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第一章 次期藩主を巡って
「何してるの、ダリル?」
「うわっ!……な、なんだ、ルカか。おどかすな」
ルカルカ・ルー(るかるか・るー)に後ろから声をかけられ、ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)は飛び上がらんばかりに驚いた。
「あら、驚かせちゃった?ゴメンね。なんだか深刻な顔してるから、どうしたのかと思って……」
「いや。今までに得られた情報を整理しながら、ちょっと考え事をな。それよりどうしたんだ、参与の仕事は。今日は随分と早いじゃないか」
ルカは、東野藩主広城 豊雄(こうじょう・とよたけ)公の近臣である大倉 定綱(おおくら・さだつな)付参与に任命され、藩と四州開発調査団調査団の橋渡し的な仕事に従事していた。
「今日は、定綱様がこれから色々と人と会う約束があるらしくて、もうおしまいだって」
「つまりこれから後は暇な訳だな。なら、手伝ってくれ」
「それは構わないけど……あたしでいいの?」
「一人で煮詰まった時には、違う視点から物を見るのが一番だ」
「そういう事なら、あそこにもう一人暇そうなのがいるけど……」
部屋の奥では、カルキノス・シュトロエンデ(かるきのす・しゅとろえんで)が山積みにした肉をもっしゃもっしゃと喰っている。
そのあまりに豪快な食べっぷりは、もはや「食べる」というよりは「咀嚼している」といった方が近い。
「ああ、アレはダメだ」
「物を考えるのは、俺の仕事じゃない」
「――な?」
「アンタねぇ、一体何しに来たのよ?昨日から、食べてばっかりじゃない」
「肉を食いに来た」
「……今すぐ帰んなさいよ、アンタ」
ルカが、人殺しの目でカルキノスを見る。
「あー……、ゴホン。それと、神にお伺いを立てにな」
「お伺い?」
「【御託宣】だ――でも、上手くいかなかったらしい」
「上手くいかなかった?なんで?」
「俺にもわからん」
一際不機嫌そうな顔で、肉を齧るカルキノス。
「何回か試してみたが、全部失敗した。一応、俺の聞きたい事は向こうに届いてるらしいんだが、向こうからの返事がこっちに届かない。――まるで、誰かに邪魔されてるみたいだ」
「誰かって、誰よ?」
「それがわかれば、託宣が降りない原因もわかる」
「はー……。本当に、何にもわからないのね」
「わからないな。だいたい託宣なんて、そもそも誰が降してるのかすら正確にはわからないんだ。それなのに誰が邪魔してるかなんて、わかりようがない」
「え!?わかんないでやってるの?」
「もちろん、こちらから呼びかける時は特定の神に伺いを立てる。でも、本当にその神が託宣を降してる保証なんて無い。本人が目の前に出てくる事など、基本的にはあり得ないし、向こうから名乗る事も滅多にない」
「そ、そうなんだ……」
「まぁそんな訳でこいつは、さっきから不貞腐れて肉をヤケ食いしてる、という訳だ」
「俺は、元々ここに肉を喰いに来たんだ。文句を言われる筋合いは無い」
「なら、喰ったら帰れよ。目障りだから」
「まあまあ二人共――それでダリル、私は何をすればいいの?」
場の雰囲気を敏感に察知して、素早く話を変えるルカ。
「俺の話を聞いて、思ったり感じたりした事を、しゃべってくれれば、それでいい」
「それだけ?」
「それだけだ。ただし、どんな些細なことでも必ず口に出すようにしてくれ」
「わかったわ」
ダリルは大きな白い紙を畳の上に引くと、カードの束と、ペンを取り出した。
「最初に俺の思考法を説明する。まずこのカードに、これまでに手に入った情報や、起きた事件などを一つ一つ書いていく」
「ふんふん」
「そしてこれらを、時系列順に置いていく」
「ほうほう」
「ただしこの時、一つの約束事がある。『全ての物事は、偶然で起こったのではない。全て、何らかの関連によって引き起こされたのだ』と考えるんだ」
「へー」
「……お前、ちゃんと人の話聞いてるか?」
「聞いてるわよ!」
「ならいいんだが――とにかく、そうやってカードを置いていき。更に、関連のあるカードを、線でつなぐ。そうしていく内に、互いに関連性を持つカードのグループが出来るはずだ。そうして出来たグループは、今度は別に取り分けておく。線が入り組んで来ると、どうしても分かりづらいからな」
「なるー」
「そして、どうしても他と関連を見いだせないカードは、こっちに除外しておく。その事件は、本当に偶然に起こったか、それともまだ情報が手に入っていないかの、どちらかだからだ――とまぁこんな感じだが、わかったか?」
「うん、だいたい……。――ねえ、ダリル、あなた、いつもこんなコトしてるの?」
「いや。いつもは頭の中で済ます。今は視覚化したほうが話しやすいだろうと思ってな」
「はー……。スゴイね、キミって」
まるで、別人を見るような目でダリルを見るルカ。
「なんだ、藪から棒に。それじゃ、始めるぞ。まず最初は……そうだな、去年の大洪水にするか――」
これまでに得られた情報をまとめたファイルから単語を抜き出し、カード化して、それを他との関連性を考えながら、紙の上に並べていく――そんな作業を、小一時間ほど繰り返した。
初めは黙って見ていたカルキノスも、いつの間にか作業に加わっている。
「これで、取り敢えずは全部だな」
「こうやって見ると、いっぱいあるねー」
「よくもまぁこれだけのことが、この短期間にまとめて出てきたもんだ」
紙の上いっぱいに広がったカードをみて、感心するカルキノス。
「こうして見ると、やはり全ての事件をつなぐ『鍵』となるカードが足りない、といった感じだな」
「ねぇ。それって、どうしても全部の事件がつながらないとダメなの?」
「それが存在する可能性を、常に頭の何処かに入れておいたほうがいい。それが予断になる程強く思い込むのは危険だが、完全に存在を否定するのは、全ての事件の裏が取れてからだ」
「難しいのね」
「まぁ、最悪俺一人が忘れなければいいだけの話なんだが――。元々これは、俺の頭の中を整理するために始めたことだからな」
「そっかー……。それじゃ、いよいよ行き詰ってきたみたいだし、そろそろコレを開けてみちゃおうかな!」
ルカは、部屋の隅に山積みになった私物の中から、《不思議な籠》を取り出した。
「この間、コレの中に紙を入れといたのよね。『東野で起きてる陰謀の手掛り』って書いて。返事来てるかなー?」
ワクワクしながら籠を開け、紙を取り出すルカ。
「ナニナニ?――『獅子身中の虫に気をつけろ』――何コレ?」
「つまり『裏切り者がいる』と、そういう事だろうな」
「役に立つんだか立たないんだか、わかんねぇ情報だな」
「むー……。焦って早く開け過ぎたかしら……」
「どうした、みんな?難しい顔して」
「淵。今戻ったか」
ダリルが、夏侯 淵(かこう・えん)に声をかける。
淵は《下忍》たちを率いて藩の重臣たちを探っていた。
「おお。色々と仕入れてきたぜ!」
「そいつはいい。ちょうど、話が煮詰まってた所なんだ」
カルキノスが、嬉しそうに言う。
「まず一つ目。この間、東野藩と馴染みの情報屋が襲われた話があったろ」
「あの、襲われて眠らされたが、何もされなかったという女性の件だな?」
「それそれ。その事件が起こった時、ウチの調査団の高月 玄秀(たかつき・げんしゅう)を、すぐ近くで見たって目撃証言がある」
「別に、それ自体はおかしくないんじゃない?」
「それはそうなんだけど、アイツ今んトコ、役に立つ情報を全く出してねーんだわ。何を調べてるのか今ひとつ不明だし……。念のため、ウチの《下忍》に見張らせてるが」
「――こいつが、『獅子身中の虫』か?」
「なんだ、それ?」
「ああスマン、それについては後で説明する。それから?」
「ルカが言ってた九能 茂実(くのう・しげざね)な。アイツ、やっぱり何か企んでるみたいだぜ」
「九能茂実を調べさせたのか?」
「うん。あの人も御家老衆の一人なのに、東野に来てからこっち、一度も会ってないのよ。それで定綱さんに聞いたら、長患いだとかで、今年に入ってから城に出仕してないんだって。それでちょっと淵に頼んだんだけど――」
「茂実っていうと、重綱・定綱父子を目の敵にしてるっていう攘夷派筆頭だな」
東野に来たばかりのカルキノスが、カードの情報を確認する。
「その茂実なんだが、アイツの屋敷に最近頻繁に人が出入りしてるんだ」
「人って?」
「ほとんどはどっかからの使いみたいだ。それも、色んな筋から来てるらしい」
「その筋が何処かは――」
「まだ調査中。昨日始めたばかりなんだ」
「わかった。とにかく、一度茂実は本格的に調べたほうがよさそうだな」
「そうね」
「はー、疲れた疲れた。俺もメシを――ってお前!それみんな一人で喰ったのか!」
カルキノスが平らげた骨の山を見て、眼の色を変える淵。
「何か文句があるか。俺は、肉を食いに来たんだ」
「あるかも何も、さっき厨房に寄ったら、『今日はもう肉料理は終わりです』って言われたんだぞ!みんなお前が喰っちまったのか!このヤロー、返せ!戻せー!」
「肉が無いなら魚を食えばいいだろうが」
「俺は肉が食いたかったんだ!」
「早い者勝ちだ」
「お前、肉食ってるだけで全然働いてねーじゃねーか!」
「俺は働いたぞ――成果は出てないがな」
「そーゆーのを働いてないって言うんだよ、この穀潰し!」
「いや。俺は穀物は食ってない」
「そーゆーコトじゃねーっつーの!」
「二人共、喧嘩なら他所でやれ!折角並べたカードがグチャグチャになるだろうが!」
何時までも続きそうな不毛なやり取りに、ルカは思わずため息を吐く。
いつもなら、この手のじゃれあいには率先して混ざりに行くルカだったが、何故か今はそんな気になれなかった。
(獅子身中の虫……ね……)
「お忙しいところ、有難うございます」
「いや、我々こそ皆様ご尽力頂いている立場。なんでも遠慮なく、おっしゃってくだされ」
大倉 定綱(おおくら・さだつな)は、三船 敬一(みふね・けいいち)に向かって、慇懃に頭を下げる。
彼は豊雄公に幼少の頃より仕えてきた、側近中の側近である。
「父は別件がございまして同席出来ませぬが、三船殿のご質問については父にも伝え、言付かってございますので、ご安心くだされ」
「それは有難いです」
敬一は先日定綱と、その父で筆頭家老の大倉 重綱(おおくら・しげつな)から、豊雄公の後継者候補について話を聴いていた。
それで、その候補者の3人、西湘藩の水城 隆明(みずしろ・たかあき)、北嶺藩の峯城 雪華(みねしろ・せつか)、南濘藩の鷹城 征人(たかしろ・まさひと)について、詳しい話が聞きたいと伝えていた。
「まずは隆明様の政務経験でござるな。隆明様は、藩の直轄領の奉行を務められた後、妹の水城 薫流(みずしろ・かおる)様に引き継がれるまでの数年間、外交に携わっておられました。手腕自体は卓越したものがあったのですが、行く先々でのお遊びが過ぎましてな。永隆様の命で薫流様に職を譲られてからは、これといって職に就かず、風雅を愛でる毎日だそうです」
「奉行時代の評判はいかかですか?」
「悪い話は聞いておりません。むしろ『今度の若様は仕事は出来るし、気さくで良い方だ』と好意的に受け止められていたようです「『気さく』という辺り、そこでも遊んでいたのでしょうね」
「でしょうな」
二人は声をあわせて笑う。
「次は北嶺藩の斎主(いつきのぬし)の選出についてですが、これについて秘中の秘とされておりまして、詳しい事は全く。神職たちとの合議の上、現在の斎主である峯城 妙(みねしろ・たえ)様が決定されるようですが」
後継候補の一人、北嶺藩の峯城 雪華(みねしろ・せつか)は、同時に北嶺藩で神祀りを行う要職、斎主の候補としても名前が上がっている。
「北嶺藩の藩主が女性でないとダメとか、斎主が藩主でないとダメとか、そういう訳ではないのですね」
「はい。妙様が藩主と斎主を兼務しておられるのは、単に一番適任だったというだけで。妙様は前藩主の妻にあたられますし、先代の斎主には一介の市井の娘が選ばれたそうです」
斎主は、霊能力の強さが重要なのだろうと、敬一は思った。
「それと征人様ですが、おそらく元服まではご母堂の珠満(たま)様が後見人となられ、父を初めとする家老衆が補佐する形になるかと思います」
「その場合、やはり後見人の発言力は強くなるのでしょうね」
「我々も努力は致しますが、ある程度は避けられないかと」
渋い顔で言う定綱。
「なるほど、わかりました。定綱様、後二つ、お伺いしたいのですが……?」
「それがしにお答えできることであれば」
「豊雄公の死因について、定綱様と重綱様はどう考えておられますか?」
話が豊雄公に及び、定綱の顔に影が差す。
「今のところ私も父も、豊雄様は何からの発作で亡くなられたものと考えております」
「それは、何か理由がおありなのですか?」
「はい。豊雄様は、宴の前、時々ご気分が悪いと言ってお休みになられることがありました。医師の見立てでは単なる過労だということでしたし、少しお休みになると治ってしまうため、我々も深刻には考えていなかったのですが……」
「そのお話は検死にあたった監察医にも?」
「はい、既に伝えてあります」
「そうですか……。それではあと一つ。お二人はお三方の内、誰が後継者に相応しいと考えておられますか?」
「実は……、私も父も、いずれの方も跡目には考えておりません」
「というと?」
「もう一人、より跡目に相応しい方が見つかったのです」
「そ、そんな方が!?それは一体誰ですか?」
「あと数日したら発表しようかと思っていたのですが……他言無用に願いますぞ」
定綱は人目をはばかるように周囲を見回すと、敬一に近づき、その耳にそっと呟く。
定綱の口から出た意外な名前に、敬一は目を丸くした。
「……なぁ。おかしくないか、この格好」
「そんなこと無いよ。結構様になってるよ。ねぇ定綱様」
「全く全く。『馬子にも衣装』とは言いますが、想像以上の若武者ぶりでございます」
巨大な姿見の前に、風祭 隼人(かざまつり・はやと)が、いかにも「若殿様」といった服装で立っている。
風祭 優斗(かざまつり・ゆうと)と大倉 定綱(おおくら・しげつな)が満足気に頷いているのに対し、隼人本人はどこか不満気だ。
「よろしいですかな、風祭殿。これより貴殿には広城 雄信(こうじょう・たけのぶ)と名乗って頂きます」
「たけのぶ……ですね」
「左様。豊雄様の御落胤で、母君は豊雄様が若かりし頃昵懇にしておられた闘舞の舞手、春日(かすが)様という設定にござる。細かい事はまた後で説明させまするが、しっかり覚えてもらいますぞ」
「分かりました。……後で、紙に書いてくれます?」
困ったように苦笑する隼人。
自分から言い出した事ながら、本当に出来るかどうか、改めて心配になってくる。
「――影武者?」
「はい。ニセの御落胤を仕立てて、『新たに見つかった御落胤を、豊雄様の後継者にすることにした』と発表するのです」
「その影武者の役は、俺が引き受けます」
予想だにしない提案に、目を丸くする定綱。
「もし豊雄様を暗殺したのが藩主の座を狙う者であれば、犯人は焦って、必ず行動を起こすはずです」
「なるほど。犯人を炙り出す訳ですか。――しかし、豊雄様が暗殺されたのではなくて、何事も起こらなかった時はどうするのです?」
定綱は興味を示しつつも、あくまで慎重に訊ねる。
「その時は『御落胤を語る不届き者』として、こいつの首を刎ねて頂くと言う事で」
「オイオイ!」
「冗談だよ。その時は素直に『間違いだった』と公表すればよろしいでしょう。偽物には逃げられたとでもしておけばいいのです。――多少の非難は受けるでしょうが、それで通ると思います。いかがでしょうか?」
「……少し、考えさせてくだされ」
こうしたやりとりがあったのが、昨日の事。
優斗たちは、定綱のようなお偉方が「少し」と言ったら2、3日はかかると思っていたのだが、定綱の決断は早かった。
「これまで一介の農民の子として育てられてきた事になっていますので、多少ボロが出てもごまかせるとは思いまするが、ともかく四州の作法や慣習には、一刻も早く慣れてもらわねばなりません。そこで、教育係をお付け致します」
「教育係?」
「――入れ」
「はっ」
隣室に通じる襖が「スッ」と開く。
そこには、ちょうど優斗や隼人と同じ年頃の侍がいた。
「わしの息子、義定にござる」
「大倉 義定(おおくら・よしさだ)にございまする」
「義定。こちらが影武者を引き受けて頂く隼人殿と、お力添えを頂く優斗殿じゃ」
「よろしくお願いします、義定さん」
「よ、よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願い致します。――日に余裕も無い故、厳しく躾けさせて頂きます。覚悟して下さい、隼人殿」
「……優斗。やっぱり代わってくんない?」
「ダメ」
対面早々釘を刺す義定に、げんなりした顔をする隼人。
影武者役が想像以上に大変だと知り、隼人は早くも後悔し始めていた。
「見えた……!あれが、春日(かすが)さんの庵ですね」
長い上り坂の先に、小さな庵が見えた。
御茶ノ水 千代(おちゃのみず・ちよ)の歩みが、自然と早くなる。
千代は、豊雄公が若い頃懇意にしていた闘舞の舞手、春日(かすが)の消息を求めて、この山深い庵まで来た。
麓の村で聞いた所、彼女はこの山奥に息子と二人きりで暮らしているのだという。
「息子」と聞いた時、千代の胸は跳ね上がった。もしかしたらそれは、豊雄公との間に出来た子かもしれない。もし豊雄公の血を引いているのであれば、後継問題は一気に解決するはずだ。
そしてその思いは、後継者の選定に頭を悩ませている重綱も同じだった。
「事の真偽を確かめ、もし本当に豊雄様のお子であるならば、何としても連れ帰って欲しい」
重綱はそう言って、春日宛の書状を千代に預けていた。
「これを読めば、必ずや春日殿は首を縦に振ってくれるはずじゃ」
重綱は、そう確信を込めて言った。
坂を登り切ると、庵全体が見渡せるようになった。
大人二人が暮らしているとはとても思えない、小さなモノだ。それに、だいぶ荒れている。
千代は声をかける前に、念のため外から様子を伺ってみた。
(人の気配がない――というか、しばらく誰も使っていないような……!)
玄関に駆け寄り、引き戸に手を掛ける。戸は、何の抵抗もなく開いた。
一歩、中に踏み込む。
「やっぱり……」
危惧した通り、庵の中はもぬけの殻だった。
見た感じ、出ていったのはごく最近のようだ。
「遅かったみたいですね……。でも、何故?」
麓の村で聞いた話だと、春日たちはもう10年以上前から、ここに住んでいたという。
何故今になって、ここを引き払わねばならなかったのか……。
庵の中を、調べて回る千代。
奥の部屋の文机の上に、文箱がおいてあるのを見えた。
持ち上げてみると、かすかに中で何かが動く音がする。
蓋を開けると、案の定一通の書状が入っていた。
表書きには、「御家老様」とある。
千代は、封を解くのももどかしく、書状を読む。
そこには、次のような事が記してあった。
「――かくも勿体無きお申し出、大変かたじけなく存じます。しかし、やはり私如き者が豊雄様の跡を継ぎ、藩主となるなど、いかにも恐れ多いことにございます。
私如き賤(いや)しき者が政(まつりごと)に関わったならば、必ずや国を誤らせ、民に塗炭の苦しみを味合わせるに違いございません。
どうか皆様には、我等母子の事はお忘れになり、然るべき筋より良き方を御養子にお迎え頂ますよう、伏してお願い申しあげます――雄信」
「たけのぶ……息子さんが書いたのでしょうか……。でも家老への手紙って――……。前から春日さんの事を知ってたなら、どうして重綱様は私に話してくれなかったのでしょう……?」
千代の中に、重綱に対する疑念が生じる。
だが今はそのことよりも、春日たちを追うことの方が重要だ。
(ここに来るまではほとんど一本道。途中の村では『最近春日さんたちを見ていない』と言っていましたから、そちらの方には逃げていないはず――という事は、何処か別の道から逃げたに違いありません)
庵の外に出て周囲を調べると、千代が来たのとは反対側に、細い踏み分け道が見つかった。
「こっちですね!まだ間に合うといいのですが……」
追いつける保証はないが、今はとにかく追うしか無い。
千代は足早に、踏み分け道の奥へと姿を消した。
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