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第7章 無貌の天使


「ううっ、痛いよ〜」
 背中の光翼をさすりながら、ヒルダ・ノーライフ(ひるだ・のーらいふ)は涙目になっていた。
「光翼を毟るなんて、なんて極悪非道なの!」
 さっき、部屋まで救出に来た契約者に付いていけば良かったかも……、と思うものの。
 数人一斉に消えたら不振がられて警戒が強まっていたかもしれないし、脱出も余計目立ったかもしれないし……。
(いまさらうじうじしててもしょうがないよね? いいわよ、絶対脱出するんだからっ)
 ヒルダは涙を拭ってから、思いつくだけの案を上げてみる。
(食事の一部を食べずに取っておいて、ネズミのような小動物類を餌付けするのはどうだろ。
 ネズミの尻尾に事情を書いたリボンか何かを捲きつける。
 ゆる族の人に、綿を紡いで糸を作ってもらって、ネズミに結んで地上まで伸ばせられれば……これはあんまり意味無いかな?
 手紙を地上まで送られて、ネズミを伝書鳩代わりにでも使う事ができれば万々歳だけど、あいつらに見つかったら……考えない考えない)
「痛くて考えがまとまらないよ〜。ともかく、ここを脱出できてあいつらを逮捕できたら、まつ毛を全部思いっきり痛く抜いてやる!」
 ヒルダはそう力強く誓ってから、
「……ってあれ?」
 ここは今まで入れられていた檻ではない。何だか一人守護天使がいなくなった可能性があるとか(その場にいたから見ていたけれど)の理由で、抜かれた者たちは今度は適当な牢屋に入れられてしまったのだ。
 毟られ仲間の、特徴がないのが特徴といった風の守護天使も一緒だ。同じ境遇の彼を見ると何故だか心強くなったような気がした。
 しょげているのに……しょげているからこそ、だろうか。
「ヘルワィムさん、元気を出して!」
「いや、僕はそんな名前じゃ……」
 ヘルワィム(仮)は、慌てて否定した。否定して、がっくりと肩を落とす。
「……何で僕だけ、いつも名前を覚えてもらえないんでしょうね。シャンバラに留学しているうちに、父にも名前をすっかり忘れられてたみたいだし」
「え? そうなの? それじゃあ同じだね。ヒルダだって印象がぼやけているのか顔を覚えてもらえないんだよ」
 ヘルワィム(仮)はヒルダを見つめる。セミロングの青い髪、緑の瞳。白い肌。可愛らしい顔立ちなのに、どこか不良っぽい。一見すると、スラヴ系の少女に見える丸みを帯びた顎のライン。だが例えば人探しをするときに、明確な特徴をこうとは言えない雰囲気の少女だった。
丈二ですら似顔絵を描かせてもさっぱりだし……本当はヒルダの事なんてどうでも良いと思ってるんじゃないのかな……。もう何日も経つのに迎えにも来ないし、きっとヒルダの事を忘れて他に良い子と契約してるんだ」
 ぐす、と再び涙が目じりに浮かぶ。
「……泣くな」
 ぽつりと言葉が聞こえて、ヒルダの涙が引っ込んだ。
 慰めたのは、何処か眠そうな顔をした美形……漆羽 丁(うるばね・ひのと)だった。
 丈二と同じく、彼のこともパートナーの柳玄 氷藍(りゅうげん・ひょうらん)は心配し、捜索している最中だった。とはいえ、こちらも別の意味で心配をしているようで……。
(全く……丁さんって変なところで幼稚だから困るんだよな。多分無事だとは思うが……また変な事言って周りの奴らを困惑させてる気がしてならん)
 そんな心配をよそに、丁はその「変なこと」をぽつりぽつりと語りだす。
「顔は……本質ではない」
 至極真面目だった。同時に暇つぶしでもあったけれど。脱出する手立てを思いつかないなら、黙っているより会話していた方が良いだろうと思った。それが興味を引く話題なら猶更に。
 彼はヒルダが毟られた光の翼を仕舞って、背骨のあたりを痛そうにさすっているのを、羨ましそうに見やる。毛布で隠してはいるが、彼の翼は他人に見せたいようなものでは無かった。
 そしてヘルワィム(仮)の方へと視線を移し、
「それで。……お前、名は何という。ヘルワィムではないと言っていたな」
「え?」
「生憎俺は『顔』というものを認識出来なくてな……お前の顔も分からない、まるで頭部に風穴が空いたようだ。
 他の奴らもまた然り、絵の具で塗りつぶされたように見える者も、顔だと分からない程に歪んで見える者もいる。信じるかはお前達の自由だが……」
 ふうと息を吐く。
「顔も名も分からぬというのも失礼極まりないだろう」
「どうせ教えても忘れられるのがオチですけど……」
「何だったら俺が考えてやろうか? むぅ……ハッサク……いや、冗談だ。フローライト……なんてのはどうだろうか。蛍石という鉱石があってな、それにお前の翼は似ている」
 守護天使の青年の背には、光り輝く大きな翼がある。何かの文様が入っており、色は青とも碧ともつかぬ不思議な色合いだった。
「にしても、見事な翼だ……羨ましいと思える程に」
「ありがとうございます。……でも、顔、見えないんですか。……それじゃあ、名前は余計に重要ですよね」
 それではと話そうとした時、頭を押さえて体を起こした守護天使がいた。
「ぅ……ここは、一体どこでしょう?」
 グレッグ・マーセラス(ぐれっぐ・まーせらす)だった。
 普段よりぼんやりした頭の中の靄を追い出すべく緩くかぶりを振れば、視線の先に何となく見覚えのある守護天使の青年がいる。
「ええと、ハンスさんでしたっけ?」
 思いついた名を読んでみたが、思いっきり首を横に振られて断言される。
「違う」
「あぁすみません。それで今は一体どういう状況なんでしょう?」
 ハンス(仮)が事情を説明すると、何故かグレッグは微笑んだ。
「なるほど。それにしても……貴方はこんな事態に陥っても、しっかりした観察眼がおありのようですね。いつもお勤めを頑張られているからでしょうか?
 しかし喉が渇きましたね……ビニールの切れ端でもあれば……ないですか、ああ、床も固くては掘れませんね。流石にネズミを食べるのは最終手段で……」
 グレッグは早速環境に適応したのか、ごそごそとポケットを探るが、特に役立ちそうなものは出てこない。
「それで……済みません、ヨハンさんは何か役に立つ者を持っていませんか?」
「ああもうヨハンでもハンスでもいいですよ」
 やけくそになったヨハン(仮)は、さっき羽根をもがれる前にあったやり取りを思い出す。
「名前があっても覚えてもらえないのがいいのか、ああ、名前があってもないような名前がいいのか……。そもそも名前に意味なんてあるのか……?」
 彼は、ぐるぐると思考の迷路に嵌ってしまう。