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リアクション
●Let me know
「戻りましたよ」
神楽坂 翡翠(かぐらざか・ひすい)が自宅に帰ってきた。さっきまでポートシャングリラに出かけていたのだ。大きな紙袋をいくつも抱えている。
「おかえりなさいまし。また大量に買い込みましたわね」
柊 美鈴(ひいらぎ・みすず)は彼から荷物を受け取る。
「ははは、予算以内で安い物を大量に買い込む癖があるもので」
「外はどうでした?」
「良い天気でしたねえ……そろそろ夏が近い感じでしょうか?」
と翡翠は上着をハンガーにかけて振り向く。
「ところで、レイスの様子は?」
「昨夜よりはまし、という程度でしょうか」
「そうですか。しかし、たまにレイス風邪引くと重いですね……」
そう、二日前からレイス・アデレイド(れいす・あでれいど)はずっと風邪で寝込んでいるのだ。
本日は、生活用品が減ってきたので翡翠は買い出しに行き、美鈴がレイスの看病を担当していた。
バタバタという音がして、ドアが開いた。
「あ〜くそ……今回の風邪、たち悪いぜ、熱は中々下がらんし、咳が止まらねえ」
パジャマ姿のレイスが部屋から出てきたのである。ゲホゲホと咳き込む。
「レイス? 熱高いじゃないですか? 大人しく寝て下さいよ」
翡翠が言うが、
「寝過ぎて……もう全然眠れねぇんだよ」
どっと彼はリヴィングのソファに腰を下ろした。
「もう、仕方ないですわね」
言いながら美鈴は、レイスの肩にガウンをかけてやる。なお、レイスのパジャマは縦縞のオーソドックスなデザインだ。
その間にてきぱきと、翡翠は買い込んできた用品をしまい始めた。
「それ、なんですの?」
見慣れぬ袋を見て美鈴が聞いた。
「ああ、これですか? ゼリーですよ。レイスはまだ、固形物を食べるのがきついでしょうから。変な着色料や香料を使っていないか調べ、グラム単価がリーズナブルな分を選びましたよ。もろ主婦目線で」
そういう買い物は翡翠の趣味にあうらしい。口調が楽しそうだ。
「ゼリーだ? 病人扱いしやがって……まあ病人だけど」
ぶつくさい言っているが、レイスはまんざらでもなさそうな表情だ。美鈴にゼリーを手渡されて食べている。
「ん……まあ、いける」
そんなレイスを見守りつつ、美鈴は彼のそばに腰を下ろした。
「それにしても鬼の霍乱と申しますか、レイスが風邪とは……本当に珍しいこともありますわね? 会えないせいで、精神が凹んでいる所をやられたと思いますけどね」
と言ってくすくすと笑うのである。彼が恋人と思うように会えない日々にあることをからかっているのだ。
「いいだろ、たまには病気くらいしたって。翡翠が寝込むよりマシだろうさ……。
あ〜まあ、なあアイツとは、確かにすれ違いさ。積極的に行動してもな……相手に迷惑と言うか、いないこと多いし……」
ここでまたレイスは咳き込んだ。
翡翠は片付けを終えると一時的に消えていた。
追加の荷物を取りに行っていたのだった。最初のものより多くの紙袋を抱えている。
「戻りました。あと一往復くらいですかね」
「大荷物だな」
レイスは咳き込みつつ言う。
「そうですか? 大荷物じゃないと思いますよ? いつもこれくらいに……」
「おいおい、大荷物だろうが、充分。翡翠、呼べよ? そういう時は、誰か手伝うだろうが……無茶して」
ここで立ったのがまずかった。
「やべ……景色が回る」
ふらりと半回転して、レイスはソファに背を預け沈み込んでしまったのだ。
「レイス? ……ああもう、やはり相当な熱だったのですね」
翡翠は彼に肩を貸した。
「ベッド、整えますわ。それに冷えたタオルも……」
さっと美鈴も立って扉を開けた。
「ううー……」
レイスが唸っている。悪い夢でも見ているのだろうか。
「やれやれ世話の焼ける……」
言いながらも、翡翠は穏やかな顔をしていた。
「まあ、たまにはこういうのも、いいですけどね」
リリア・オーランソート(りりあ・おーらんそーと)には、このところ不審に思うことがある。
変なときがあるのだ……今年に入ってから、エース・ラグランツ(えーす・らぐらんつ)の身に。
植物たちの世話を忘れて、筋トレに励むときがある。
剣の手合わせを求めてきたりもする。
――そんなタイプじゃないでしょ。鍛錬に熱中するだなんて。
植物を最優先にしないエースなんて……リリアの知っているエースとはとても思えない。誰かと入れ替わったのだろうか、そんな気すらする。
強いて言うなら植物ではなく、猫最優先のときは彼にもあるが、それでも植物をないがしろにするなんてことは一度もなかった。
それでも、今夜も求められるままリリアは練習用の剣を手にしていた。
今日も「食事の後、剣の手合わせをお願いしても良いかな」と彼が言ったからだ。このところ毎日だ。一度などは「剣の鍛錬は日々の積み重ねが大切だ」と彼は言っていた。
テーブル類を片付けた広い板の間で、リリアはエースと向かい合った。
「準備はいい?」
リリアは呼びかけた。
彼……エースの姿をしている人に。
「ああ、構わない」
冴え冴えとした表情と目の色、エースは異様なまでに落ち着いている。
それなのに、肉食獣めいた迫力がある。
正直言うと、最近のエースは怖い。
「いくわよ!」
恐怖を振り払うようにリリアは一太刀した。大きく踏み込んでレイピアの一撃、空気を切り裂く鋭い突きだ。常人ならばかわすどころか、肉眼でその動きを捉えることすらできないだろう。
しかし。
剣尖が跳ね上げられた。
しかもエースが抜くところは見えなかった。見えない壁に激突したかのように、リリアの一撃は打ち返されたのである。
驚いている暇はない。すぐさま閃光の如くエースが斬りつけてきたからだ。
受ける。流す。弾く。リリアは必死だ。次々と防衛を強いられる。
――何が悔しいって……。
リリア・オーランソートほどの者が、ほぼ一方的に打ち込められ後退を余儀なくされていた。
迅いだけじゃない。重い。リリアの手が痺れてきた。
「くっ」
やられっぱなしでなるものか! リリアは体ごとぶつかるようにして反撃した。突進だ。この手を見せるのははじめて。剣術としては反則に近い。
このまま押し倒して一本、最悪でも相討ちに――。
なのに。
ぐらっ、とリリアは宙を泳いだ。
エースの体があった場所に、もう彼はいなかった。
わずか半歩、後退しただけでリリアを回避したのだ。
どっと床に倒れるリリア、さっと転がって起き上がるも、そのときにはもう、彼女の喉元にはエースの剣がつきつけられていた。
――何が悔しいって……結局エースの方が強いということなのよ! それも圧倒的に。
練習だから剣のスキル使用しない。なのでこれは純粋に剣の技術だけの勝負となる。それで及ばない。毎日戦って一度も勝ったことがない……というのは彼女にとっては激しい屈辱だった。
「アイデアとしては悪くなかった。実戦向けの剣術だね。だが君の剣の場合は繊細すぎて、無謀な攻撃には向いていないように思う」
手をさしだしてエースはリリアを立たせた。
「それよりは相手の隙を待つべきだ。もっと剣先を上げて防御を固めて……」
「わかってるわよ。そんなの!」
正論だけに腹が立つ。頭に血が上ってリリアは大声を出していた。
「あんまり勝てないものだから捨て鉢になっただけ。もうしないわ。それに、そんな講釈たれるなんてどこの騎士様!?」
きっ、とリリアは彼を睨むが、エースは特に戸惑う様子もなく彼女を見つめている。
「さあ、お茶にしましょう」
険悪な雰囲気を和らげるべく、柔和な表情でエオリア・リュケイオン(えおりあ・りゅけいおん)が二人に呼びかけた。
「メシエさんも」
エオリアの声を聞き、メシエ・ヒューヴェリアル(めしえ・ひゅーう゛ぇりある)は顔を上げた。彼はずっと椅子に座ったまま、黙ってエースとリリアの模擬戦を見ていたのだ。
「ハーブティーとお菓子です。ブルーベリーのタルトとプレーンチーズケーキ。どっちが良いですか」
「いただこう」
エースは頷いて席についた。ふと気づいてエオリアは言う。
「おや、エース、今日はチーズケーキですか。タルトが好物なのに……」
エースは無言だ。しかしエオリアは微笑を崩さなかった。
「まあ、ときどき甘さ控えめな方を選ぶんですよね、エース」
メシエは特に何も言わず、茶の香りを楽しんでいた。
しかしそれは見た目だけのことだ。
――今日もエセルラキアが優位なのだね。
今のエースがエースでないことをメシエは知っていた。この中で、ちゃんと事情を説明できるのはメシエだけだろう。
エースは現在、前世人格に支配されているのだ。毎日そうというわけではないが、ここ数日は前世……つまり『エセラキアル』という名の騎士が優位な日である。いつまでもそうというわけではない。明日あたりには元に戻るはずだ。そうすれば、しばらくはリリアも災難から逃れられるというわけだ。
――興味深いケースではあるとは思うが……。
メシエは医学的な研究をしているわけではないので、この現象を単なる好奇心で見守っている。ただ、エースがいよいよ普通の生活を送れなくなったと判断したら、病院に連れていこうと決めていた。
「エースに日々の鍛錬は欠かすなと伝えてくれ」
テレパシーでメシエに話しかけてきた者がある。
その声は、『エース』の中にいるエセルラキアのものだった。
「エースからは、君に花の様子は毎日見なくちゃ駄目だよと伝えてくれと言われたがね」
ティーカップを口に運びながら、軽くメシエは『エセラキアル』に目配せした。
エセラキアル……エセルがそう言ってくる事情もわからないではない。
エセルの時代は戦乱の時代だった。常にどこかで殺し合いが行われていた。まあ、現代のパラミタも様々な事件が頻発しているのだから、彼の主張もごもっともではあるのだけれども。
「平和なことは、いいことだよ。戦がないのが一番いい」
独り言のようにメシエは言った。
「何言ってるの」リリアはあきらかに不機嫌そうな顔だ。「それはそうだけれど、でも何かあったとき、力がなくて護れないのはもっと悔しいじゃない」
するとメシエは皮肉な笑みを浮かべたのである。
「君がそう思うことは知ってるけど、君が一番心配なんだけどねぇ」
「もうっ」
茶化さないで、とまたリリアはむくれてしまった。
まあまあ、となだめてエオリアは提案するのである。
「リリア、お茶のおかわり入れようか?」