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リアクション
●樹月刀真
一艘の小舟が波間に漂っている。
その舳先に、黒いレインコートを被った人影が立っていた。
岸が見えるや、彼はレインコートを脱ぎ捨てる。
樹月 刀真(きづき・とうま)だった。
彼は過去と訣別し、新たな覚悟を抱いてここに来たのだ。脱いだレインコートは丸めて船室に放り込んだ。
もう必要ない。
(「元旦の、あの日……」)
あの日、刀真は御神楽環菜のパーティに出席することができなかった。直前まで参加するつもりだった。しかし、会場に自分の居場所が見いだせないことに思い至ったのである。
(「あのとき、道が分かれたことに気がついた。俺はこの先、戦場にしか居場所を見出せないかもしれない」)
鞘から剣を抜き放つ。
このときを待っていたとでもいうかのように、白い刀身が冷たい光を放った。すっかり大人しくなった雨が、ちろちろと刀身を舐めていく。
剣の重みを確かめるように、両手で捧げ持ち何度か握り直した。強く青眼から一刀し水気を払うと、音を立てず鞘に戻す。
いよいよ岸だ。
あそこに戦場がある。
(「俺は俺の大切な物を傷付ける障碍を殺すために剣を振るおう、邪魔をするならそれも殺そう、それが誰であれ
何であれ必ず殺そう……それを成せない俺を俺は認めないし、許さない」)
黒豹、それも、獲物を探すときの黒豹の眼で刀真は一歩を踏み出す。
反乱者たるクランジを殺す。
首謀者クランジΘを殺す。
邪魔立てするのならばクランジΠも殺す。
他にクランジがいようと、シータに荷担するのなら斬り殺す。
(「クランジの自分達の国を創る、という夢自体を否定するつもりはない……だがそれが俺の大切な物を傷付けるのなら、その夢お前らごと殺してやる!」)
この意志は曲げまい。
「刀真……」
その背を眺め、漆髪 月夜(うるしがみ・つくよ)は不安で仕方がなかった。
彼が少しずつでも前に進んでいること、それは月夜も素直に嬉しかった。だが、どうしてもその姿に危うさを感じずにはいられない。いわばガラスの彫像、硬い心により硬い衝撃が加われば、たちまち砕けてしまいそうな。
月夜は、そんな刀真を支えるために――エゴとはわかっているが、自分が舫(もやい)となり繋ぎとめていられるように――今日、彼と共にこの小舟に乗った。玉藻 前(たまもの・まえ)が同行を申し出たが丁重に断っている。これもエゴかもしれないが、今回だけは自分一人で刀真を支えたかった。
刀真は一本の剣、殺意に満ちた修羅の刃となっている。戦場が見える。あれを目指し目的を果たそう。
「刀真、待って!」
月夜は強く彼を呼んだ。だが刀真は聞いていない。無視しているのではない。聞こえていないのだ。当然だ。今の彼は一本の剣なのだから。
しかし……。
「刀真!」
月夜は彼の腕を取った。刀真を強引に振り向かせると、彼のネクタイをぐいとつかみ自分の顔に急接近させた。
そして、刀真と唇を重ねた。
「……! 何を!」
熟睡中に揺り起こされた男のように、刀真は唇を離すとまばたきした。
今初めて、そこに彼女がいることに気づいたかのように、
「どうした? 突然……?」
頭は混乱している。
キス、された。
硬く冷たくなった心に急に、やわらかで温かなものを押し当てられたよう。
彼女の唇は、バニラのような味がした。
「不安だったの……刀真が、独りで遠くに行ってしまいそうで……」
「……そんなに……どこかへ行きそうな雰囲気だったか?」
自らの口調が間抜けに聞こえることは承知しながらも、刀真はそうやって言葉を繰り返すことしかできなかった。
うなずいて月夜は言う。彼の瞳を見つめて。濃く赤みがかった黒目に、自分の姿が映っていることを確認しながら。
「忘れないで。今までも、これからもずっと私は傍にいるということを。だって私は刀真の剣で花嫁、刀真のものだから……私が刀真を護る」
おずおずと刀真は、月夜の両腕に手を置いていた。唇が熱い。あの感触がまだ残っている。
「ああ、お前がいてくれるなら俺は誰にも負けないよ」
「行こう。刀真の護りたいって気持ちを満たす為に。そして、その気持ちを証明するために戦おう……二人で」
「そうだな。俺たち二人で」
もう一度彼女の唇が欲しいと、心のどこかが言うのだが、刀真はそれを振り払って向き直った。
戦場に臨む心が不思議と落ち着いていた。さっきよりずっと。