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【カナン再生記】迷宮のキリングフィールド

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【カナン再生記】迷宮のキリングフィールド

リアクション


■オープニング

アガデの都・東カナン領主の居城――

 東カナンの首都アガデの都にある領主の城には、表と奥が存在する。
 表は通常利用される公式の場、そして奥は領主一族の居室がある宮である。そこには厳選されたごく一部の者しか足を踏み入れることは許されない。そこで働く召使いたちすらも三代前から城勤めであることを条件とし、なおかつ厳しい試験に合格した者のみである。
 そして、そこに居を構えることを許されるのは、ハダド家一族の者と、かつて東カナンを武力統一した始祖の側近たちであったと言われる12家――東カナン12騎士の者のみ。
 その1家、現在最もハダド家に近しい者とされるタイフォン家の部屋には今、息をするにも気を遣うような、重苦しい緊迫感が満ちていた。
 豪奢な天蓋付きのベッドに寝ているのはセテカ・タイフォン。次代のタイフォン家当主であり現領主バァル・ハダドの側近である。
 彼を囲むように年老いた女神官とその弟子たち、そしてアルツール・ライヘンベルガー(あるつーる・らいへんべるがー)ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)カルキノス・シュトロエンデ(かるきのす・しゅとろえんで)がベッドの横につき、それぞれ得意とするスキルを用いて彼の延命に効果があるものを探っていた。
「2人とも、少し休んだら?」
 横についたルカルカ・ルー(るかるか・るー)が、気遣うように声をひそめて訊く。
 呪文の詠唱を行っている神官たちの声がしているというのに、まるで床に落とした針の音すら高く響きそうな、そんな緊張した空気がもう長い間部屋を埋めている。頭と胸に重い鉛を押し込まれているようで、気分が悪い。それを少しでも跳ね返そうと入れてきた熱いお茶を受け取って、ダリルは場をルカルカに譲った。カルキノスとともに後ろのテーブルで休憩に入る。
「……変わっているように見えないわね」
「ああ。相変わらずだ」
 2時間前に来てから、一向に変化はない。
 ダリルはかすみ始めた視界に、目頭を押さえて圧迫した。
「アルツールと相談して、思いつく限りの回復魔法やアイテムを総動員しているが、好転した様子はない。とはいえ、効いているからこの状態を維持できているのかもしれないが」
「そう…」
 ルカルカは、眠る彼のはだけた胸元を見た。
 崖下の岩の上で発見されたとき、あそこには黒い矢が刺さっていたという。その体にぬくもりはあったが、脈は全くなかった。彼は死んでいた。だれが見ても、生きているとは思わなかっただろう。矢は、まっすぐ心臓を貫いていた。
 だが今、彼の胸にその痕跡はない。矢は文字通り姿を消してしまった。おそらくは彼の体内深くに。そしてそれと同時に彼の心臓は鼓動を始めた。数十分に1度の鼓動はやがて数分に1度となり、今では2〜3分に1度になっている。ダリルの持ち込んだバイタルサイン計測機器は、今もまた弱々しい脈拍を検知して、ピコンと小さな山を緑の線に形作った。
「これがなきゃあ死人と変わらんぜ」
「しっ」
 カルキノスの不用意なひと言に、口元に指を立てる。
 そっと、後ろの壁を伺った。おそらくは治療の邪魔にならないようにとの配慮からなのだろう、壁にもたれたバァルは、彼女がここに着いてからずっと変化を見せなかった。腕を組み、少し俯きかげんで下を向いて――まるで彫像のようだ。
 カルキノスの声はちゃんとひそめられてはいたが、聞こえていないとも限らない。
「……まったく、どっちも辛気臭せぇツラしてやがる」
 バァルとセテカを見比べて、ぽりぽり顎を掻く。
「あんなんじゃあ病人が2人になるだけだぜ。おいルカ、おまえでもだれでもいいから、倒れる前にあいつをここから連れ出せ」
 2人もなんて、面倒見きれねぇ。
 素っ気ない、ぶっきらぼうな物言いながら、それが彼の優しさと知るルカルカは、口元が自然と緩むのを抑えられなかった。ほっこりと胸に温かいものが生まれる。
「うん。分かったわ」
 入れたてのお茶を持ち、バァルに近づいた。
「バァルさん、これを飲んで」
「――いや、わたしは…」
「飲んでください。甘い紅茶は疲れをとり、気持ちを落ち着かせる作用があります」
 差し出されたそれをバァルは少しの間見つめ、やがてのろのろと受け取った。
「ありがとう…」
 固い声音で、それでも身に染みついた作法で礼を言い、カップを口元へ運ぶ。ルカルカはじーっとそれを見つめた。彼がずるをして、飲むフリだけで終わらないよう見張るみたいに。
「――先ほどエースたちから連絡がありました。みんな、もうじき準備が完了するそうです」
「そうか」
「書状にありました坂上教会まで馬で2時間あまり。ですが、空を飛べばもっと短縮できます。薬が手に入りましたらこの――」
 ルカルカは、やはりテーブルについていた夏侯 淵(かこう・えん)を手招きして呼んだ。
「ん? なに? ルカ」
「夏侯 淵に薬を預けてください。彼は教会の外に待機して、運ぶ役目を果たします」
 ぱたぱた駆け寄ってきた淵を、バァルは無表情に見つめた。
「きみが…?」
「ん? うん。道さえ分かれば、あとは空飛ぶ魔法↑↑でひとっ飛びできるし。ほんとは砂鯱が使えたらよかったんだけど……バァルさんごと運べるからな。でもまだ砂鯱が入れるほどこの辺は砂がたまってないから」
 仕方ない、と肩をすくめた淵を見て、またルカルカに目を戻す。
「こちらの状況連絡は私がテレパシーでさせていただきます。セテカさんに触れてサイコメトリで知ることができた情報、それにダリルたちの治療によって何か事態が好転しましたら、すぐにお伝えさせていただきます」
 淡々と、できるだけ事務的に告げようとするルカルカの言葉に、それでも――バァルはギリと奥歯を噛んだ。
「――好転しなくても……知らせてくれ」
「ですが…」
 受け止められるのか、そう言っているも同然だとハッとして、ルカルカは言葉を止めた。
 分かっていると言うように、バァルは暗い目で彼女を見返す。
「知らせてほしい。何もかも」
「……分かりました」
「では、これから言う私からの言葉も受け止めていただけますね?」
 淵を伴い、部屋から出て行こうとしたバァルを、アルツールが呼び止めた。
「残念ながら、呪いの仕組みが既知のもので無い以上、少なくとも私には解呪することができません。いいえ、おそらくシャンバラの者にもカナンの者にも不可能でしょう。今日の夕刻までという期限では、地球の技術力に頼ることもできません。
 はっきり言わせていただきます。私たちにできるのは、持続的な清浄化の行使により呪いの進行速度を遅らせること、そして彼の体力を補い続け、彼自身に黒矢の侵食と戦ってもらうことだけです」
 胸に一気に切り込まれた思いで、バァルは息を止めた。冷たい刃が心臓をとらえ、切り裂いたかのように、どうしようもなくわななく。
「清浄化、驚きの歌、そしてカルキノスさんの龍玉の癒しやダリルさんの命の息吹……これならきっと黒矢の侵食をある程度抑えることができるでしょう。しかし、この持続的な侵食という呪いの特性上、清浄化も侵食に対する一時的な抵抗にしかならないことをお忘れなきよう。私も魔力が続く限りは清浄化をかけ続けますので、くれぐれも焦って仕損じることのなきようお願い致します」
「……分かった。頼む」
 バァルはやっとのことでそれだけを口にすると、彼に……そして昏睡したセテカに、背を向けた。
 彼の口にした、そのどれもを自分はセテカに与えてやれない。
 自分には、自分にできることをするしかないのだ。たとえどれほどここから離れがたくとも。
「ご武運を」
 アルツールもまた、軽く会釈をして元いた場所――セテカの枕元――へ戻って行く。
 部屋を出た直後。
「んじゃ、俺も大急ぎ用意してくるからっ」
 この前厩舎で乗った、あの子にしよう。ひそかにそう思いながら、淵はぱたぱたと廊下を走って行った。
「準備か」
 そういえば自分もまだだったと、今さらに気づいた。
 バァルは腰元を見た。使い慣れたバスタードソードを佩いているだけだ。いつもの格好で動きやすくはあったが、これで魔女モレクの前に出るわけにもいかないだろう。
 モレク――その名前に、バァルも聞き覚えがあった。というか、どこかで目にした記憶がある。
(あれは東カナンの古史だったか…)
 領主の地位につく以前、バァルは史実について調べることが好きだった。いつかそれで論文発表もしたいと考えて、国内のさまざまな学者とやりとりをしていた。領主となってからは日々に忙殺され、遠ざかりがちではあったが、今でもその夢は諦めていない。
(当時のメモか資料を見れば何か分かるかもしれないが、今は時間がないか)
 そんなことを考えつつ、自室への道を歩いていたときだった。
 外回廊の列柱の横に、控えめに立つ者がいた。
 一体いつからそうしていたのか……ただそこにいたのではない、あきらかに自分を待っていたのだと分かる表情に、バァルは歩速を緩める。しらじらと明け始めた夜明けの肌寒い微風を感じつつ、バァルは彼の前に立った。
「――バァルさん、すみません」
 赤嶺 霜月(あかみね・そうげつ)は、バァルが近づくにつれて視線を落とし、目を伏せた。
「今度のことは全て自分の責任です。あのとき、彼を1人にしてしまいました…。自分がしっかりと守っていれば、こんなことには――」
 その瞬間、脳裏にフラッシュバックした光景――胸にこみ上がった激しい感情にバァルは圧倒され、とっさに何も返せなかった。
「…………」
 今の自分を見られまいと、顔をそむける。
 だが表情に一瞬表れたものを、霜月は見逃さなかった。
「――必ず……カードは手に入れます……この命に代えても、セテカさんを救ってみせます」
 感情の起伏というものを欠落した、それでいて喉の奥から搾り出すような声だった。長く頭を下げ、静かに立ち去る霜月の姿に、バァルもまた、彼に気づかれてしまったことを悟った。
「……くそッ!」
 自己嫌悪に柱を叩きつけ、急いでその背を追う。
「待ってくれ」
 前に回り込み、行く手をふさぐように壁に手をついた。
 思ったとおり、霜月は血の気を失った顔をして、その目は思いつめている。
「すまない。きみのせいではないのに……きみを責めた」
「いえ。いいんです。たしかに自分の落ち度でしたから…」
 切れた息が、まるで泣いているようだと思って、霜月は口元をぬぐう。
 彼を追い詰めた。
 バァルは自分の弱さがたまらなく恥ずかしかった。
「よくはない。あいつが自ら1人になることを望んだのは分かっている。あの場所ではいつもそうだ。あいつは1人になりたがるんだ。だからきみのせいではない。自分の不始末をだれかのせいにされるのは、あいつも不本意だろう。
 ――すまなかった」
 うなだれ、憔悴した彼を間近で見て。
 霜月は、そっと手を差し出した。
「……薬を、手に入れましょう。必ず」
「ああ」
 バァルは固く手を握り合わせた。