。まったく、ろくでもない方だったようですわね」 
 琴理は、うさぎの着ぐるみの頭をなでる。
「返しに行った方がいいとは思うんですけど。でも……社交界にまた連れ出されて、見世物になるのがいいのか……分からなくなって」
 それは私の決めることではないけれど、と琴理は言う。
「でも、とにかく私は戻ります。フェルナンに謝らなくちゃいけないわね」
「うんうん。でももう夕ご飯の時間だよ。腹が減っては戦はできぬ、ってね。あんパンとメロンパンとみかん、どれがいい?」
 ヨルが差し出したそれらの中から、琴理は噴き出してみかんを手に取った。
「われてもすえに あはんとぞおもふ……」
「百人一首の歌だね」
「一般的には恋の歌って言われているけれど、詠んだ崇徳院のことを考えると、別の解釈もできるの。今の状況にぴったりだな、って。……分かたれた東西のシャンバラ。川を割いたのは、岩。どうにもならない状況、人の悪意、意識の集合のようなもの」
 これから赴こうとするのも、そういった戦場のひとつ、社交界。
 でも、みかんの優しい色に、懐かしい甘さに。日本のことを彼女は思い出して──もう少し、頑張れそうな気がした。
「みんな、ありがとう」
 ここは日本ではないけれど、側には友人たちがいたから。