リアクション
第1章 廻りだす歯車 3
イナンナ率いる陽動部隊が動き出していた頃――たおやかな黒髪をなびかせる一人の女は『神聖都の砦』を揺れることのない視線で見下ろしていた。
沙 鈴(しゃ・りん)。パラミタの馬に乗り、砦と神聖都キシュとの動きを監視し続ける彼女の姿は、さながら砂漠に立つ監視塔のようでもあった。
そんな彼女のそばにいるのは、同じように監視を続けるパートナー、綺羅 瑠璃(きら・るー)である。鈴よりもどこか幼さを残すその顔が、それまで雑音混じりに連絡を伝えていた通信機から離れた。
「向こうは進軍を開始したみたい」
「そう……あとはシャムス様と、そしてタイミングを待つのみですわね」
通信機の音ははたと途切れた。
「お姉さま」
「なに?」
瑠璃の不安げな顔が、鈴を見上げた。
「……上手くいくかしら?」
「さあ……それは黒騎士様しだい……そして、私たちシャンバラの勇士たちしだいですわね」
鈴の冷静な返答を受けて、瑠璃の表情はさらに曇りを見せた。希望ある言葉を期待していたのかもしれない。しかし、鈴はそれが油断を招くことだと知っている。よくも悪くも軍人は、冷たい目を持たねばならない。特に『監視』という役目を担った自分には、それが何よりも必要なことだ。
――だが。
「……でもね、瑠璃」
続けられた鈴の声に、瑠璃が顔をあげた。
「信じることは悪いことではないですわ。わたくしも、カナンの勝利を信じていますもの」
曇ったままだった瑠璃の表情は、静かに陽を見せた。
「ただ、軍人たる者、見えるはずのものを見ないのはなりません。それだけは、肝に銘じておくべきですわ」
「……はい」
強き意を込めて、瑠璃は声を返した。
そのとき、彼女たちのもとに地を弾く蹄の音が聞こえてきた。振り返ると、数名の団体が群れをなし、一人の老女を先頭に鈴たちのもとまで向かってくる。どうやら、黒騎士たちが到着したようだ。
彼らの服装は主にローブを中心とした砂地色のものだった。一部が中に着込むのは、先頭の老女――秦 良玉(しん・りょうぎょく)が周辺の村から借りてきた民族衣装である。そうそう歓迎したくはないが、もしも敵に見つかったときは住民だとごまかさなければなるまい。
「ほ……ようやくたどり着いたのぉ」
「遅れてすまない」
老女に連れられて鈴のもとにやってきた黒騎士は、関口一番に言った。
「いえ、時間通りですわ」
無論、それはシャムスも承知のうえだった。ただ、計算外なことは、予定よりも敵軍の動きが早いということだった。本来はイナンナからの進軍の連絡も、シャムスたちが到着してから受ける予定だった。
早速、シャムスは鈴のそばから『神聖都の砦』を見下ろした。
「あそこが、補給物資を運び込むための入り口ですわ」
鈴はそう言うと、まるで隠れるように砦の背面にある、密やかな扉を指さした。そこにいるのは、見張りであろう兵士がぽつりと3人ほど、周りを警戒しているのみだ。
「……今回はあそこから侵入するのが無難か」
「ですわね。こちらの進軍で緊急の物資補給があるかもしれませんが、それはこちらでも対処いたしますわ。……少なくとも今はそんな動きは見られないですし、それが最もベストかと思いますの」
シャムスは頷いた。
ここから砦の背面に近づき、あとはタイミングを待つ。ちょうど、鈴がこちらに合図を送ってくれる予定だ。
準備は整っている。ただ、唯一の不安があるとすれば、それは――
「泉美那か」
澄んだ響きで、傍らにいたレン・オズワルド(れん・おずわるど)の声が聞こえた。はっとなって、シャムスが振り向くと、レンはサングラスの奥から彼を覗きこむように見つめていた。正面からのその視線に、シャムスは素直に唇を動かしていた。
「……ああ」
「ヴァイシャリーで泉美那という人物が、南カナン領主シャムス・ニヌアの妹を名乗り、そして……モートという魔女に連れ去られました」
レンのパートナーであるメティス・ボルト(めてぃす・ぼると)の伝えてくれた情報だ。にわかには信じられない事だったが、事実、その場に居合わせていたというクド・ストレイフ(くど・すとれいふ)や七瀬 歩(ななせ・あゆむ)からも話を聞いている。事実であるということは、信用せざる得ないことだった。
……だが、シャムスは彼女の血を分けた双子の兄である。あの時、あの瞬間、確かに石像の間にエンヘドゥの石像はあった。どこからどう見たとしても、エンヘドゥであったことは間違いない。
ヴァイシャリーでエンヘドゥは水晶化され、モートに連れ去られた。だが、砦にあるのは石像となったエンヘドゥ。――二人のエンヘドゥがこの世に存在する。
「水晶か石像か……どう思う?」
レンの問いかけに、シャムスはわずかに顔を俯ける。
「どちらかは分からぬが……いずれにせよエンヘドゥはそのモートという魔女に捕まっている。奴と相まみえれば、明らかになるはずだ」
今は答えを出すことはできなかった。
シャムスの瞳がモートに対する怒りを露にするように鋭くなり、同時に、ささやかな歯軋りが兜の奥で鳴る。睨みつけるは敵の本陣、『神聖都の砦』。冷静さを保ちながら、彼の心は怒りと……そして緊張に包まれていた。
救えるか? もし失敗したとして、そのとき南カナンはどうなる? オレは、みんなを守れるのか?
知らぬうちに、シャムスの手は震えていた。手のひらの中は汗ばみ、見えぬ未来の姿におびえていた。
すると、柔らかい感触が彼の手をぎゅっと握った。
「あうら……」
「えへへ」
小さな手の主に目をやると、八日市 あうら(ようかいち・あうら)は恥ずかしげに笑っていた。
「あの……緊張、してますか?」
「ば……そ、そんなことは……」
意地を張った子供のような声で、シャムスが言った。しかし、あうらはそんな彼の手を持ち上げて、握り合って手のひらを示す。
「大丈夫。シャムスさんのそばに、私たちもいますよ」
彼女は、暖かい陽の光のような笑顔を浮かべた。それは、やがてにこやかな少女のものとなる。
「『ノーフレンドノーライフ』もあながち間違いじゃないと思うんですよ。だから……」
それは、先日シャムスが茶化した彼女の言葉だった。
気づけば、シャムスは自分の手の震えが止まっているのに気づいた。そんな彼に、あうらのパートナーであるヴェル・ガーディアナ(う゛ぇる・がーでぃあな)が続けて声をかける。
「あうらの言うとおり、過ぎた緊張は毒だぞ」
「ど、毒って、ヴェルさん……」
思わず戸惑いながら制すあうらだったが、次いでヴェルは口にした。
「こいつの元気、遠慮なくもらっておけ」
「ヴェルさん……」
それ以上は何も言わなかった。あうらも、ヴェルも、そしてシャムスも。暖かくなったぬくもりある手のひらを見下ろしてから、シャムスはあうらたちを見つめた。
「……そうだな」
優しげな色を、その瞳に宿して。
「なあ、あうら」
「はい?」
「妹を助けられたらそのときは、あいつの友達にもなってやってくれるか?」
「……はい!」
●
薄暗い部屋の中のモニターに映るのは、巨躯の各部を通る駆動構成の断面図だった。それを元に、数字の羅列を解読してキーに打ち込んでゆく娘が一人いる。
彼女の指は手馴れた様子で動き続けるが、わずかに迷いが見えるのはおそらく見間違いではないだろう。やがてキーを打ち終えたとき、画面に映った文字は無機質なエラーを伝えていた。
「はあ……」
「にゅ……ローザ、休憩……する?」
ため息をこぼす娘に、
エリシュカ・ルツィア・ニーナ・ハシェコヴァ(えりしゅかるつぃあ・にーなはしぇこう゛ぁ)のゆるい声がかかった。心配そうな彼女に、ローザこと
ローザマリア・クライツァール(ろーざまりあ・くらいつぁーる)は自嘲的な笑みを浮かべる。
「そうね。一旦休んで、また再開かな」
「むずかしい、の?」
エラー画面のままのモニターを見て首をかしげると、エリシュカは尋ねた。
「なかなか、上手くはいかないわね。ブックボックスが多すぎる。動くことは動くみたいだけど、仮に起動したとしても本来の半分も機能が発揮できないと思うわ。これじゃ、普通の飛空艇のほうがまだマシかも……」
「ぅゅ……む、むずかしい、かも」
「要するにとっても複雑、ってこと」
『御方様』
傍らに置いていた無線機から声が聞こえたのは、ローザが混乱する頭を抑えるエリシュカに苦笑の表情を向けた、そのときだった。
「菊?」
『はい、左様でございます』
ローザたちとは別の場所で、この巨大飛空艇エリシュ・エヌマの調整に当たっていた
上杉 菊(うえすぎ・きく)からの連絡だった。
『左舷缶室の方、異常無しに御座います。続いて動作確認に移ります』
「ああ、待って。その前に何名か作業員をそちらに向かわせるわ。そちらのほうが、なにかと対応しやすいはず」
『承知いたしました。では、そちらを待って確認に移ります。ところで、御方様?』
「なに?」
『各部の自動化の件なのですが、そちらは……』
「もしかして、そっちもエラーが?」
『……はい』
先を予想して口にしたローザに、菊の申し訳なさげな声が返ってきた。
『出来うる限りのことはやったつもりなのですが、どれも違うようで……』
「もしかしたら、プロテクトでもかかってるかもしれないわね」
ローザは悩みながらうなる声を漏らす。領主の家に残っているぐらいの重要な遺産である。プロテクトの一つや二つがあったとしても、なんらおかしいことではない。ただ、問題はそれをどう解くかだが――ニヌア家そのものに鍵があるかもしれない。
『ローザ』
「ジョー?」
それまで菊と話していた無線機の向こうから聞こえてきたのは、菊とともに各部の調整に当たっていた
エシク・ジョーザ・ボルチェ(えしくじょーざ・ぼるちぇ)だった。
『整備室に入らせてくれっていう作業員たちが何名か来てるみたいです』
「ああ……たぶん、要請してた南カナンのテクノクラートやアーティフェクサーだわ。了解、じゃあ、私がそっちのほうで対応する。動作確認は菊と一緒に任せるわ。お願いね」
『了解しました』
無線機の音が途切れると、ローザは早速新しい作業員のもとへ向かうために準備を始めた。散らばっていた道具を片付けて、備え付けの椅子にひっかけてあった上着を引っ張る。
退室しようとする――その前に、彼女は冷たい空気のこもる部屋をもう一度振り返った。モニターは、いまはエラーメッセージさえも表示されていなかった。
「……エリシュ・エヌマか」
「はわ……このおふね、エリシュっていう、の? エリーと、おんなじ名前、なの!」
ローザの呟きに、エリーが明るい声を返した。
名前……そう、エリシュ・エヌマという名を冠する、飛空艇。この暗い地下でどれだけの間、眠り続けているのだろう? そして空に飛び立ったとき、これはどんな産声をあげるのだろう?
「うゅ……一緒に、飛べると、いいな!」
「……そうね」
ローザはエリーとともに部屋を後にした。