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■第4章

 結局、その夜も『マルガレーテ』はオペラ座のプリマドンナ・カルロッタが演じることとなった。
 カルロッタがふさわしくないかといえば、それは全く違う。
 彼女は間違いなく天才だった。
 だれにも真似できない、幅広い音域でありとあらゆる曲を正確に歌うことができた。
 その性はどうあれ――いやその他者の追随を決して許してはならないという気質だからこそ、彼女は自らにわずかの狂いも許さなかった。
 舞台の上で一音たりとはずしたことがないことが自慢であり、誇りだった。



 今夜もまた、煌々と照らされたオペラ座の前に次々と馬車が止まり、乗客を降ろしては去っていく。
「遅れちゃったかな?」
 踏み台を下ろしてくれた御者にお礼の会釈をしながら、燕尾服姿の神和 綺人(かんなぎ・あやと)が真っ先に降りた。
 振り返り、差し伸べられた手に、肘まで覆う長手袋をした小さな手がそっと乗る。

「ちょ、ちょっと待ってくださいね。ドレスが…」
 めずらしくあせった様子で神和 瀬織(かんなぎ・せお)が、わさわさと前をふさぐドレスをすくうように持ち上げる。
 なにしろバラの花をイメージされたこのドレス、花びら型にたっぷりとひだがついた飾りが覆っているため、いくらすくってもすくっても足元が全く見えない。
「急がなくていいから、すべらないよう気をつけてね」
 瀬織はゆっくりと、つま先で段を確認しながら馬車から歩道へと降りたった。
「あ、あの……わたくし、おかしくありませんか?」
 降りるときにいろんなところを触ったりぶつけてしまった。もしや崩れてしまったのでは、と気にしていろいろな角度からドレスを見ようとする瀬織がかわいくて、綺人はくすくす笑った。
「大丈夫だよ。どこもおかしくないから。すごくかわいい」
 そう言って、小さな花束を手渡した。
 胸のコサージュとおそろいの、純白の花束だ。レースの縁取りがついている。
「ありがとうございます」
 そっと、瀬織は赤くなっているに違いない頬を隠そうと、花束を口元にあてた。

「……む〜〜〜」
「クリス、そっとだ。少しずつ足から力を抜け。でないと転ぶぞ」
 背後でそんな会話がして、綺人は振り返った。
 ユーリ・ウィルトゥス(ゆーり・うぃるとぅす)の手を借りて、クリス・ローゼン(くりす・ろーぜん)が馬車を降りようとしているところだった。
 白いシルクハットに礼服姿のユーリはその貴族的な顔立ちもあって、なかなか目に映える。対するクリスも、黙って立っていればかなりの美少女の部類に入るため、ドレスを着て髪を結い上げた今の姿なら全く見劣りしない。美男美女の登場に目を奪われた周囲が、ほうっとため息をつくのが聞こえる。

 しかし当の2人は、それどころではなかった。
 というか、2人のしている会話を聞いたら、起きるのはため息でなく、失笑だっただろう。
「力を抜けと言っているだろう」
「だってそんなことをしたら転びそうで……このっ、このドレスがいけないんです!」
「大人ドレスにしてくれとスウィップに耳打ちしていたのはクリスではないか」
 それで綺人を悩殺したかったんだろう?
「だってだって、まさか、マーメイドなんて…」
 足元が全く見えないのに、瀬織のように裾が持ち上げられない。
 おかげで中で踏んずけてしまった。
「いいから、つま先から力を抜きつつ足を引け。ペチが破ける」

 …………ピリ。

 あ。
「いやッ! 破けちゃいましたぁ!!」
「動くな!!」
 制止の言葉ももう遅い。あせって動いたクリスはつるりと踏み台を踏みはずした。

 ――――ドサッ。

 ユーリとは反対側へ横倒れしたクリスを、危ないところで綺人が抱きとめる。
「大丈夫? クリス」
「あ……はい。ありがとうございます」
 偶然の結果とはいえ綺人の胸に抱きこまれるかたちになって、思わずクリスの顔は緩んでしまう。
 だがそれも長くは続かない。
「――って、ああっ、ドレスが!」
「大丈夫ですわ。少し内側の縫い目が裂けただけで、表には全然響いていません」
 しゃがみこめないクリスのかわりに瀬織がそっと持ち上げて、被害の程度をはかった。
「よかった…」
 ほう……と胸をなでおろす。
「あ。でも髪が少し」
 綺人にぶつかったせいで。
「えっ!? どこっ?」
 あわてて頭にあてた手を、へたに指先がどこかひっかける前にと、綺人がそっとおろさせた。
「こっちも大丈夫だよ」
 にっこり笑顔で応じる。
 実際、かっちり決まっているよりも、少し髪がこぼれたくらいがちょうどいい。
「そうですか…?」
「うん。クリスもかわいいよ」
 「も」というのと「かわいい」というのが内心ひっかからなくもなかった。
 「かわいい」では悩殺は難しい。

(せっかくオフショルダーで、背中もぐっとあいて、うなじまで見せつけてるのに…)
 アヤからいただけた言葉は「かわいい」ですか。
 しくしく、しくしく。
 顔で笑って心で泣いて。

「さあ、行こうか!」
 うじうじ考え込んでいたクリスの前、綺人は満面の笑顔で隣の瀬織に肘を出した。
 瀬織は、ちらっと後ろのクリスを見て、んー? と考えたものの、やっぱり綺人の肘に手を絡ませる。
(あーーーーっ!!!)
 目を瞠るクリスを残し、2人は階段を上って行った。

(たまにはいいではないですか。わたくしだって、綺人にエスコートされるお姫さまをしてみたいのです)
 クリスからの視線は痛いが、ここで気にしたら負けだ。

 結果的、クリスはユーリに手をとられてオペラ座に入ることになってしまった。
 それをうらやむ女性たちの視線など、ぶっちぎりで無視だ。
「綺人は興奮を隠し切れない様子だな」
 あんなにもはしゃぐ綺人を見るのはめずらしい。
 それだけでも来てよかったとしみじみ思うユーリの横で。
「――オペラ座に来たがっていましたから…」
 ぶつぶつ、ぶちぶち。
 ほかにも何か聞き取れない、ぶっそうな言葉をつぶやいている。まるで呪文のようだ。
「ライトニングランスで強制排除とかするなよ」
「――しません! ……そりゃあ、一瞬考えましたけど」

 考えたんですか!? クリスさん! 死んじゃいますってそれって!

「アヤの隣は私のものなのに…」
 こうなったらボックス席は、絶対絶対アヤの隣を死守です!
「行きましょう! ユーリさん!」
 決意を新たに階段をガンガン上って行こうとするクリス。
「急ぐとまた裾を踏むぞ」
 ユーリの忠告は、残念ながら耳に入っている様子はなかった。



「エース、どう?」
 ルカルカは、くだんの5番ボックス席を覗き込んだ。
「……いや。どこにもそれらしい形跡はないな」
 床を見ていたエースが立ち上がる。
「怪人との仲介をしていたマダム・ジリーによると、彼はオペラが始まったらいつの間にか中にいて、いつの間にか帰っていたそうだけど…」
 こつこつ。ルカルカは壁を叩いたが、それらしい仕掛けがあるようには思えなかった。
「いきなり後ろに立たれるのだけは避けたかったんだが…」
 仕掛けが見抜けない以上、仕方がない。
 これ以上どう探せばいいか、見当もつかないし。
「ここ借りる許可はとれたんだろ?」
「ええ」
 紳士としてのマナーが染みついているエースは、自然とイスを引き出してルカルカを座らせる。
「じゃあ、あとは出てくるのを待つだけだね」
 ルカルカの隣のイスに深く腰掛け、エースは指を組んだ。



 第一幕は何事もなく終わった。なぜなら第一幕はファウストとメフィストの話で、マルガレーテは歌わないからだ。
 第二幕、開演前。いよいよカルロッタ扮するマルガレーテが歌う場面である。

 舞台には、金の房飾りがついた分厚い赤緞帳が下りている。
 客席側のざわめきが聞こえる中、舞台では場のセッティングとタイミングの打ち合わせを行っていた。
「いいか? 場面転換が必要になったらこの端を持って、さっと走るんだ。タイミングは俺が出す。向こうの袖で明かりが見えたら走れ」
 美術監督の1人が、幕引き役の影野 陽太(かげの・ようた)に指示を与えている。
 彼は怪人からの手紙を読み、きっと舞台で何かが起きると感じて、舞台スタッフにすり替わっていたのだ。
 しかし。

(美術スタッフも監督もムリ! きっとムリ! 支配人役なんて絶対ムリだから!! カルロッタなんてできないし! その相手役になって大勢の観客の前でオペラ歌うなんてできません〜〜〜〜〜〜っ!!)
 と思った陽太は、舞台袖で待機していつでも舞台に出られる存在、幕引き役を無難に選択したのだった。

(ここなら客席の様子だって目立たず一望できるし。いざとなれば注意だって聞いてもらえる位置だし)
 幕ひだにまぎれて客席を伺いながら、結構いいポジションをとったんじゃないかと内心思っていたりする。

 そこへ、乱世刑事とグレアム刑事を引き連れたカルロッタが現れた。
 自分の定位置につき、あー、と声を出して音階を調整している。
 客席に漏れない程度の音量で歌を口ずさむ彼女に、乱世、グレアムの2人は、心なしかげんなりした視線を向けていた。
 口を開けばクリスティーヌ陰謀説ばかりのわがままで女性と控え室にこもっていたのだから、そうなるのも当然だろう。

「はわ……エリーが、あのジュディチェルリってひとの役を、やる、の?」
 舞台袖の人目につかない場所で彼女の様子を伺いながら、エリシュカ・ルツィア・ニーナ・ハシェコヴァ(えりしゅかるつぃあ・にーなはしぇこう゛ぁ)が隣のローザマリア・クライツァール(ろーざまりあ・くらいつぁーる)を見上げた。
「そうよ。彼女を「わがままだけど憎めない娘」にするの。エリーならぴったりね」
 ローザマリアの、ほめてるんだかどうなんだか分からない形容詞に、エリシュカは少し眉を寄せる。
「……うゅ、うまくできる、かな?」
「大丈夫。エリーはこんなに愛らしいから!」
 ぎゅっとハグされて、エリシュカはうれしさのあまり、ふんわりした笑顔を浮かべた。
 まさにマシュマロ、わたあめ、生クリーム。

 ああどうしよう? 食べちゃいたいくらいかわいい。

「私はそばにいられないけど、でもエリーの活躍はちゃんと上から見てるからね!」
「うゅ……がんばる、の」

 ローザマリアが光学迷彩を用いて去って行ったあと。
 エリシュカはぎゅっとスカートを握り締めていた手を緩ませ、舞台の上のカルロッタに近づいた。



「ちょっと! エリー……じゃなくて、あ、あたしは、甘い物がほしいって言ったのよー」
 うわー棒読みだー。

「ですから、紅茶を…」
「はわ……ちが……こ、こんなの、ただのあまいおちゃ、なのー」
 がんばれエリー。

 がしゃん、とサイドテーブルに置かれたトレイをひっくり返す。でもこわごわなので、たいした音もしないし、カップも転がるだけで割れない。

「あたしは、ケーキが食べた〜い! チョコレートが食べた〜い!」
 じたばた、じたばた。

「監督、どうしますか? あれではとても幕が上げられません」
 急に寝転がって手足をばたばたさせ始めたカルロッタを見て、舞台監督も顔を覆った。
 もとからわがまま娘ではあったものの、あそこまで奇行に走ることはなかったのだが。
「……ケーキを食べさせればいいだろう…」

「はわ……あまいの、たべられない、の。もっと、からくないと、だめなの」
 ひとくち食べただけで、またがらがっしゃん!

「……エリーちゃん、すごい。私にはとてもできない」
 遠野 歌菜(とおの・かな)が人の背中越しにその光景を見てつぶやく。
 そして真剣に考えた。
(あれをしなくちゃカルロッタにはなれないのかしら?)
 いえ、全然そんなことないと思います、歌菜さん。

「――ええい! もう幕を開けてしまえ!」
 え? いいんですか?
 全員が監督に疑問の視線を投げる中。
「すでに時間をすぎている! カルロッタはプロだ。客を前にすれば元に戻るだろう!」
 やけくそ気味の発言だったが、監督の言葉なので、助手は従った。
 緞帳がするするする……と上がっていき、寝転がってM字に足を振り乱したカルロッタが客の前にさらされる。
 おぱんつ――というか、ドロワーズまるみえ。
 カルロッタはぱぱっと起き上がり、あわててスカートを下ろした。

「歌え、歌うんだ。ほら歌えっ」
 舞台監督が、まさに祈るような思いで舞台袖から指示を出す。
 エリシュカは、すうっと息を吸い込み歌いだした。


 その光景を、天井部から見下ろす影あり。

 スポットライトを吊り下げた、木枠のみの足場にうずくまり、舞台上のカルロッタを見ている。
 ライトはすべて下を向いているため、天井部は暗く、人影ということだけしか判然としない。

(いた! あれが怪人ね!)

 ローザマリアは音もたてず背後から近づき、光学迷彩で姿を消したまま不意打ちで疾風突きをくらわせた。

「きゃわっっ!!」
 真後ろからまともにくらった相手は、そんな声を上げて吹っ飛ぶ。
 しかし相手もさる者で、枠と枠の隙間から落ちると思われたところを見事立ち直り、腕のバネで跳躍して足場に立った。
「さすが怪人、というところかしら」
 あれで倒れないなんて……相手にとって不足なし。
 ローザマリアは光学迷彩を解除して姿を現す。

「失礼な! 私は怪人じゃないわ!」
 憤慨し、すっくと立ったあやしい人影。
 幸か不幸か舞台の真上で、今までの客席側と違い、あかるさが増していた。
 ぼんやりとした光の中、浮かびあがったのは――――……

 ツインテールが揺れる中、身に着けているのは肌色全裸スーツに黒いマフラー、そして股間に巨鼻の天狗面。

 ……どこからどう見ても怪しい人です、コトノハさん。

「問答無用! 怪人め!!」
 それ以外の者がこんな場所に潜んでいたりするものですか!

 その判断はとても正しいと思います、ローザマリアさん。

「ち、違うってば! 私は連続殺人犯を見すごせないからー!」
 だってだって、この話ってスポットライトが落ちて、下で演技している女性が押し潰されて死んじゃうのよね!? たしか!

 それ『金田○少年のオペラ座館殺人事件』です、コトノハさん。ここオペラ座、1文字違い! 惜しい!……って、1文字違いでえらい違い(汗

「だから、その犯人をここで待ち伏せ――って、全然きーてないーっ!!」
 やーーーーんっ

 ぐんぐん迫るローザマリアに向かい、一生懸命前後に腰を振って見せるまぼろし天狗!
 それは威嚇か? 威嚇デスカ!? まぼろし天狗!
 ぜひ頭の後ろで手を組んで「フォー!」とか言ってください!! まぼろし天狗!

「はあっ!!」
 ローザマリアの疾風突きが繰り出され、それを紙一重でかわすことには成功したのだが。
 疾風突きは足場に当たり、そこを破壊した。

「落ちるなら一緒!」
 離脱しようとしたローザマリアの腕をがっしと掴む。

 崩れる足場!
 落下するスポットライト!

 まさにオペラ座館殺人事件発生!

「うゅ…」
 エリシュカ扮するカルロッタは、ダッシュローラーでゆうゆう回避!
 舞台上、もうもうとたちこめる埃の煙幕の中、いち早く立ち直ったのはまぼろし天狗だった。

「いたた…………もお怒った!!」
 スチャ! まぼろし天狗は両手で巨大白看板を構えた。
 そんなのどこから? と訊いてはいけない(以下略

「ここでしか使えない、クリエイター能力発動ーーーーーっ!!

 まぼろし天狗の叫びに、なんらかの攻撃がくる、と背後のエリシュカをかばって身構えるローザマリア。
 その手には魔道銃が握られている。
 しかしまぼろし天狗はひるむことなく全力で突っ込み、白看板をおっ立てた。

「うりゃあーーーーーーっ!!」

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担当マスターより
▼担当マスター
寺岡 志乃

▼マスターコメント
こんにちは、または初めまして、寺岡です
皆さんが作られた『オペラ座の怪人』がこんな結末になるとは思いませんでした。
(中略)
次回「【カナン再生記】擾乱のトリーズン第3話」でもお会いできたらとても嬉しいです。

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ようこそ! リンド・ユング・フートへ 2 〜これにて完〜




 ――とんでもない技の発動もあったもんだ!

 ローザマリアとエリシュカを巻き込む、自爆技炸裂!!
 しかし彼女は全く気づけていなかった!
 たちこめる埃煙幕の中、よろよろと立ち上がったまぼろし天狗の姿を見たルオシン扮するラウルが
「ファントムは男性ではなく、女性だったのか!?」
 と勘違いし、舞台へ突っ込んでいたことを!


 爆発に客席がどよめく中、シャーーーーッと陽太によって赤幕が引かれる。


「……『マルガレーテ』って活劇だったんだ。ふーん」
 小鳥遊 帝(たかなし・てい)はあわてふためく周囲の喧騒は完全無視し、ジャンクフードをひと掴み、ぽいっと口の中に放り込んだ。


第二幕・終わり。