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ようこそ! リンド・ユング・フートへ 2

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■第5章

「なんだ? なんだ? 一体!?」
 赤幕の内側で、舞台監督が頭を抱える。
 大慌て、爆発箇所へ駆け寄ってみたが、そこには何の痕跡もなかった。

「……よかった……穴はあいてない…」
 ――え? そういう問題ですか?
「しかし舞台はどうしたら――」

「心配にはおよびません」

 前に進み出たのは歌菜扮するカルロッタ。
「私は無事でした。それに、怪人はもういなくなりましたから、安心です」
「そ、そうか……よかった」
 何が起きたのかサッパリ分からなかったが、舞台は無事だし、カルロッタは落ち着いているし。
 監督は舞台を続行することに決めた。

(筆頭プリマドンナの座は簡単には渡せませんから! 私、歌います!)
 カルロッタなりきりで、歌菜は舞台の中央にうずくまった。
 両手を床につき、ファウストを思っての悲痛なシーンを表現する。
 そんな彼女の前、するすると赤幕が開かれる。


 第三幕・開演。
 満員の観客が彼女ただ1人を見つめていた。

「大丈夫だ、歌菜。万一の事がないよう、ちゃんと警備を万全にするよう支配人にも警察にも言ってある。
 俺も見回ってきた。……さすがに天井部は見逃したが」
 舞台袖から月崎 羽純(つきざき・はすみ)が、悔いるように最後につけ足す。
「だがもう怪人はいない。安心して歌うんだ」

(……は、羽純くん……私に力をください…!)
 羽純の見守る中、ぎゅっと目をつぶって外野を追い出すと、カルロッタ――歌菜は熱唱した。

     静けさの中 耳をすます
     わたしにはその声が聞こえる
     わかるの わたしにだけ
     わたしの中で高らかに歌う 孤独の声が…!


 ゆっくりと立ち上がり、ファウストがそこにいるかのように両手を空に伸ばしたマルガレーテが情熱的に余韻を響かせる。
 万雷の拍手が沸き起こった次の瞬間、観客は全員総立ちになった。

 カルロッタの口の中からヒキガエルが飛び出したのだ!

 ――ゲコッ ゲコゲコッ

 喉の奥から這い出してきたそのヒキガエルは、ぴょんっと舌の上で飛び跳ね、舞台に着地した。
 昔から、実力を伴わない自信過剰な歌手に対する天からの罰として、言われてきたことだった。
 「その愚かさへの罰として、神は口の中にヒキガエルを送り込む」
 それは子どもでも知っている常識だ。
 だがカルロッタが? どんな歌でも完璧に歌いこなせるカルロッタの喉にヒキガエルとは、だれが予想しただろう?

 しーんと静まり返った中、ピョコッ、ピョコッと2匹のヒキガエルが飛び回る。

 合図を待たず陽太が走り、シャーーーーッと赤幕が引かれた。


「羽純くん……羽純くん……っ。声……私…」
「歌菜、落ち着け。ちゃんとおまえの声は聴こえてる。安心しろ」
 羽純はスタッフたちの注視する中、委細構わず歌菜を抱き締めた。
「私……口から……カ、カエル…」
「よく見ろ! ゴムのオモチャだ!」
 足元のヒキガエルをひったくり、歌菜に見せる。
 羽純の手の中のそれは、とても精巧にできたゴム製のヒキガエルだった。

「客席からは本物に見えるが、実際は違う。大体人の喉に生き物が詰まっていて、あんな歌声が出るはずがないだろう? おまえの喉から飛び出たように見せただけの、チープなトリックだ」
 ……本当に、喉の奥からカエルが這いずって出たように感じた気がしたのだが、そう思ってしまっただけかもしれない。
 自分の喉からあんな生き物が出てきたということよりも、羽純を信じることの方がはるかにたやすい。

 羽純が彼女のためにクリエイター能力を使ったとは微塵も考えない歌菜は、羽純の説明に安心して、ほうっと息をつくとその胸に頬を寄せた。


「ああ……一体どうすればいいんだ…!」
 カルロッタが付き人に支えられながら刑事2人と去ったあと、舞台監督は頭を抱えた。
 アクシデントがあったとはいえ、舞台はまだ終わっていない。
 客席はざわめきっぱなしだったが、その後に興味津々なのか、だれも帰ろうとはしていないようだ。
「カルロッタがいないのに、この先どうしろというんだ!?」

 まさに進退きわまった。生きるか死ぬか、それが問題とハムレットばりの演技で監督は苦悩している。
 演劇関係者は、多かれ少なかれそういうものかもしれない。

 そのとき。

「大丈夫ですわ!」

 見守るだけのスタッフの仲から、ずずい、と前に踏み出す者が現れた。
 解雇されたはずのマダム・ジリー――に扮したジーナ・フロイライン(じいな・ふろいらいん)だ。

「カルロッタはいなくとも、クリスティーヌ・ダーエがいるじゃありませんか!」

「……あの……ジーナ、ほんとにやるの…?」
 こそこそ。
 ジリーの衣装の影に隠れて、林田 樹(はやしだ・いつき)がささやく。
「まぁ。もちろんです。ここがカルロッタの……いいえ、樹様の見せどころですのよ?」
 こそこそ。
 やっぱり周囲に聞こえないよう、早口で答える。
 ぱっぱとスカートに触れていた手を振り払い、ジリーは言った。
「ワタシにおまかせください、樹様。『オペラ座の怪人』はこれで間違いないんです! バッチリ!」
「……そう…?」
 あんまり自信タップリに言うものだから、樹は、従ってみることにした。
 何したらいいか、自分では分からない以上、ここはジーナの言う通りに動いた方がいいかもしれない、と。

「彼女は先日、カルロッタの代役を務めてみせました。きっとこの状況でも立派にマルガレーテの役を務めてくださいますわ」
 ジリーは胸を張り、まるで自分のことのように誇らしげに言う。
 舞台監督はその提案を考えるそぶりをしたのだが。
 案の定、モンシャルマンが血相を変えて飛び出してきた。

「駄目だ、駄目だ! ここでクリスティーヌなんかを出したら完全にパトロンたちを失ってしまう!!」
 オペラ座のパトロンたちはカルロッタの友人がほとんどなのだ。
 彼女が退けられたあとにクリスティーヌが喝采を浴びたりすれば、どんなことになるか…!

「そんなこと、言ってられないですよ、支配人! お客はどうするんですか!? 今日の舞台は!?」
 舞台監督が大きく手を広げて赤幕の向こうをさす。
 もういいかげん、長すぎる幕に客たちが怒り出しているのが感じられる。
「しかし…」

「私は大丈夫です」

 りんとした声で、樹扮するカルロッタが彼らの前に現れた。
 銀線で描かれた装飾のついた真紅のドレスが美しく、まさに気品あふれる立ち居姿だ。
 もちろんジーナのお見立てなので、ひらひらフリルも裾や袖口にいっぱいついている。

「一度控え室で休みましたら、気分が落ち着きました」
「おお、カルロッタ…!」
 まさに天の助けとばかりにモンシャルマンがその場に膝をつき、両手で祈りのポーズをとる。

「ここは私の舞台、私にとっては戦場も同じ。決して怪人などに負けたりはしない!」
 ぐっと握りこぶしを突き上げる樹は、カルロッタとして歌うことに開き直ったのか、意欲満々だ。

(さすがです、樹様…)
 こぼれそうになる涙を小袖で拭くフリをしながら、ジリーならぬジーナは、こそっと彼女の腰にしがみついていた林田 コタロー(はやしだ・こたろう)を抱き取った。
「はい、こたちゃん。コタちゃんはここで離れてくださいね」
「う?」
 コタローが、自分を持ち上げたジーナを見た。
「じにゃ、のーしたお? こた、ねーたんにくっつかなくていーお?」
「はいはい。もういーんですよ」
 だがコタローは納得がいかないようだ。樹の背中とジーナを見比べて、小首をかしげる。

「こた、ねーたんのてつらいすうー。こたは、ねーたんにくっついて、うた、うたうんらお。
 しっかりくっつくお、こたにまかせれま、らいじょーむれす!」
 だがコタローは身長がたったの35センチしかない小さなかえるのゆる族、樹の腰に戻りたくてじたばたしても、ジーナにはかなわない。
「ねーたん、ねーーーたーーーんっ」
「いーんです。いーんですってば、こたちゃん。
 さ、この耳栓入れてくださいね」
 ずぽん。ジーナは前もって用意済みのコタロー専用耳栓を押し込む。
 ぐりぐり奥まで、きっちり、念入りに!(←ここ大事)

「う? みみしぇん? ――うー…?」
 されたコタローはというと、押し込まれた違和感が嫌らしい。
 とろうとする手をジーナが「いーから」と押さえ込み、さっさと舞台から一番遠い壁際まで引っ込んだ。
 もちろん、耳栓は着用済みだ。

「樹様ー、ご存分に戦いくださいましー」
 そう言う自分の言葉すら、ジーナには聞こえていなかった。


「では行きます!」
 監督の指示に従って、シャーーーーッと陽太が走って赤幕を開ける。
 観客のざわめきがピタッと止まり、舞台に燦然と立つカルロッタに注目する。

 舞台に仁王立ちした樹は思い切り息を吸い込み、歌った。
 せーの…。

『捕鯨〜♪』

 瞬間、オペラ座のありとあらゆる物がビリビリと震えた。

 パン! パン! パン! 壁に設置されたランプカバーが次々と割れていく。
 ピシィ! とドアや壁に亀裂が走り、シャンデリアがガシャンガシャン大きく波打った。
 これぞまさにポルターガイスト! 目に見えない敵の襲来か!?

 いいや、違う。
 これこそ樹の最終兵器、怪音波だ!
 ひとは、自覚しないでふるう力が一番強いのだとかなんとか、そんな話をどっかで聞いた覚えがあるようなガセのような…。

 とにかく!

 全く自覚のない樹の放つ怪音波に、だれもが鼓膜が破れそうな痛みに耐えかね、耳を押さえて身をのけぞらせる。
 そんな彼らが思ったのはただひとこと!!

 ――なぜ捕鯨?


「ああ……さすが樹様、決して期待を裏切らないすばらしさ。もうばっちりです。ちょっと気が遠くなりますけど」
 バタバタ倒れていくスタッフたちの中で、ジーナただ1人が感動に震えている。
「……う? ――うーっ」
 ジーナの腕の中、コタローはまだ耳の中の異物感と戦っていた。



「うう…」
 舞台袖で、リシャールに扮した矢野 佑一(やの・ゆういち)がよろけた。
 保護対象者からの、まさかの怪音波攻撃で遠のきかけた意識を必死に保とうと、幕を握り込んだ手の力を強める。
(ここで意識を失ったら、助けられなくなる…!)
 揺れる視界の中、舞台のカルロッタがダブって見える。
 頭を振り、意識を保とうとした彼の視界に、やはり幕にしがみついてどうにか自分を支えているミシェル・シェーンバーグ(みしぇる・しぇーんばーぐ)の姿が入った。
「ミシェル、大丈夫?」
「……うん……なんとか…」
 しかし言葉とは裏腹に膝から力が抜け、ずるずるその場にへたり込んでしまう。

 おそるべし! 怪音波の破壊力!

 これではとても無理か。
 いったん撤退すべきかと考えたとき、ミシェルが上を見て、あっと声を上げた。

「佑一さん――じゃない、支配人! あれっ!!」
 ミシェルの手の先にあったのは、グラグラと揺れて今にも落ちそうな1個のスポットライトだった。
 先のローザマリアとまぼろし天狗の戦いのあと、どうにか落ちずにすんでいたスポットライトが、ついにはずれてしまったのだ!

 危ない! と声を上げる暇もなく。
 リシャールは舞台を駆け抜けた。
 突然自分に向かってきたリシャールに驚くカルロッタにタックルを仕掛ける。

 ガン!

 重い音をたて、落下したスポットライトは舞台に減り込む。
 カルロッタとリシャールは舞台を転がって難を逃れた。

「……い、つつ…」
「大丈夫ですか?」
 恋人同士にのみ許される距離から真剣な眼差しで覗き込まれ、カルロッタは言葉もなく頷く。
 気づけば手足も絡み合ったままだ。
 彼から向けられた強い視線に、急に触れ合った手足から熱を感じて、カルロッタは上気した頬で恥らいながら目を伏せた。


(――ちょっと、見るのつらいかも…)
 物語の登場人物になってるだけ、佑一は支配人とカルロッタを結びつけようとしてるだけだから、と自分に言い聞かせていたものの、やっぱり佑一が他の女性を組み伏せている姿をいざ目にすると、胸が痛い。
 自分だってドレスを着ればそれなりに見られるし、佑一の隣に並んだって全然おかしくないのだ。
 タシガンで去年それは体験済みで、女性としてエスコートしてくれた佑一の態度は完璧だった。
(でもボク、男の子だって言ってるし…)
 今さらあれはうそでした、なんて言えない。
 言えない以上、男の子としてふるまうしかない。

 でも、見ていると胸が痛い…。

(いつか佑一さんに、本物の彼女ができたら…………ボク、どうしたらいいのかな…)
 そう思って、こぼれそうになった涙を押し戻そうと見上げた先。

 客席の巨大なシャンデリアが、ゆっくりと落下した。



 客席に強風が巻き起こった。
 ミシェルがカタクリズムで風を起こし、上昇気流として落下を止めようと試みているのだ。
 しかし。

「――駄目! 重すぎる! 止まらない!!」

 総重量200トンの巨大シャンデリアは、ミシェル1人では荷が勝ちすぎた。

「み……皆さん……避けてくだ、さい…」
 イナンナの加護によってピキーンと危機を察していつつも、怪音波にあてられて動けなくなっていた陽太が、うつぶせになったまま声を絞り出す。
 しかしその声は、ごうと巻き起こっている風と観客の悲鳴にかき消され、最前列までも届かなかった。

 パニックを起こした観客たちは、とにかく少しでも落下地点から離れようと壁やドアに貼りつこうとする。
 ざあっと潮が引けたように中央部から人がいなくなるのとは反対に、椅子の背を足場にそちらへ猛ダッシュで向かう影が1つ。

 劇場スタッフの衣装は邪魔とばかりに、引き剥がすようにして脱ぐ。
 吹き飛んだ帽子の下から現れる、目の冴えるような赤い髪。
 身にまとった赤のタンクトップやミニのパンツとあいまって、その姿はさながら赤い弾丸のようだ。
 劇場の中央に達した彼女は左拳を腰に添え、右手を上に振り上げ、シャンデリア目がけてひときわ高く跳躍した。

「全てを貫く炎の拳! ヴァーミリオンスプレー!」

 触れる寸前、左の拳打で朱の飛沫を放ち、シャンデリアを貫くことでできる限り粉砕する。
 小さくしてしまえばミシェルのカタクリズムでなんとかなるという算段だ。
 そしてその読み通りに、粉砕されたシャンデリアのガラスは、観客に降りそそぐことなくミシェルの風によって1箇所にまとめられ、人のいない場所に積み上げられた。

 ――スタッ

 イスの背に着地した霧雨 透乃(きりさめ・とうの)に、わっと観客から拍手が沸き起こる。

 この日一番の喝采は、大勢の命を救った彼女に送られたのだった。



    バン!!
 大きく音をたてて5番ボックスに乱世とグレアムが踏み込んだ。
「ルカ! エース! 怪人は――」
 と、そこまで口にして、あっと声を上げる。
 ルカルカとエースはカルロッタの怪音波を受けたためか、それとも怪人の手によってか、きゅうっと目を回してテーブルに突っ伏していた。

「乱世! これ!」

 グレアムが、壁際のイスの上から何かをとり上げる。
 それは茎の長い1輪の赤いバラ。
 そして――

『呪われた劇場にようこそ』

 そう書かれたカードだった。