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ツァンダ合同トライアウト

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ツァンダ合同トライアウト

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【九 三塁側ダッグアウトにて】
 一塁側ダッグアウトが紅組のベンチなら、当然ながら三塁側は白組のベンチになる。
 指揮を執っているのは蒼空ワルキューレの打撃コーチ兼任選手アニス・ガララーガであった。彼女は現役のアメリカ女子プロ野球の選手なのだが、蒼空ワルキューレはコーチの人材不足から、彼女を選手兼打撃コーチとして任用しなければならないらしい。
 ツァンダ・ワイヴァーンズとは、人材面で相当な開きがあると見て良いだろう。
 アニスはコントラクターである。但し彼女もまた、数週間前にパラミタの地を踏んだばかりであり、コントラクターとしての経験は非常に浅いと見なければならない。
 それでも野球の技術と知識は、ここに居る面々の中では、圧倒的にずば抜けている。これは間違いの無い事実であった。
 そのアニスの口から、四回からは葉月 エリィ(はづき・えりぃ)の登板が告げられた。
「ふぃー、やぁっとあたいの出番かぁ。ちょっと待ちくたびれたよ」
 エリィは左腕を派手にぶんぶんと振り回しながら、ベンチから立ち上がる。
 既に二回の途中辺りから肩を作ってあるので、後はもう一度慣らして軽く温める程度で良い。

 四回表前のグラウンド整備時間を利用して、狐樹廊がアニスの傍らに寄ってきて囁いた。
「実はですね、隠し球なんぞを使ってみようかなぁ、なんて思っておりまして。如何でござんしょ?」
 普通であれば冗談いうなと笑い飛ばすシチュエーションだが、何故かアニスは真剣な表情で一瞬考え込み、やがて小さくかぶりを振った。
「いや、それは本番に取っておきましょう。この手のトリックプレイは練習時点で種を明かしてしまうと、いざ実戦で使おうとしても、なかなかうまくいきませんから」
 意外と本気で考えてくれたらしい。日頃は飄々と掴み所のない狐樹廊だが、この時ばかりは珍しく感心した。 すると今度は入れ替わるように、クドが眠たげな顔つきでふらふらっと寄ってきた。狐樹廊も大概掴み所が無いが、クドも負けないぐらいよく分からない男である。
「監督さん、今日の下着……じゃなかった、お兄さんちょっと暇してるんですけど、何かやること無いですか〜?」
「あぁ、それなら三塁のベースコーチお願いします。さっきから誰も居なくて、サイン出せなくて困ってたんですよ」
 呑気な調子で物凄い台詞をさらりといってのけるアニス。これが本当の実戦なら大問題であろう。
 日頃は余裕の表情が多いクドも、ちょっと顔が引きつった。だがそれよりも、次にアニスの放ったひとことの方がクドにとってはより重要であった。
「そうそう。コーチャーボックスに入ったら無闇に選手と触れないように。ルールですから」
 公認野球規則にも、確かにそう記されている。
 クドは一瞬、えっという表情を作った。折角コーチャーボックスで女子選手とお尻愛、ではなくお知り合いになれるチャンスだったのに。
 仕方が無いので、ダッグアウトを出る際、すぐ脇のパイプ椅子に座って待機しているボールガールの理沙の太ももをさりげなくぺろんと触ってみたが、同じく理沙の右拳がさりげなく、ドスっと鈍い音を立ててクドの鳩尾に食い込んできた。
 のたうちまわって苦悶に呻くクドに向けて、
「とっとと行っちゃってくださいよ」
 というアニスの容赦無い叱咤が飛ぶ。

     * * *

 ところで三塁側ダッグアウトの奥では、未だにマイトが野球と瞑須暴瑠の違いから生じるカルチャーショックから立ち直れずにいた。
 しかし今は状況が若干異なる。
 というのも悩んでいるのはマイトだけではなく、アレックスも同様に壁にぶち当たり、行き詰まってしまっていたからだ。
 ふたりして並んで座り、考えるひとと化している。その一角だけ、妙に空気が重かった。
 そんなふたりに、敢えて絡もうという物好きな勇者が居た。陽太である。
「何か、答えのようなものは出てきましたか?」
 優しく問いかける陽太に、マイトとアレックスが同時に、幽鬼のようなおどろおどろしい顔を上げた。悩みに悩んですっかり憔悴し切っている、というよりは、悩みすぎて頭が死んでしまい、首だけゾンビ状態になっていると表現した方が正しい。
「あー……まだ道のりは険しそう、ですね。ははは……」
 引きつった表情で乾いた笑いを残す。陽太は当初、自身のトライアウト参加動機を語ることで、何とか解決の糸口を見つけさせてやりたいと思っていたのだが、この状況で迂闊に話してしまうと、単なる薮蛇になってしまいそうな気がしてならない。
 ここは黙っておいた方が得策か。
「あらあらあら、ここだけ随分とダークだわね〜」
 不意に明るい声が、マイト、アレックス、陽太らの注意を引いた。いや、ダッグアウト内全員の注目を浴びているといった方が適切か。
 現れたのはワルキューレ球団マスコットガールのセレンフィリティだった。慰問のつもりでやってきたようだが、全員から胡乱な目つきで見られてしまった。
 ところがセレンフィリティのバイタリティは、その程度では折れたりしない。彼女はマイトやアレックスなど最初から存在しないかの如く、陽気に笑っていった。
「野球なんて、ぱーっと楽しんでやっちゃえば良いんじゃない? たかがスポーツじゃない。失敗したら殺されるって訳でもないんでしょ? エンターテイメントよ、ショービジネスよ。お客様に見せる以上はね、やってる本人も楽しまなきゃ」
 一見、能天気なKY発言にも見えるが、セレンフィリティの放ったこの台詞には、思わぬヒーリング効果が秘められていた。
 少なくとも、マイトとアレックスの復活には欠かせない光明となったのは、間違いない。
「楽しむ、か」
 マイトは瞑須暴瑠での楽しかった思い出を脳裏に去来させた。と同時に、野球もまたそもそもの起源が同じであるならば、楽しめない筈は無い、という発想が込み上げてきた。
 一方のアレックスも、師匠との対決にこだわるあまり、スポーツ本来の目的や意義を、完全に見失っていた己に気づいた。
 そして意外にも、陽太自身にも思うところがあった。
(そういえば、俺も野球を楽しもうって意思は、ほとんど無かったような気がしますね。『彼女』への思いが強過ぎて、スポーツが楽しいものだってことを失念していました……)
 大切なロケットを握り締めていた手の力が、僅かに弱まった。目から鱗とは、まさにこういうことをいうのであろう。
 だが、初心を忘れるつもりもない。陽太は、二兎を追える程の器用さが自分にあるかどうか、いま少し自信が持てなかった。