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 3―飴に願いを

 人は――自分の願いが叶わない時、そしてその願いが叶わない事に具体的な感情を伴わない時、上の空になる事がある。それは彼、蒼灯 鴉(そうひ・からす)も例外ではない。
「何だってバレンタインだの、ホワイトデーだのなんてもんが、世の中にはあるんだよ…チクショウめ」
 上の空から転化し、怒りにも似た感情をただ一人ごちる鴉に元に、ルーツ・アトマイス(るーつ・あとまいす)がやって来た。
「やぁ鴉。何をそんなに荒れているのだ?」
「ん?あぁ、ルーツか。荒れてなんかいねぇよ」
 顔を逸らし、何でもないと言う鴉を見て、含み笑いを浮かべて彼を見つめている辺り、ルーツ本人は鴉の心境を理解していた。
「そうか、我の早合点か。ならいいさ、それより鴉、君にはこの飴を渡そうと思う」
 ルーツの手に握られていたのは、一粒のキャンディだった。もう片方の手には、そのキャンディが詰まった小さな箱である。鴉は少し訝しげな顔をしながら、しかしそれを受け取った。
「あ、ありがとよ」
「あぁ、どういたしまして」
 恐らく鴉は、ルーツが自分の気持ちを知っているのだろう、と、わかっていた。そしてこの飴が、ただ飴を渡すと言う行為ではない事を、鴉自身重々に理解出来ていた。だからこそ、彼は照れながらルーツの飴を受け取ったのだ。ルーツの暖かい言葉や、その行為に精一杯の感謝をしながら。
「ところで鴉、君はこれから何処にいくのか」
「ん?家に至ってなんか落ち着かねぇし、これから飲みに行くんだよ。あんたも来るか?」
 言いながら、鴉はルーツから渡された飴を口に放った。食べた鴉、そしてその近くにいたルーツの鼻に、何とも甘そうな香りが届く。
「我は遠慮しておくよ。気をつけて行って来るといい。それにしても良い匂いだ。どれ、我も一つ食べてみると――」
 片方の手に持っている箱から一粒取り出し、ルーツも飴を舐めようとした時、彼の持つ飴はルーツの手から離れた。微かな痛みと共に。
「な、何をするか!…うん?鴉?」
 手をはたかれ、やや不機嫌そうに言いかけたルーツの表情が、思わず固まる。彼の手をはたき、飴を舐めるのを阻害した鴉の様子が明らかにおかしいのだ。
「か、鴉?どうした?」
「チ――クショウ…メ!」
 体は見る見る違う材質となり、それから僅か数秒後には、鴉は完全にキャンディになってしまった。
「鴉!これはアスカの時と同じじゃあないか}!兎に角…」
 そう言うと、ルーツは氷術を唱えて鴉が溶けない様、対策を取る。が、次にルーツを襲ってきたのは、先ほどから周囲に漂う、甘い匂いだ。思わずその場でよろけるルーツ。
「く…この匂い、呪いだったか」
 そう言うと、ルーツは躊躇いもなく自らの袖を捲くり、牙を立てる。
「――っ!」
 痛みで僅かに理性が戻り、急いで反対の袖で口と鼻を覆った。と、その時である。
「ねぇルーツちゃん、何なの?この甘ったるい匂いは…って、バカラス!?」
 どこからかやって来たオルベール・ルシフェリア(おるべーる・るしふぇりあ)が、何とも不愉快そうに鼻をつまみながらルーツに声をかける。
「ベル!匂いを嗅いではならない!これは呪いだ!」
「呪い…何よ、アスカの次はバカラスって訳!?全く二人とも…」
 と、言いながら、オルベールの瞳が眠そうな、生気のない瞳へと変わっていく。が、どうやら本人も瞬間的に自覚したのだろう。すぐさま自身の武器である剪定鋏を取り出し、それを太腿に突き立てた。
「イッ!ったいわねぇっ!ったく、何だってこんな思いしなきゃなんないのかしら!」
「と、兎に角、この部屋から出るとしよう」
 ルーツはオルベールを連れて、今彼らのいる部屋から出てきた。すかさず部屋のドアを閉め、中に充満している呪いの香りを閉じ込める。
「なんでこんな事になってんのよ」
 誰にともなく、オルベールが呟いた。
「すまない。我が貰ったキャンディを鴉にわけた。鴉がそれを口にしたら、こんな事に」
「ま、ルーツちゃんの所為じゃないのはわかるからいいんだけどね。それより、どうすんのよ、あれ」
 慌てて出てきたからだろう。二人とも肩で息をしながら、会話を続ける。
「我を庇ってああなった鴉を、我は救いたい。それでなくとも、友であり、家族の様な、ものだからな」
「ふぅん…」
 以降、二人は沈黙した。と、暫くして、オルベールはふと、何かを思い出す。
「そう言えば、前どっかにエリクシル貰った後の残りがあった気がするんだけど…」
 痛みを堪え、足を引き摺りつつ、部屋を漁り始めるオルベール。
「あぁ、あったあった」
 そう言うと、残り一滴あるエリクシルをルーツに手渡して言った。
「ベルはもう動きたくないし、バカラスの事なんてどうでも良いんだから、ルーツちゃんがこれ、飲ませてあげて」
「ベル…」
「本当よ、ほんとだから、そんな心配そうな顔しないの」
 ぽん、と、優しくルーツの背中を押し出すオルベール。ルーツは近くにあったハンカチで簡易マスクを作ると、再び鴉のいる部屋へと入って行った。極力息を止め、鴉の近くに歩みを進めるルーツ。なんとか辿り着いた彼は、飴となった鴉の口にエリクシルを流し込む。が、何も起らない。
「…?」
 暫く様子を見てみるも、特に主だった変化はなく、最後の一滴だったのもあって、ルーツは仕方なく部屋を後にした。
「戻ったの?」
 随分とぐったりした様子で、部屋から出てきたルーツに尋ねるオルベール。
「いや、効果はなかった。何も変わらない」
「…そっか、呪いの効果が強くなってるのね」
 やや悔しそうにしながらオルベールは自分の指を噛んだ。そして一言。
「やっぱり、アスカのキスしか手段はない、か」
 ゆっくりと立ち上がったオルベールが一度ふらつく。
「本当に大丈夫なのか?」
 慌てて手を貸したルーツに向かって、にんまりと笑顔を返した。
「余裕よ。今からアスカに話してくる」
 ふらふらと壁伝いに、オルベールはアスカの元へと向かった。

「アスカ、いる?」
 自室にいた師王 アスカ(しおう・あすか)は、突然の声に首を傾げた。座っていた椅子から立ち上がった彼女は、ドアを開けようと手を伸ばした。が、その意に反し、ドアが突然アスカに向かって飛んできたのである。
「きゃあ!もう!何でそんな開け方するのよっ!って、ベル、その傷――!」
「事情は後。兎に角あんたの力が必要なのよ」
 ますますもってわからない。とでも言いたげな表情を浮かべるアスカの手首を持ち、オルベールは歩みを進めた。
「ちょ、ちょっと!どこ行くの?」
「バカラスのところ」
「え、何で?」
「あんたの力が必要だから」
「ごめん、意味がわからないんだけど」
 深く溜息を着いたオルベールは、その場で足を止めた。心なし、どこか苛立ちが感じられる表情で。
「急ぎだから事情は簡単に説明するわ。バカラスが飴になったの」
「へっ?」
「元に戻すには、アスカがキスしなきゃいけないって訳。これで納得?」
「いや!納得じゃない!第一自分からキスなんて…っ!」
 顔を赤らめるアスカを、何とも冷たい表情で見ているオルベール。が、どうやらそれも今の彼女には限界らしい。
「甘ったれてんじゃないわよ!アスカがそんなにうじうじしてたら、始まるもんも始まらないし、終わるもんも終わらないの!判る?!」
「…そ、そんなに怒らなくたって」
「…行きましょ」
 再び溜息をついたオルベールが、更にアスカの手首を握る力を強めた真意は、恐らくオルベール本人しかわからない事である。