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序章 予感


 洞窟の中はひんやりとして心地よく、閃崎 静麻(せんざき・しずま)は眠りの妖精に誘われるまま、まどろみへと沈んでいた。彼の横には地下迷宮への入り口である階段がある。階下ではレイナ・ライトフィード(れいな・らいとふぃーど)が静麻の作戦に従って罠を仕掛けていた。もちろん、そうそう複雑ではない。ウサギ一匹を捕まえる罠だ。レイナだけで十分であろう。静麻はそう判断し、彼自身はといえば、入り口で岩を背に睡眠を貪っているのである。
「まったくもう……! 面倒臭がりなんですから」
 レイナはぶつくさと文句を言いながら、壁に網を引っ掛けて罠を作っていた。
 網を片手に作業をするヴァルキリーという、この光景を、かつての時代が見ていたとしたら笑い種である。そんなことを考えながらも、静麻の頼みをしぶしぶ聞くところは、彼女が彼に心惹かれているゆえか。
 ようやく罠を設置し終えたところで、レイナはなにやら不気味な音を聞き取った。それは、まるで見上げるような巨人が地面を踏みつけるような、そんな地響きを感じさせる音。レイナは何事かと地下迷宮の奥を見るが、先に続くは暗澹の薄闇ばかり。その正体が分かるはずもなかった。すると、それに続いて聞こえてきたのは男の大きく張り上げた声であった。「ゆけ……勇敢……ゴーゴー!」唯一聞き取れた声だけでも、レイナは呆れ返る。一体、中で何が起こってるんだ?
 いずれにしても……静麻に報告すべきだろう、とレイナは思い至り、階段を急いで駆け上った。
「静麻っ!」
「ああ、分かってる」
 静麻は起き上がっていた。先ほどまでぐーすかと寝転んでいたとは思えぬほどの冴えた目をして、彼は考え込んでいた。その思考が探るはただ一つの事物のみ。もちろん、不気味に鳴り響く音。そして、レイナも気づかなかったもう一つの音であった。
「気づいたか?」
「地響きみたいな音、と、あとは、誰かが歌ってる歌」
「ああ、それに、もう一つだ」
 レイナは首を傾げた。
 静麻は彼女を見て、黙って耳に手を添える。レイナはそれに従い、静麻と同じように耳に手を添えた。初めは先刻の遠い歌の声と不気味な音だけであった。しかし、やがてレイナはその中に混じって聞こえてくる、僅かな違和感を感じとった。糸くずのように繊細なその音の正体は分からないが、想像するに、これは自然物のそれである。これだけの細かな音そのものに驚くとともに、レイナは静麻の計り知れない集中力、ないしは聴力に驚愕し、目を見開いた。そこには賛嘆の意も含まれていた。
「……すごいですね」
「なに、眠気が浅いときの人間ってのは、敏感になるもんさ。それに、俺は地面に近かったしな。重要なのは……知るだけじゃない」
 静麻はそう言うと、傍らに置いてあった無線機を手に取って、レイナに振り示した。

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 地下迷宮入り口から少しばかり歩いた先では、プリッツ・アミュリアを護衛しつつ、ウサギを探そうではないか! と、一念発起した集団がいた。その中に混じって歌を歌うは、エヴァルト・マルトリッツ(えう゛ぁると・まるとりっつ)なる男である。
「戦えー! 勇敢なるせんーしよー! 人々の悲しみが、お前を呼んでいるー! ゴー! ゴー! レッツゴー!」
 プリッツを含め、護衛組はみな揃って困惑した顔をしていた。
 というのも、いかんせん悪気があって歌っているわけではないからである。プリッツに出会ったエヴァルトは義剣連盟の仲間が先に進むのを無視して、彼女のためにと歌い始めたのである。挨拶を兼ねて緊張をほぐすという意味では、心優しい青年である。
 プリッツもそれには感謝しているようで、苦笑しながらも彼の歌をよく聴いていた。その横では、明かりとなる光術を放つドラゴニュートのMSPゴシックゴシックデーゲンハルト・スペイデル(でーげんはると・すぺいでる)が頭を下げている。パートナーとしては、お付き合いしていただいている全員に感謝を、ということか。
「エヴァルトさーんっ! 何をしているんですか? 早く行きましょう!」
 そんな中、迷宮の先から九条 風天(くじょう・ふうてん)の声が聞こえてきた。
 それを聞いたエヴァルトはピタっと歌をやめて、呟いた。
「ふむ、呼ばれたか」
「あ、あの、もう、挨拶は大丈夫ですので。ロケットを、よろしくお願いします」
「おう、任された! じゃあ、行くかっ!」
 エヴァルトはぐっと自らの腕を掴んで気合を見せ、義剣連盟リーダーである九条のもとへと駆けていった。
 エヴァルトがいなくなると同時に、プリッツが肩からぶら提げていた無線機が鳴った。一瞬、慣れない近代機器にプリッツは驚くものの、恐る恐る無線機を繋げた。すると、雑音交じりで聞こえてきたのは静麻の声だった。
「ああ、アミュリアさんか? こっちは閃崎だが……」
「は、はいっ。何かあったんでしょうか?」
「いや、実はちょっと気になることがあってな。地下迷宮の中からはどうにも変な三つぐらい、音が聞こえてくる。一つは地を鳴らすような音、そしてもう一つは風のような、不思議な音。あとは誰かが変な歌を歌ってたみたいだが――」
「あ、それは、もう、大丈夫です」
「ああ、やっぱり歌はそこからか」
 閃崎の含み笑いに、プリッツは思わずつられて固い笑みを浮かべた。
「じゃあ、残りは二つの音だな。これは俺の予想だが、一つは壁の破壊音で、もう一つは氷、ここで考えられるなら氷術か、その類の音だろうと思う。確証はないがな」
「氷術、ですか……」
「まぁ、なんにせよ、気をつけることだ。護衛組の連中にも言っておくと良い。俺も入り口はしっかり見張っておくんでな」
「……わかりました」
 プリッツがそう返事を返すのを待って、閃崎からの無線通話は終わった。
 プリッツはじっと立ち止まって、耳を澄ませてみた。閃崎ほどではないが、彼女にも確かに僅かな音が聞こえてくる。嫌な予感がした。だが、それとともに、不思議な予感もまた、彼女の心には生まれていた。