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リアクション
プロローグ 時を越える音色
幻の少女 エルピス(まぼろしのしょうじょ・えるぴす)は湖を見つめていた。
ヴァイシャリー湖と呼ばれる湖である。風光明媚な街で知られるヴァイシャリーと隣接するその湖に、エルピスの“からだ”であるイーダフェルトは着水しているのだ。
彼女はじっと湖を見つめ続けるだけだった。
風が吹いてきた。一陣の風は、エルピスの髪をさらいはしなかった。湖畔の清涼な匂いも運んだが、エルピスには届かなかった。
エルピスの幻の身体は、風も匂いも感じることが出来なかった。いまとなっては、風、というものが、どんな感覚のものであったのかすら、エルピスは思い出せない。手を伸ばしても、触れることは叶わなかった。
「エルピス」
声をかけたのは、早川 呼雪(はやかわ・こゆき)だった。
エルピスが振り返ると、彼が立っていた。隣にはヘル・ラージャ(へる・らーじゃ)の姿もあった。
「何をしてたんだ?」
近づいてきた呼雪がたずねると、エルピスは風に靡いた髪を撫でた。
「……とても、綺麗なところだと思っていたんです」
「綺麗なところ?」
「はい、昔を思い出しました。まだ、祖父や父と一緒に暮らしていたときのことを……」
「それって――」
呼雪がなにか言い掛けたそのときだった。
「おーい、エルピスー! 呼雪ー!」
遠くのほうから、シルヴィオ・アンセルミ(しるう゛ぃお・あんせるみ)が手を振って近づいてきた。
隣にはアイシス・ゴーヴィンダ(あいしす・ごーう゛ぃんだ)が文字通り守護天使の名のごとく、彼に寄り添っていた。
二人が手に持っているのは、大きなバスケットと、かき氷やラムネといった、ヴァイシャリー湖畔の浜辺で売っている食べ物や飲み物だった。
「差し入れだぞ」
「差し入れ? かき氷にラムネ?」
「そうだよ、文句あるか? ちゃんと、お弁当もアイシスが持ってきてくれたよ」
シルヴィオが言うと、アイシスはすっと両手で握ったバスケットを持ちあげた。
「サンドイッチに、ポテトサラダです。いりますか?」
「おっ、BLTサンドってやつだね! うわーっ、美味しそうだ!」
ヘルはバスケットの中身を見て子どものようにはしゃいだ。
四人とエルピスは、アイシスが敷いてくれたレジャーシートの上に座って、早めの昼食を取ることにした。エルピスの身体は幻で、食べ物を食べるフリは出来ても、実際にその味や食感を楽しむことは出来なかった。それでも彼女は、はむはむとサンドイッチを頬張った。かつて、きっとそうしていたであろうという思いで。
ヘルはかき氷を一気に食べ過ぎて耳がキーンとなっている。シルヴィオはその間に、エルピスと呼雪が何の話をしていたのかを聞き、同情深い思いに駆られていた。
「そっか……、お父さんやお祖父ちゃんと一緒に暮らしてたときか……。エルピス、君はやっぱりいまでもそのことをよく思い出すのかい?」
「ええ、時々……。祖父も父も、もういないと知っているのですけど……」
エルピスのサンドイッチを食べる手は止まっていた。
彼女はヴァイシャリー湖の水面になにを見ているのだろうか? シルヴィオにはわからなかった。
「ほら、これ」
シルヴィオがエルピスに渡したのは一本のラムネ瓶だった。
「これって……」
エルピスはきょとんとした顔でそれを受け取った。
冷たさも、重さも、エルピスには感じられなかったが、しゅわっと音を立ててる、瓶の中のラムネだけはわかった。シルヴィオはエルピスのラムネを手にして、飲み口にあるビー玉を親指でガッと押し込む。ビー玉がカランカランと音を鳴らし、再びラムネを受け取ったエルピスは、口をつけてみた。味も香りもわからないけれど、なぜだかそれが爽やかな気分にさせてくれるものだいうことは感じられた。
「いまは、フリだけかもしれないけどよ……」
シルヴィオはぼそりと言った。
「いつか、本当に飲めるといいな」
彼は手に持っていたラムネを上にあげた。
「そうですね」
エルピスも自分のラムネを持ちあげる。瓶と瓶は、カツンッとぶつかった。
いつかその思い出は本物になる。少しずつ、ちょっとずつ。シルヴィオはそう信じたかった。
(“幻”が、消えたときに――)
ほどなくして、ポロン……という音が響いた。
エルピスが振り返ると、呼雪が愛用のリュートを奏で始めるところだった。その音楽は、とても静かでゆったりとした音色で、繊細な響きに満ちていた。
いつの間にかレジャーシートに紛れこんでいたポムクルたちも、「なのだー……」と寝言を言いながら、すやすやと眠り始めている。
エルピスはそのうちの一匹のポムクルをひざに乗せて、遠くを見た。
ヴァイシャリーの湖は、音色を届けるように揺れていた。
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