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リアクション
匿名 某(とくな・なにがし)は、目を閉じていた。場所は蒼空学園の中庭。ちょっと調べものをしていたのだが、小休止とばかりに芝生に寝転がっていたのだ。
頬を撫でる風が気持ちいい。
もうすぐ昼休みの空は青く晴れ渡り、冬だというのにぽかぽかとした陽気を運んでくれていた。
穏やかな気分だった。
世間の喧騒も凄惨な事件もこのお気に入りの休憩場所にはやって来られない。いつしか寝入りそうになるほどの気持ちよさに、今日の昼食は何にしようかという胡乱な思考が脳内を侵食し始めた。
きっと、ささやかな幸せとはこういうことに違いない、と思ったその時。
「――ここにいたんですか?」
声がした。パートナーである結崎 綾耶(ゆうざき・あや)だ。大きな木の根元に転がった某の近くに腰掛けて見下ろしている。
まだ幼い彼女の遠慮のない視線がかえって心地良かった。
「もうすぐお昼ですよ?」
「ん――そうだな」
目を閉じたままで、いたずらっぽく気のない返事をした。この他愛もないやりとり、これも幸せのひとつの形だ。
だが、彼は忘れていたのだ。
「もう、某さんってば――ところでぇ……」
「ん?」
「……首をかぷかぷさせてくれませんか?」
「はい?」
ささやかな幸せほど、もろく壊れやすいということを。
『ロマンティックにゃほど遠い』
第1章
「……何ですか、これは」
西尾 桜子(にしお・さくらこ)は呟いた。用事があって蒼空学園を訪れたのはいいが、どうしてここの生徒達は互いにほっぺたを噛んだり噛まれたりしているのかと。
とりあえず玄関をくぐり、校舎に入るも状況に変わりはない。廊下でも教室でも、ところかまわず抱き合って頬を噛む男女。
中には頬以外を噛んでいる者もいる。
もしくは一方的に片方を追いかけているペアも。
または一人の男性に複数の女性、もしくは男性。
一人の女性に複数の男性の場合、女性は逃げているパターンが多い。当たり前と言えば言える。
そして、誰かの頬を噛んでいない者は、そうしたものを引き剥がそうとするか、その欲望に耐えかねて廊下の壁に八つ当たりをしている。
「ひっ」
誰かが八つ当たりの延長で、窓ガラスを割ってしまったようだ。怖い。
何が起こっているのかと、桜子がようやく積極的な思考を開始したところで、校内放送が流れた。
「皆さん、現在学園内で生徒が誰かに噛みついている現象の原因は、ガス状になった薬品です。副作用はないので安心して下さい。しばらくしたら解毒薬が出来上がりますので、それまで我慢してください。1時間程度です」
おかしな声だった。男性の声なのだろうが、ボイスチェンジャーでも使っているのか、アヒルのような声。
なるほど、と桜子が納得したところで対処できるわけではない。こんなところにいては面倒に巻き込まれるだけだ、とりあえず学園から離れるのが吉だろう、と思った時。
「何かみんな騒いでるねえ、何かあったのかな」
と、パートナーの西尾 トト(にしお・とと)に頬を噛まれた。
ちなみに、アリスであるトトは桜子のことをいつも母よ姉よ恋人よと慕っている。
それはいいのだが、その愛情表現がおかしい。
なにかというと頬を噛むのは日常茶飯事。桜子も、もう慣れたものだった。
慣れてはいけない気もするのだが。
☆
同じ頃、学園を訪れた嘉神 春(かこう・はる)もまたこの惨状を目の当たりにしていた。
「……何かみんな騒いで楽しそうだ。さてはお祭りだな!!」
どんな奇祭だそれは。
人が変われば受ける印象も変わるもので、春はパートナーの神和住 瞬(かみわずみ・またたき)と共に瞳をキラキラさせている。
「いいねぇ、可愛いコに噛みつき放題かぁ……」
足元の春がくいくい、と衣服を引っ張った。
「ねえ、まー。あちこち回ってお祭りを楽しもうよ! みんなの頬をいっぱいかぷかぷするんだ!」
「――そうねぇ、せっかくのお祭りを楽しまない手はないわねぇ」
「よぉし、どっちがいっぱい噛みつけるか競争だよ!」
と、喜び勇んで蒼空学園に駆け込んで行く二人であった。
だから祭りではないと言うのに。
☆
「良かった、ここにいたのね」
加能 シズル(かのう・しずる)は自分を訪ねてきた友人、茅野 菫(ちの・すみれ)を廊下で捕まえた。ちょうど菫が学園に入り、事態を飲み込んだあたりのことだ。
「――うん。放送聞いたよ、何やってんの蒼空学園?」
とりあえず、シズルは菫と廊下を進みながら状況を説明した。事態が30分程度前から起こっていること、一向に鎮静化される様子がないこと、ガスに感染すると多少の好意のある相手に噛みつきたくなること、など。
「ふうん……好意ね……」
それは興味深い、と銀製の伊達メガネの奥で菫の目が光る。
と、気付くと菫は保健室の前にいた。シズルはドアを開け、菫を中に入れる。
「症状が出ていなくても、ひょっとしたらもう感染しているかもしれない。解毒薬が出来るまでここに隠れていて」
「え、でもあたし事件の解決に……」
「――お願い。何か危険なことがあるかもしれないし……」
友人に頼まれるとさすがに弱い。とりあえずこの場は従っておくことにする菫。
「――ん、分かった」
「ありがとう……!」
シズルは保健室のドアを閉めて走っていく。保健室には誰もいない。
まあシズルには隠れていたことにして、状況を把握したら出て行けばいいか、と菫は携帯を取り出して情報を探り始めるのだった。
☆
「で、何やってんの蒼空学園は?」
ルカルカ・ルー(るかるか・るー)は蒼空学園の校長室にいた。校長である山葉 涼司(やまは・りょうじ)は花音・アームルート(かのん・あーむるーと)に頬を噛みつかれて身動きが取れていない。
ルカルカは涼司を訪ねて学園に来たものの、廊下の騒ぎに呆れかえってとりあえず校長室にやって来たというわけだ。
「お……いいところに来たな!」
花音に噛みつかれながらも電話であちこちに連絡を取って助けを求めていた涼司は、ルカルカの顔を見て相好を崩した。この状況下では誰の助けも欲しいところだ。以前からの友人であり、シャンバラ教導団のルカルカならば現場で動ける人間として文句はない。
「いいところって……ラブラブっぷりを見せつけるつもり?」
「違う!」
力んだ涼司だが、ほっぺたに花音をブラ下げたままでは説得力がまるでない。
「涼司さまぁ〜おいしいですぅ〜」
放っておくといつまでもはむはむと頬を噛み続ける花音だが、力ずくで引き剥がすと暴れるので放置することにした涼司だった。
「……さっきの放送は聞いたか?」
「うん。原因はガスだとか、解毒薬はどうとかね」
「よし。――それとは別に、違法な未認可薬物をウチの学園の生徒に売っていたヤツが捕まったらしくてな。買った相手はまだ特定できてないが、警察が動いている。話を通しておくから事態の収拾に向かってくれないか?」
「うん、それはモチロン。……でも高くつくわよ?」
警察の担当者の連絡先を受け取りながら、ニヤリと笑うルカルカ。
「イヤなこと言うなよ」
あからさまな渋面を作って対抗する涼司。ルカルカは、涼司の困った顔を眺めてから、にぱっと笑った。
「ウソウソ! 涼司の頼みじゃ断れないよ。それじゃ校長先生はここにいて、何かあったら連絡するから!」
元より教導団は守護者として機能すべき、という信念のもと行動するルカルカ。見返りなど要求するはずもなかったのだ。
元気良く校長室を後にするルカルカ、涼司はその後姿を苦笑いと共に見送るのだった。
「――ルカ、どうだ?」
校長室を後にしたルカルカに話し掛けてきたのはダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)。彼女のパートナーだ。
「うん、話を聞いてきた――とりあえず警察に連絡……で、何ソレ。というか、誰」
「……それがな」
見ると、ダリルの足元に嘉神 春が噛みついている。
「はむはむ〜おいしぃ〜」
「……なるほど、感染するとそうなるのね」
ルカルカが頷いた。
「どうもそのようだな……好意があれば知り合いでなくても無関係か……どれ」
ダリルはしゃがみこむと春の頬に手をあて、こちらを向かせた。
「むー」
向い合っていくつか質問をするダリル。
「自分の名前と所属は言えるか?」
「ボク嘉神 春だよ。イルミンスールから来たんだ。ね、かぷかぷさせて〜」
頬に当てられたダリルの手をとってはむはむと噛む春。
「……噛んでいると、どういう感じがする?」
「すごくおいしい……これ大好き。ずっとちゅうちゅうしてたいな〜」
あらためて春の口を引き離し、ダリルは懐から取り出してペンライトを瞳に当てる。
「……瞳孔の拡散はなし、多少の興奮は見られるものの脈拍も意識も正常か……麻薬の類でもなさそうだな……」
ダリルは機械の他に薬物も専門だ。春を軽く診察したところで立ち上がる。
ペンライトを当てられたのが嫌だったのか、春はダリルを後にして廊下を走って行ってしまった。
その間に携帯電話で警察と他の関係者に根回しをしているルカルカ。
「うん……そう。あなたなら警察関係詳しいでしょ……ん、じゃあ連絡お願いね!」
「どうだ?」
「オッケー、あたし達は薬の売人と犯行グループの残党を挙げに行きましょ!」
「学内の方はいいのか?」
「大丈夫、頼りになるのを呼んでおいたからっ」
携帯からデータを転送して、ルカルカは笑顔を浮かべた。
「ところで、ダリルが感染するとどうなるの? ……ちょっと感染してみる気、ない?」
「断る。違法だからな」
と、一言に付すダリルだった。
☆
セルマ・アリス(せるま・ありす)は学園の窓から空を見上げ、ふと思った。
「そうだ、天学、行こう」
学園内で昼食を取ろうとしていた彼は、何と言うかもうバッチリ感染してしまっていた。
こうなったからには、誰かを噛まないと衝動は抑えられない。噛むべき恋人はいるのだが、今は遠い天御柱学院の空の下。
何故こんなにも俺たちの距離は離れているのだろう、そう考えると切なくなった。
もう噛まないわけにはいかない。何故かは分からないがそう思った。
正確にはガスのせいなのだが今の彼にはそんなことは分からない。放送はうっかり聞き逃した。
だから天学に行かなければならない。お昼がまだだとか午後の授業がどうとかはもう些細な問題なのだ。
「ダメだ……もう好きすぎて生きるのが辛い」
ぼそっと呟くと、セルマは立ち上がった。このまま放っておいたら死んでしまうかもしれない。本当に好きすぎて。
だから彼女に会いに行こう。天学に行こう。
そう考え出すと体は止まらなかった。否、止める必要などなかった。
キリリと自らの決心を顔に出してセルマは教室を後にしる。
彼女が待っているかもしれない、天御柱学院へと。
「めー? めめー?」
ところでパートナーの牧場の精 メリシェル(ぼくじょうのせい・めりしぇる)のことを教室に忘れているセルマだ。
教室を急ぎ足で出て行ったパートナーを追い、てちてちと歩くメリシェル。ちなみに彼女は牧場の地祇で、その姿はもう見たまんまぬいぐるみの子羊だ。
「めー、めめめー!」
セルマの足が速くて追いつけないことを必死に抗議するが、一刻も早く彼女の頬を噛まないと死んでしまうセルマの耳には届かない。
「……めー……めー……」
こんな時言葉が話せればいいのになあ、と思いながらも必死で後をついていこうと、もこもこ歩くメリシェルだった。
もっこもっこ。もっこもっこ。もっこもっこ。
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